2014年07月29日

韓国は当面放っておけばよろしい

東京の舛添知事が韓国を訪れ、朴大統領と会談した。
予想通り朴大統領は従来の主張をまくし立て、日本の政治家を批判し、譲歩しろと迫ったようだ。
朴大統領の主張は分かりきっているのだし、舛添知事が行ったところで何らかの譲歩や態度軟化が期待できる状況ではないのは明らかだ。何のために行ったのか。
単に無駄足を踏んだならともかく、「わざわざご機嫌取りに来た」「ぺこぺこ頭を下げていた」と韓国内の宣伝に使われる始末。
なぜこの時期、この状況で韓国に行ったのか理解に苦しむ。

その後舛添知事は菅官房長官に帰国報告をしたらしい。そのなかで朴大統領が関係改善を望んでいるという「雰囲気」をひしひしと感じたというから噴飯ものである。
まぁ本人が感じたというのだから感じたかどうかは立証のしようがないであるが、報じられている内容から一筋でもそんな雰囲気が感じられただろうか。
関係改善を望むなら、妥協案を示すとか、新しい観点を示すとか、せめて対談の機会を設けようと呼びかけるとかあるだろうに。言いたいことをいって、あとは日本が誠意を示せでは意味がない。

なんだ、舛添という人は韓国の広報官か?

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そもそも日本の立場で日韓の関係改善を急ぐ状況だろうか。

まず、対北朝鮮政策で共同するという観点があろう。
しかし、対北朝鮮経済制裁という観点からは韓国の存在は薄い。
世界的な包囲網は米国が築いているから韓国がどうのこうの言える立場にない。
また、いま日本は拉致問題をカードに日本独自の制裁を緩めるか否かという主導権を得ている。人道問題となれば米国とて全部を否定できない。
韓国は米国に追従して制裁に加わるしか選択肢がないのである。日本憎しで対北朝鮮に融和政策をとったとしても、米国からの批判と国内の混乱は必至だろう。
今は米国と強調しつつ日本が飴と鞭で譲歩を引き出す局面にあり、韓国の出番はない。血迷って金剛山観光だの工業団地だの言い出さねばそれでいいのだし、それをやったらきついお灸をすえられるだろう。

経済面での観点もあろう。
日韓は互いにそれなりの貿易相手ではある。
韓国との貿易が停滞するとどうなるか。

日本にとってある種の安い海産物の輸入が止まる可能性があり、影響がないわけではない。ワカメとかアサリとか、安いものは中国韓国からの輸入である。
その他、鉄鋼製品やら電子部品やら輸入しているがいずれも安くて近いから買っているものであって、別の調達先がないわけでもない。
輸出先としても決して小さくはない。しかし、経済規模の小さな国である。これまた地理的に近く、文化的歴史的に流通が向いているという事情があっただけで、輸出先として代えがたいわけではない。
徐々に他国に振り向けていけばいいのだ。どうせ歴史問題くらいで貿易が全部止まるということはないのだ。徐々にやればリスクは避けられる。絶対の存在ではない。

逆に韓国では高度な電子部品や精密加工機械などを日本に頼っており、そう簡単に別の調達先が見つかるものではあるまい。今や世界を席巻しているサムソンのスマホも部品や加工機械は日本に頼るところが大きい。
また先に述べた海産物について裏返しになるが、日本人しか輸入しないものというのが多々ある。ワカメなんてのはその代表だ。多くの国では触るのも嫌だというのだから。
日韓の貿易が落ち込めばどちらに影響があるか。

また、科学的根拠がないにもかかわらず、東北でとれた農水産物の輸入を禁じるなど、ルールより感情で動く面が治っていない。これではFTAを結ぼうが意味がない。貿易相手国としてはもともと望ましくない。

別に無理にことを荒立てようと日本から貿易を絞る必要はない。だが、韓国が非理性的判断で貿易に手を出してくることはありうるのでそれに備えて対抗策を持つべきではあろう。韓国との貿易に頼らずにすむビジネス。

ここまで考えてみたが、あえて韓国にすり寄る必要は感じない。

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国の間に意見の相違はあるものである。歴史認識ならことさら。冷静な議論で差を乗り越えるのが理性というものだ。
韓国はとにかく自分たちが気に入ることだけが正しいとうロジックしか持っていないように見える。
また、その根底に「日本人は野蛮で下等な民族だ」「跪かせて頭を踏みつけにしてやればよい」「その構造は永遠だ」という考え方が見える。
歴史上の出来事がなぜそうなったかの構造も見ないでひたすら日本が憎いだけである。

こまごました交渉や妥協はもはや意味がない。相手は日本が土下座しても許さない、土下座し続けろというのだから。
まず客観的な原則論を前にだすことだ。
・歴史は常に再評価再検証されるべきだ
 新しい証拠、新しい技術による分析方法が出てくるのだ
・歴史評価は客観的事実によってのみ判断されるべきだ
 検証もせず都合のいい証言はすべて正しい、都合の悪い証言はすべてでっちあげだなんてありえない。

この2点を否定することはどう考えてもおかしい。

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日本は断固たる姿勢をとるべきだし、河野談話も見直すべきだと思う。
無論韓国は反発するだろう。頭が冷えるまで放っておけばいい。

結局長い目で見れば両国の友好につながる唯一の道なのである。

近視眼的に韓国に膝を屈して主張を引っ込めたら騒ぎが収まるかもしれない。だが未来はどうなる。
国民の間で、実は強制連行はなかったとか、韓国併合はやむを得なかったという見方は決して消えることはない。政府同士が偽りの握手を交わしても民族間のわだかまりが消えることはなかろう。

幸か不幸か日本人は素直で事実というものには弱い。自ら不利なことでも事実はっ認めるし、事実がすべてに通用すると信じている。
ところが世界は声の大きなもの力の強いものの意見がまかり通る側面がある。
そういう意味で日本人は甘ちゃんなのかもしれない。

だが、声の大きさを争っていては永遠に対立は収まらない。日韓の対立なんて世界的に見ればちょろいというもので、世界では「オスマントルコの所業が」とかいまだに国民感情に引っかかっているケースもあるのだ。そこに宗教がからめば対立は千年単位だ。
その点、日本を納得させるには事実が効くというのだから解決策がある。韓国は自身が正しいというなら事実で攻めればよろしい。韓国はその土俵に乗れるのか。
posted by Mozzo at 20:47| Comment(0) | TrackBack(0) | まじめな正論! | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年07月27日

昔ながらがいいってわけでもあるまいに

稚拙な主張である。文庫本をテーマとした連載コラムらしいのだが。
読売オンラインから引用する。

引用ここから====
電子書籍では出来ない読み方
2014年07月25日 08時00分

 手のひらサイズ本に古今東西の英知と人間の喜怒哀楽が詰まった文庫――。

 この魅惑的な小さな本の形の起源はどこにあるのか。新潮社の季刊誌「考える人 2014年夏号」は特集「文庫 小さな本の大きな世界」で、それを探っている。エッセイスト内田洋子さんの「創意と熱意の出版人 1501年、ヴェネツィア」によると、当時、貴族や富裕層のものだった大型で豪華な本を、「誰でもが片手で持てる幸せ」へとつくり変えたのは、熱き出版人アルドゥス・マヌティウスだった。初の小型本「ウェルギリウス」を刊行した狙いはコストダウン。紙とインクなど原材料費を削減、搬入の効率を良くし、在庫管理費を下げたのだ。

 大型本と異なり、簡単に持ち運びできる小型本は、図書館や書斎を飛び出し、いつでもどこでも好きな時に読める。しかも、乳白色の革表紙で、流れるような筆記体も美しく、面白く、安い……文庫の原型は、ここに誕生したのだ。

 日本の場合は、現在まで続くものでは、今年が創刊100年の新潮文庫を嚆矢(こうし)とするが、文庫サイズの本は江戸時代にもあった、と同誌は伝える。それが“小本”で、洒落(しゃれ)本など娯楽本を出していた。

 このどこでも読める文庫を、どこで読むか。特集の鼎談(ていだん)「やっぱり文庫が好き!」で、文芸評論家の坪内祐三さんは「ソファで寝っ転がって読む」と語り、作家の角田光代さんは、旅の友という。

 今や電子書籍の登場で、持ち歩く書籍の形態も変わりつつあるが、紙の本にしか出来ないこともある。ブックデザイナー祖父江慎さんの「ページをちぎって、それをポケットに折り畳んで入れて、木登りしながら読む」なんていう破天荒な読み方である。

 北杜夫さんが『どくとるマンボウ青春記』(新潮文庫)でつづる読み方も文庫ならでは、である。トーマス・マンの初期短編『トニオ・クレエゲル』(岩波文庫)を何回も覚えるほど読み、さらに校庭に寝そべって、いい加減に開いて出てきたページを読み、喫茶店では特別好きな箇所をぼんやり見やっては考え込む……。ついに昭和10年発行の文庫は、表紙がとれ、〈各ページの綴(と)じがバラバラになりかけながら、どうにかまだ本の形〉をしている状態になった。読書体験が、よれよれになった本の形に染みついているのだ。これは電子書籍には出来ない。やっぱり文庫はすごい。(編集委員 鵜飼哲夫)
引用ここまで====

ノスタルジーか知らんが文庫本が素晴らしいと思うのは個人の勝手で別によろしい。だが「これは電子書籍には出来ない」などと余分なことを言う必要はないのである。
「ページをちぎって、それをポケットに折り畳んで入れて、木登りしながら読む」が文庫本の利点なのか実用性のない魅力(バンカラを気取る?)なのかはどうとでも取れる文章ではあるが、実用性をいうならば電子書籍の方が優れている。
スマホをポケットに入れても木登りくらいはできるだろう。
大佛次郎大菩薩峠全巻であろうが、魔夜峰央パタリロ!全巻であろうが、紫式部源氏物語全巻であろうが、美内すずえガラスの仮面全巻であろうが運んでいける。
何ならこれら全部に秋本治こちら葛飾区亀有公園前派出所もつけたって平気だ。
バンカラを気取ってページをちぎって読むのに数分。また降りてちぎってのぼるのか。みっともない。

もちろん、こんな揚げ足取りのようなことはこのコラムを受けての売り言葉に買い言葉だ。突っ込みどころ満載だということがいいたい。

「狙いはコストダウン。紙とインクなど原材料費を削減、搬入の効率を良くし、在庫管理費を下げたのだ。」というのであれば、電子書籍は現代の科学技術に合わせた正常な進化形だ。同じく評価すべきではないのか。
むしろ論じるべきはそのコストダウンの恩恵が消費者に回ってこないことなのではなかろうか。商品化も製造コストも在庫リスクも紙と電子書籍では格段の差があるわりに値段の差がない。電子書籍の古本屋もない。

まぁ読売の管理下でそれは言えないのだろうがね。

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私は活字文化というものは重要だと思っている。いや、活字といってしまうと正確ではないな。活字なんてものはごく細々と残っているだけで、平均的な生活では活字で印刷したものなど身の回りにないに違いない。
正確に言えばほぼ文字だけで表現される種類の文化(回りくどいな)ということになろう。

文字だけで表現するということは、多くの省略が含まれていることになり、多くを読者の想像にゆだねることになる。
人物を描けば、見た目も話し方もすべて受け取り手が想像で決める。
「強そうな男」という言葉だけで、ある人はアーノルドシュワルツネガーがでっかい銃を撃ちまくっている姿を想像するかもしれないし、チンギスハーンが草原を馬で駆ける姿を想像するかもしれないし、武井壮がライオンを組み伏せている姿を想像するかもしれない。受け取り側の民族、文化、世代、人生経験で変わっていい。そこが文化として豊かだ。

ほかのメディア、ことに映像メディアではできない芸当だ。

では昔の紙の本を礼賛することはいいのではないかと思うかもしれない。
そうではないのである。
「電子書籍? わかってないね君は。活字文化は紙の本だよ」という冷笑的な態度が感じられたとしたら、これから物語を読み始める人間を遠ざけていくのではなかろうか。

紙だろうが電子デバイスであろうが、縦書きであろうが横書きであろうが、内容がすべて。個人の事情に合わせて読みやすいものを使えばいい話であるし、間口を広げてハードルを下げることが全体を活性化することになるのではなかろうか。

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古いものの方がいいという考え方。音楽にも似た人がいるなと思うのである。
曰く、トランジスタアンプより真空管の方がいい、CDよりアナログレコードだという志向である。時代が後になるとトランジスタアンプは認めるけど、トランジスタの種類にこだわりがあるとか、デジタルアンプはダメとかいろいろあるようだが。
同じく、古いものが好きというのは構わないが、新しいものとそれを使う人を侮蔑する必要はまったくないとおもう。CDなんて聴くやつはバカだと言わなくてもいいのに。

古いものにも優れている点があるのだろう。新しいものが切り捨てたものもあるのだろう。
だが、彼らが言うのは「音の立ち上がりが違う」「周囲の楽器に埋もれそうな音が聞き取れる」「人間が聞こえないはずの周波数を含むと音のふくらみが違う」とか結局広い意味でのスペック追求でしょう。切片の優劣を追求しているだけでしょう。そのご自慢のオーディオで結局何を聞き何に感動してるのかね。
雑音だらけのAMラジオの放送で流れる曲に感動することもあるのに。

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まぁ冷静に、客観的に考えればこんなノスタルジーに浸っただけのことにいちいち文句を書くのは大げさに過ぎるのかもしれない。
ただ、どうにも引っかかるのがこうした古いもの万歳&新しいものに飛びつくのはバカという姿勢がかえって文化の力をそぐような気がするということである。
posted by Mozzo at 10:15| Comment(0) | TrackBack(0) | まじめな正論! | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年07月26日

武装勢力が攻撃準備か

7月26日未明、公安調査庁は未確認情報と断ったうえで武装勢力が攻撃準備を進めていると発表した。
発表によると武装勢力は東京隅田川周辺に攻撃兵器の設置を進めているとされる。最初の砲撃予定は26日19:00頃という情報もあり、関係機関に警戒を呼び掛けるとともに、一般人が現場周辺へ近づかないよう求めている。砲撃の噂を聞きつけた市民が集まりつつあり、中には場所取りをしてまで見物しようという野次馬がいる模様。
情報筋によると、設置されているのは高射砲で数十門から数百門におよぶ多数があるとされる。この多数の高射砲はすべてコンピュータ制御でタイミングを測り、一度に百発以上の斉射・連射が可能であるとされる。
また、砲弾は特殊なクラスター砲弾で一発の砲弾の中に複数の子弾が格納され、空中で爆発四散し破壊力を高めるとのことである。武装勢力はこうした砲弾を数万発規模で保有しているとの情報がある。
現場には帯状に火薬を仕掛けた防御壁も建設され、この火薬で外部からの突入を防ぐものと思われる。この防御壁は一部でスターマイン防御と呼ばれ、星が降るかのごとく火炎を放出し仮に外部から砲撃しようにも的を絞らせない効果がある。

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雨降らないといいね。
posted by Mozzo at 10:17| Comment(0) | TrackBack(0) | くだらない一言 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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