2014年08月17日

オフロードバイクでどこでも走っていいとでも!?


こういう事故も起こりうるのかと驚愕した。
産経ニュースから引用する。

引用ここから====
胸に木の枝刺さり女性死亡 バイクで山林走行中 長野
2014.8.16 22:53 [事件・トラブル]

 16日午後0時25分ごろ、長野県下諏訪町社の山林をオフロードバイクで走っていた女性の胸部に木の枝が刺さり、死亡した。諏訪署は神戸市の40代の会社員とみて、身元の確認を急いでいる。

 同署によると、現場は舗装していない道で、女性は関西方面のバイク仲間5人と一緒に訪れ、先頭を走っていた。死因は失血死で、同署は道の脇に生えた木の枝が刺さった後、転倒したとみて事故原因を調べている。
引用ここまで====

先頭を走っていたというから先行車が跳ね上げた枝ということもないようだ。
刺さるほどとがった枝が自然に生えていたか、以前その場所を走ったバイク等が折った枝が残っていたかというところだろう。

これを「気を付ければ安全なスポーツ」として肯定するとしたら、この女性の落ち度は何だったのだろうか。
事前にルートを徒歩で確認して危険物を撤去すべきだったのか? おそらくそれはこのスポーツの醍醐味を失うとして否定されるのだろう。
防弾服のような貫通を防ぐような防具をつけるべきだったのだろうか。枝が刺さるという事件は回避できたとしても、自然の中に突っ込んでいったら何が起こるかはわからない。つる性の植物が首にかかって閉まるかもしれない。毒草に触れるかもしれない。樹上にいる蛇に襲われるかもしれない(日本ではめったなことはないでしょうが)。
予想もできない事故の可能性があることだろう。

この山林の持ち主が誰かは記事からはわからぬが、バイクで踏み込んでも安全ですなどというわけはあるまい。はたして持ち主が納得していることなのかどうかも疑問である。

バイク仲間5人と連れ立っていくくらいであるから、「ごく変わった人の趣味」ということではないようだ。
日本にこんな変わった人は3人くらいしかいないということならまだしも、「同好の士」が集まるほどメジャーであるなら、はたしてそれが許容されることなのかどうかは吟味されていい。

当然、オフロードバイクで山林に踏み込めば薄い土壌を破壊し、排気ガスをまき散らし、騒音に弱い動物に影響する。メジャーになっていいものとは到底思えない。
でこぼこしたオフロードバイクのタイヤで地面をかき削れば、猪が何百頭と歩くほどのダメージを与えるに違いない。

さらに言えば、亡くなったのは神戸の人、事件の現場は長野である。
豊かな自然を「浪費」するために来たのか。本人は気持ちがいいかもしれないがはたしてそれが妥当であるのか、亡くなった方がいるのに責めるのははばかられるかもしれないが、考えてみる必要がある。
オフロードバイクを楽しみたければ地元神戸の坂道や階段を走ればいいのではないのか。むろんそれは地元の人に怒られるだろう。だが、神戸で怒られることを長野でやっていい理屈はない。迷惑を受ける側に抗議する力があるかないかの違いに過ぎない。
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ブラックすき家に考えるわれわれの消費生活

牛丼チェーンの「すき家」を展開するゼンショーホールディングスが今期決算見通しを41億円の黒字から13億円の赤字に見直したと報じられた。

すき家は苛酷な労働条件が問題となっていた。
報じられるのは想像を絶するものである。
深夜の一人勤務、24時間勤務、月間500時間勤務、2週間家に帰れないなどなど。すき家には奴隷制度があるらしい。
ことに深夜の一人勤務については強盗の標的になっているとかねてから指摘があったにもかかわらず、複数の従業員を張り付けるコストと強盗に奪われる金を比べれば強盗の方がよいと非公式には語られている。

さすがに労働者側も嫌気がさしてやめていき、時給を上げても人は集まらず、人が集まらないから店は荒れ、と悪循環で一時閉店に追い込まれる店が多数。これでは利益はおぼつかない。

いわゆるブラック企業として批判を受けるも経営者の鼻息は荒かったのだが、最近やっと改善しようかという状況になったそうな。まぁ数年遅い。

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深夜の一人勤務を考えるということ自体が頭が悪い証拠なのである。
昼に5人で一時間に5万円売り上げたとしよう。客数百数十。5人いれば問題なく回るだろう。
同じ店で夜間の一時間に1万円だったら1人で回るだろうか。客数20少々。一人で作って出して会計して掃除して食器洗って。回るわけがない。
二分数十秒に一人なんだからなんとかなるだろと思った人は甘い。波があるのである。終電とか終バスとか近所の店の閉店時間だとか、なにか要因があって急に込むことが普通なのだ。均せば一人に二分数十秒かけていいとはいえ「いま先客が4人いるからお客さん10分待って」は通用しない。
当然ながら売り上げゼロでも店を開ければ人は必要だし、役割分担できなければ効率は下がるのである。
人間が具体的にどう働いているかを想像することもできず、たんなる単純な数字としてみているからこうなる。

なにも単純に労働者を大切にしろということを言いたいのではない。
短期的に人件費を抑えて儲けが出たとしても中長期的にみればマイナスになることは今回の事例が証明している。そこが問題だ。

一人勤務は表面的・一時的に人件費の削減をもたらすだろう。
だが、即座に数字に表れないところに影響はあるのだ。

一人勤務の弊害は客にも見える。
ネットに投稿された画像には、客席(テーブル席)の一隅に積み上げられた使用済み食器の山というのがあった。店員はトレイをとりあえず引くことしかできず、洗い物にまで手が回らないのである。
さらにいえば、手間のかかるテーブル席を使用済み食器で埋めてしまえば、客はカウンターに座らざるをえまい。そういうこともあるかもしれない。
そんな荒れた客席で食事をしたら次も行こうと思うだろうか。
ましてやトイレが荒れ放題でもどうにもなるまい。

無論、客に見えないところの様子は推して知るべしだ。私自身飲食店でのアルバイト経験があるからわかる。忙しくて手が回らないと最初に犠牲になるのは衛生である。
本来であれば「数をこなす」のは飲食店の第一の使命ではないから、本来の美味しくて衛生的なものを提供するためには客を待たせる、結果数をこなせないという姿が正しい。しかし、店員は客と上からのプレッシャーで衛生を犠牲にしがちだ。

チェイン店ともなればマニュアルで衛生関連のルールが決まっている。
器具・用具を何分ごとに洗浄・消毒するとか、ストックしている完成品(たとえば揚げたポテト)や半完成品(たとえば焼いた卵)、調理のためにセッティングしてある食材(たとえばピクルス)、冷蔵庫に入っている下ごしらえ済みの食材(たとえば切ったトマト)の保持時間がきっちり定められている。
キッチンで使う布巾は30分ごとに消毒するとか、ポテトは7分で捨てるとか決まっているのである。
忙しくなれば布巾を消毒している暇はないし、ポテトはまとめて揚げて30分経っても売るというわけだ。

食事に行くと「この店回っていないな」と思うことが時々ある。
確かに客が多いが回転が悪く、みんな料理を待っている状態。店がてんやわんやという感じがする。
たまたま予想もしないラッシュが来たというなら許せるが、いつもこうなら人数が足りないか全体に効率が低いのである。衛生面は推して知るべし。

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人件費圧縮は安直なコストダウンである。企業として最大限の効率化は当然のことであるが、行き過ぎて衛生や労働者の人権を損なうレベルに陥りやすい。

人件費以外のコストダウンは大変に難しい。削減幅が限られていたり初期投資を要したりする。
たとえば電気。売り手の言い値で買わされる。それが力関係である。
節電も限界があるし、省電力機器に置き換えるには初期投資が必要だ。
食材も同じ。調達先を選定したり、一括調達・直営農場など工夫はできるが、大幅なコストダウンができるほどであればそもそも食材を売る企業としても成功できるだろう。そう簡単にコストダウンの余地はない。
店舗を作るコストも工夫はすれど限界はある。吉野家は専門の店舗設計施工チームを持っていて、内装や施工の共通化でコストと工期を圧縮しているそうだがそれでも出店時の一時的な効果だ。

その点人件費は簡単だ。二人いる人を一人にすればあっという間に半額。

無論、人件費を浪費していいわけではない。
最適化・効率化は最大限工夫されねばならないだろう。だがそれを安直な労働者の酷使、低賃金に頼っては経営者が能無しだと言っていることと同じだ。

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正しい効率化はまだまだできる。最近の工夫を見ればいい。

たとえば、一昔前はどんぶりに飯を盛るのは手動であった。だが今はコンパクトな機械で自動でできる。保温ジャーを置くのとほぼ同じスペースでストックしたご飯を自動で適量に盛り付ける機械が設置できる。みそ汁も自動で盛り付ける機械がある(これは昔からあるが)。
手動だと飯を盛る→みそ汁を盛る→客に出すという順になるところである。これが、どんぶりをセットしてスイッチOn→みそ汁椀ををセットしてスイッチOn→どんぶりを手に取る→みそ汁椀を手に取る→客に出すということになる。文字にするとステップが増えてしまったが一人でも作業が並行できるので全体では早い。
しかも、一人の客が注文して商品が出るまでの時間も短縮される。客にとってもうれしい。

さらに、機械は手動では簡単にできないことも一瞬でやってのける。
このみそ汁の自動ディスペンサーなんてものは手動では追い付かないわけである。すでに鍋にできているみそ汁を盛るならまだしも、即席とはいえ手動で粉なり生みそなりを椀に入れて湯を注ぐのは手間がかかる。機械なら数秒だ。

で、このみそ汁ディスペンサーが近年進歩しているのである。
従来は乾燥したインスタントみそ汁しか使えなかった。適量の粉末と湯を混ぜて椀に注ぐのである。ところが、最近では生みそのみそ汁の素と熱湯を混ぜる方式の機械が普及している。
これが優れモノである。
従来の手軽な外食店のみそ汁は、粉末のインスタントか大鍋に作り置きしたみそ汁を椀に注ぐだけかであった。作り置きしたみそ汁は当然味が落ちる。粉末も独特のおいしさはあるが、味噌の芳香は味わえない。
インスタントでも生みそはバカにできないおいしさなのだ。
もちろん即席であり、きちんと出汁を取って、具を煮て、味噌を溶いた煮え端に提供されるものに勝てるわけではなかろう。だが、庶民的な店でそんな対応はなかなかむつかしい。
これが大変好評で、定食屋、ファミレスなど庶民的な飲食店では「この店はみそ汁がおいしい」と客が気づくほどであるのだ。

効率化からだいぶ脱線してしまったが、効率化をしつつ質を上げる方法を模索するというのが経営者として正しいのではないかと思うのである。

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安直な、客も従業員もそして株主も喜ばない人件費削減をなぜやるか。
それは、ここまで述べたとおり安直であり、即効性があるからだ。
物いう株主が意見しても動かない。数字だけ見る経営者と、数字だけ見る大株主が動かないからだ。

ではどうすればよいのか。
まず、労働組合は全くと言っていいほど頼りにならない。
個別に団体交渉でその企業が「まとも」になったとしても、労働者を使いつぶすような他社に短期的にコストで勝てるはずがない。労働組合というのは戦術的に間違っているのである。
話の発端が企業間の競争であるのだから、最低限の労働環境を守った上で競争条件を等しくせねばならないわけである。これは一企業と労働者の押し引きでできることではなく、公がスタートラインをつくるべきだ。労働組合も実効性を考えるなら公に向けて活動したらどうなのか。

企業は労働関係の規制が厳しくなると、価格競争に勝てないだの価格が上がるだの文句を言うだろう。牛丼が高くなってもいいのですかと。
牛丼200円台というのが奴隷労働を前提に成り立っているのであればそれは間違っていると消費者自身が気づかねばならない。200円台でないと困る食生活であるなら、当人の低収入こそが問題であり、自分自身が奴隷であると知らねばなるまい。

なぜか公は公共事業だのなんだのと税金を直接投入する経済介入は大好きである。
しかし、経済活動を正常な方向に仕向ける適切な規制には消極的である。
はたしてわれわれの政府や地方自治体は真に労働者を守り、いたずらに経済を圧迫しないような適正な規制をしてくれるのだろうか。

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繰り返すが安ければいいというものではない。何事も妥当な値段というものがある。その商売がずっと続き、生産者・販売者が搾取されないような値段である。
消費者もそこを理解せねばなるまい。

私の世代だからだろうか。ながらく牛丼並盛400円、大盛500円という感覚を持っていた。当時と今とでは物価が若干違うとは思うが、たいした違いはない。あえていうなら昔の400円の方が今の400円よりも価値は若干高いだろう。当時としても商品価値とくらべて高価なものだとは思っていなかった。

狭いカウンターとはいえ、椅子に座ってお茶も出て、温かい食事ができて400円。しかもお肉も乗った食べごたえのある食事。
安いと言えば立ち食いウドン・ソバもある。素うどん・かけそばなど牛丼よりも安いメニュもあるものの、同じ食べごたえを追求すれば似たような値段になる。
安いと言えばほか弁ののり弁もある。当時290円だった。ご飯に食べごたえのあるおかずとしては牛丼に伍するが、店頭で食べられるわけでもなし。深夜に食べられるわけでもなし。
牛丼より安い食事はあったものの、トータルの満足度として便利さとして牛丼が割高という意識はなかった。

別に400円でなんの文句もなかったのだが、あるときファストフードの価格戦争が始まった。牛丼が200円台、ハンバーガーが100円台。狂乱である。
一部の人は大いに喜んだ。100円のハンバーガーをまとめ買い、満腹になるまで食べてうれしかっただの、冷凍庫にストックしているだの。一方で昼ご飯は牛丼に強制され、昼食代を削られた悲しいサラリーマンの話もあった。
若いころからの吉野家牛丼ファンである私は変わらず食べに行ったのであるが、場合によっては店がすごく荒れていて、客数に追い付いていないためげんなりしたこともある。深夜の一人勤務に似ているが、頭数の問題ではなく店のハードウェアが追い付いていないように見えた。

値下げ戦争も終わった今、低価格だけが残っている。牛丼200円台なかばが当たり前になってしまい、一時的に380円(昔より安い!)にした吉野家が業績を落とすほど。安くしたところで400円時代より客数がぐんと増えているとはいえまい。客席の混み具合も昔とさして変わらない。常に満席くらいの勢いで売れなければ値下げした意味がない。利益を圧縮して客数で勝負する戦略であるはずなのだがもはやつぶし合いといえよう。
コストダウンの原資は、納入業者に「たくさん買うから安くして」と交渉したり、従業員に「時給払っているんだから一瞬たりとも休まずに働け」と迫って成り立つ価格ではなかろうか。

「たくさん買うから安くして」が成り立たなくなればこれまたしわ寄せは従業員に行く。さもなくば中国産など怪しい危険な輸入食材に傾くかもしれぬ。
値下げ戦争で安い値段を刷り込んだのは牛丼業界の責任ともいえるが、消費者としてこの感覚のままでいいのだろうかと思う。持続可能で従業員を搾取せずとも成り立つ価格を。その価格を気にせず払えるわが身の待遇を。

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われわれ一般消費者にはどうしようもない部分もあるが、できることもある。
まともな企業を応援して選ぶことである。
労働者の人権を軽視している会社の店は利用しない。どんな会社でも安くてうまいものを出せばいいのだという考え方もあろうが、そこは義憤というものを持とう。
暴論かもしれないが、ブラック企業という噂が出た時点で避けていいと思う。大企業ほどメディアへの影響力があり(すき家程度では影響力はない)、メジャーなメディアは扱わないこともある。だが、独立系の雑誌やネットメディアではきっちり扱っていることもある。
デマということもあろうが、それを含めてイメージ対策をするのが企業の責務だ。つねに緊張感を持つのは悪いことではない。

怪しい食材を仕入れている会社も避けたい。これは自らを守ることにつながる。この期におよんで中国産の食材を使っている店もあるが信じがたい。先日も中国産の玉ねぎから基準以上の農薬が検出された事件が報じられたばかりだ。例の期限切れ鶏肉の件も合わせ、中国の技術なら「きちんとやることができる」にも関わらず儲けや手抜きのためにやらない様子がうかがえる。
ここまできて中国産の食材はすべて怪しいと断じてなにが悪いだろうか。いくら検査をするといっても食材なのだから全ロット全数検査なんてできないのだ。安心は検査ではなくまともなものを作る土台を買うべきなのだ。

つい脱線してしまったが、今回注目されている深夜一人勤務一つだけみても消費行動を変える理由になる。
牛丼屋を対象にした強盗事件のうちすき家が対象の事件が全体の8割とも9割とも報道されていた。強盗に出くわしてたまるものか。
また、それが深夜一人勤務のせいだと聞けばなおさらである。
たとえ見知らぬ土地に泊まることになろうとも、
あれば吉野家、なければ松屋、すき家無視してコンビニ弁当、なのである。

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大脱線して話を広げると安ければいいというのはいろんな分野に見られる。資本主義だから市場経済だから当たり前といえばそれまでなのだが、それで流通が崩れてしまえばわれわれの首を絞めることになる。

たとえば、魚。たいてい、漁師さんが魚を獲るところからスタートする。
養殖もあるが、その餌は海からとってくることが多い。
その魚を大卸が買い、仲卸が買い、小売店が買い、われわれの食卓にやってくる。
その間に運送業者だの燃料だの漁船を修理する会社だのいろんな業種がぶら下がっている。
その登場人物は買い叩く人、買い叩かれる人、買い叩かれない人、買い叩けない人が混在している。
漁師は大変である。魚が獲れようが獲れまいが燃料代はかかる。燃料屋は成功報酬(?)ではなく、値引きも効かず、燃料代は取られてしまう。
漁師自身は買い叩かれる立場だ。魚が足りない時だけはちやほやされるが、需給の見極めがついてしまえばぎりぎりまで買い叩かれる。安ければ売りませんと持っていることもできない。腐っちゃうから。
魚を運ぶ運送会社も買い叩かれ、燃料は買い叩けない。
無論卸も暴利をむさぼっているわけではなく、仕入れた魚が売れないリスクは負うが、ある魚が評価されない市場で安く買って、高く評価される地域で売りさばくこともできる。意外と地域差があるのだ。市況を読んで自らの才覚で商売を作れる人と買い叩かれる人の違いは大きい。

がちがちの統制経済を望むものではないが、適切に規制して、利益が分配できるようにしたほうが長く続くのではなかろうか。
漁師の人をレポートした記事をよく読むが、異口同音に自分の子供には継がせたくないという。また、新しい漁船を作るなんて余裕は到底ないともいう。壊れても中古の漁船を買ってだましだまし使っている。この先どうなるやら。

これもわれわれ消費者ができることは少ない。
正しいものを選ぶにも何を選んだらいいのか。
少なくとも鮪食べ放題とかカニ食べ放題とか、出所の怪しいものを食べ散らかすような店に近づかないことだと思う。国内産の産地のはっきりしたもの、しかも希少価値ではなく扱い方で付加価値を見出しているものを選んで大事に食べることではなかろうか。扱い方というのは主に魚の締め方と輸送時の氷の使い方である。
詳しいことは調べていただきたいが、野締めと活締めの違い、下氷と水氷の違いである。手間をかければ同じ魚の価値が上がる。無論、土地によって異なる旬についても目を向ける必要があろう(日本は東西南北に広いのだから、ナントカの旬は何月と覚えること自体が愚かだ)。

====
考えてみれば、食事に限らず、衣食住すべてにおいて安ければいいというものではないということは成り立つ。
だが、貧すれば鈍するのたとえ通り、自らの収入がおぼつかねば目先の安いものに流れるのは道理である。その行動が国内の優れた生産者を追いつめるとわかっていたとしても。

価値あるものを消費しようと、くだらないものを消費しようと、あるいは望まないものを消費しようと、GDPとくくってしまえば為政者には見えなくなってしまう。
消費の質を測る指標が必要なのかもと思う昨今である。
posted by Mozzo at 13:29| Comment(0) | TrackBack(0) | まじめな正論! | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年08月14日

まんだらけの万引き騒動

考えさせられる騒動である。

引用ここから====
返さなければ顔公開…「万引き犯」警告に波紋
2014年08月11日 11時53分

 古い玩具や漫画などを販売する古書店「まんだらけ」(東京)で、鉄人28号の人形を万引きしたとされる男の写真がインターネットのホームページに掲載されている。

 顔にはモザイクがかけられているが、人形を返さない場合は「モザイクを外す」と警告しており、有識者からは「気持ちは分かるがやり過ぎ」との指摘も出ている。

 まんだらけのホームページには、警告文と盗まれた鉄人28号の人形の写真、さらに同書店で防犯カメラに映った男の写真が、顔にモザイクをかけた状態で公開されている。万引きしたとされる男が12日までに人形を返さなかった場合、顔写真のモザイクを外して公開するとしている。同書店は警視庁中野署に万引きの被害届を提出している。

 まんだらけのネット掲載について、ネット関連の法律に詳しい森亮二弁護士は「人形の万引きは窃盗罪。難しいケースだが、モザイクを外して顔写真を公開すると男を脅すことは、脅迫罪に該当する可能性がある」と指摘する。

 甲南大法科大学院の園田寿教授(刑法)は「書店の気持ちも分かるが、多くの店が同様のことをしたら社会が混乱する」と話し、「モザイクが外され、窃盗犯としてネット上に公開すれば、男への名誉毀損罪が成り立つ。店側の行為が公益目的と認定されれば名誉毀損罪は免責されるが、このケースは該当しないだろう」と分析する。

 まんだらけは「全ては盗んだ方の出方次第。返還されない場合は画像公開、犯人の特定を行う」とのコメントを出した。
2014年08月11日 11時53分 Copyright コピーライトマーク The Yomiuri Shimbun
引用ここまで====

別の報道では鉄人28号のブリキのおもちゃでお値段数十万円だとも。個人的には全く価値は見いだせないのであるがそれはさておき。

法律などに詳しい識者から言わせるとやりすぎということで、確かにルール上はそうなんだろう。文中にある脅迫、名誉毀損という問題のほか、他の報道では「私刑」であるという問題も指摘されている。
ルールとして悪い。それは確かだ。だがそれだけでいいのだろうか。納得がいかんのである。

たしかに警察に証拠を提出してあとは任せるというのが理屈としては正しいのだろう。だが、いまや窃盗犯が多すぎてなかなか本格的な捜査をしてくれないという。
受け付け順でやってくれればまだしも、おり悪くウン億円宝石窃盗事件があれば優先になるんではなかろうか。警察のメンツがあるから。
数十万円といえばそれほどの高額ではないという言い方もできよう。宝石、自動車、美術品、職業的窃盗犯の対象はたいていもっと高いものだ。

警察に行ってもどうにもならないからと強引な手法をとったことを一概に責められないようにおもうのだ。
話題になることで盗品が転売される危険もかなり下がるだろう。警察に任せていたら話題にもならず転売され、犯人を捕まえても盗品は戻らないこともありうる。もちろん、犯人を追いつめることで盗品を破壊・廃棄される危険もあるのだがそこは賭けなのだろう。
これしか有効な手段がないと思えば。

いくら高価であってもお金で代わりがあるものならばよい。だが、この手のものは一度失われれば二度と戻らないものではなかろうか(ですよね?)。私には価値は理解できないのだが、歴史が作り出した価値はそれがなんであろうともかけがえのないものであることは理解できる。何億円かけようとも、精巧なレプリカは作れても、製造後何十年かたったブリキのおもちゃの本物は作れないのである。
そこには金額に換算できない、当事者だけにわかる価値観があるのではなかろうか。

警察が無力で、大切なものを取り返すにはこうするしかないとしたらどうなんだろう。そして、最終的に写真を公開して犯罪を形成するとしても、それによって守られる価値と比べてどうなんだろう。緊急避難とか正当防衛といった概念にちかいものを考慮せねばならないようにも思う。いや、緊急避難で免責されないとしても、犯罪を顧みず大切なものを守るというひとはいるだろう。それを妨げる方法はないし、ある程度の共感・同情を禁じ得ない。

====
もちろん、大事なものを守るから犯罪行為OKということを主張したいわけではない。警察が完璧な対応をしてくれたらそれが一番なんだろう。
だが、警察にとって窃盗犯など日常のできごとであろうし、予算にも限界がある。対応力は有限だ。かりに全力の体制をとれたとしても被害者にとっては即時完全解決を望むわけで、満足がいくとは限らない。どうしたって実態とは開きがでる。実際には警察が100%の満足を提供することはできまい。

この文章を寝かしているあいだに、まんだらけ側は警察の要請に応じて公開を中止したそうである。犯人の目星がついているならいいのだが。

不謹慎な話だが、私はこの事件についてまんだらけ側が突っ走って画像を公開し、犯人も登場し、法廷で対決してもらいたかったと思う。うまくいけばさまざまな常識を問い直す裁判になったかもしれない。
いろいろ司法が示さねばならないものが突きつけられる。

はたして今回盗難にあった商品の価値をどう判断するか。
犯人側は売値の数十万円を価値と主張するだろう。だが、原告側としてはそれは単なる市場価格であって、文化遺産として社会で共有(所在が明確で開示される)されていることを前提に、その価値は市場価格に乗っていないと主張するだろう(してほしい)。
文化遺産としてあえて金額に換算すれば1000億円だけれども(歴史は1000億円でも作れないが)その価値は不動に維持されたまま所有権(というよりは管理権)を移転するための金額が市場価格だと。いや、1000億円払ったからと言って、文化遺産を叩き潰して捨てる権利が買えるだろうかと。
司法としてその価値を認めるか認めないか。市場価格ですぱっと切り捨ててしまえば簡単だけれど、それで正義が実現されることになるのか。司法は正義を考えているのか。いや個別の共感できない価値観を取り上げるのが正義か。議論を呼ぶだろう。

また画像公開にまつわる行為が犯罪としても、窃盗とのバランスをどうとるか。
警察とて状況によっては犯人の画像を公開する。最近では詐欺集団がATMから金をおろす画像を公開していることが目立つ。警察がしていることを民間がやってはいけないという道義的理由はなにか。公開する手順があるのだから、公開しないのは警察の不作為ではないかという疑問も出てくるだろう。被害者側が要請したら公開するのが原則としていいのではないかという議論があっていい。
犯罪者のプライバシーだけが大事だと言わんばかりの一部識者には辟易とする。

一方で、刑事裁判に耐えうる証拠画像かどうかは素人に判断しがたい部分があって、商品を手に取って鞄に入れた画像があったとしても、画像に残っていない場面で棚に戻したと主張されればそれを突き崩す周辺の証拠が必要になるのは目に見えている。
冤罪の可能性も含めて、刑事裁判に耐ええない画像を公開した責任もまた判断されることもあろう。

私自身いろいろ考えてしまって、こうあるべしという結論に至っていない。
翻って報道をみると「脅迫罪を形成するからダメ」などと切片しか見ていないように思う。切片しか見ていないから共感を得られずひいては司法や法曹界への信頼が揺らぐかもしれない。
いろんな事件をきっかけに、正義ってなんだろうと何度でも問い直すことだけが先につながるのではと思うばかりである。
posted by Mozzo at 09:57| Comment(0) | TrackBack(0) | まじめな正論! | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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