2014年09月30日

都議会セクハラ野次騒動その後 議会は議論をしなさい

例のセクハラ野次騒動で都議会が変わったというのだが。

引用ここから====
ヤジ自粛の都議会「丁々発止の議論もなかった」
2014年09月26日 14時21分

 セクハラヤジで注目を集めた東京都議会で24、25日の両日、各会派の代表質問、一般質問がそれぞれ行われた。

 2日間で一般傍聴した人は、6月定例会の計240人より48人多い計288人だった。

 6月の定例会でセクハラヤジがあった後、市民グループなどがネット上で、都議会を傍聴するよう呼びかけている。こうした動きが傍聴者の増加につながったとみられる。

 都議会では、これまで与野党がお互い、相手の質問中にヤジを飛ばし合っていた。今回はほとんどヤジがなく、議場には質問と答弁の声が響き渡った。
 2月の都知事選に立候補した宇都宮健児・元日本弁護士連合会長は2日間にわたって傍聴。「ヤジも少ないが、丁々発止の議論もない。台本通りのやり取りが続き、これでは傍聴者も興味を持ちにくい」と感想を述べた。
2014年09月26日 14時21分 Copyright コピーライトマーク The Yomiuri Shimbun
引用ここまで====

はてさて、記事末尾の宇都宮弁護士の発言も引用が端的で意味が分からぬ。
野次自粛前は丁々発止の議論が成り立っていたというのだろうか。

まず大前提として、野次は議論ではない。端的な言葉を投げつけているだけで単なる罵倒や当てこすりである。単に茶化しているだけだ。議論というからには論の応酬がなければならんだろう。
野次をやめたら丁々発止の議論がなくなったと彼が感じたのは事実であろうが、野次は議論ではないと考えれば以下の可能性がある。

(1)野次を禁じられると議員がやる気を出さないので議論をしなくなる
(2)野次で盛り上がっているのを議論が盛り上がっていると宇都宮弁護士が誤解している(もとから議論なんてしていなかった)

上記(1)については当然議員が責められねばならない。議論しろよと。それが仕事だろうと。

上記(2)であるなら宇都宮弁護士の見識を問う必要もあるのだが、そもそも議会が議論できる仕組みになっているのかも問われよう。議員は議論していないのか「できない」のか。

かねてから、国会をはじめ議会というのは儀式だけやっていて議論をしていないと思っていた。事前の根回しで結論は決まっているのだろうなと。
徹底した議論を言うのであれば、議長が指名して長々としゃべり、また長々と質問し、それが粛々と進むなんてことがあるわけがない。
昔に比べれば説明資料を用意して視覚に訴える方法をとる議員もいる。それは悪いことではないのだが、事前に用意したものでことが足りていること自体がおかしい。
相手の論の矛盾をその場で絵にかいて、ここがおかしいと指摘することができねば意味がない。絵にして見せねば有権者にも伝わらない。議会にはホワイトボードが必要なのである。

議論の場にホワイトボードがあるのはビジネスで議論を詰める場(えらいさんが出てくる儀式もあるけど)なら当然である。また、進行役はいても自由に(節度を持って)発言し議論を進める。
もうちょっと企業の会議を見習ってもいい。

また議会戦術というものが全面に出すぎていて、発言時間を極端に絞るなんてのもおかしい。
企業の場合は会議で決定したことを実行するのが本業であるから、会議の時間に制限を設ける。それでも結論が出るまで延長延長ということも珍しくない。
議会は議論をするのが本業であるのだから、結論が出ていないのに発言時間を越したのでおしまいなんてことがあっていいのか。議論が足りねば徹夜でもなんでもすればよろしい。
もちろん、議会戦術で牛歩なんてことをする阿呆もいて議論を引き伸ばしにかかる懸念もあるが、それは別の方法で制限すればよい。

この騒動、野次が云々ではなく、まず議会が議論の場になっているのか再度検討すべきなんではないかと感じる。セクハラ野次を飛ばした側は真に反省している様子もなく、人権意識の欠如した失言がその後も周囲から漏れる、大変に残念な様相を呈しているが、この騒動から議会で議論をするという当たり前の改善を引き出せれば、都民の視線も変わることだろう。
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2014年09月29日

AV撮影現場は穢れている? 倫理観の裏にある差別意識

提訴するのは勝手といえば勝手だが、その思考回路が気持ち悪い。
産経新聞から引用する。

引用ここから====
「AV撮影現場は保養所に不適切」 渋谷区議が提訴
2014.9.24 19:16

 東京都渋谷区が区民保養所に使うため購入した静岡県河津町の旅館が「アダルトビデオの撮影に使われた場所で、保養所には不適切だ」として、堀切稔仁区議が区長を相手取り、購入費用1億1千万円を旅館側に返還請求するよう求める訴訟を24日、東京地裁に起こした。

 訴状によると、旅館は3月に休業し、渋谷区は4月に土地建物を買い取る契約を結んだ。しかし、堀切区議が調査したところ、平成18年から昨年までに複数回、アダルトビデオの撮影に使われていたことが判明。7月に契約解除を求めて住民監査請求したが棄却されたという。

 堀切区議は「人々が安らぐための保養所にはなり得ない。老朽化が進んで購入価格も不当に高く、契約は無効だ」と訴えている。

 渋谷区によると、保養所は改修を進め、10月のオープンを予定。区は提訴について「監査委員の判断が出ており、適法と考えている」とコメントしている。
引用ここまで====

別にAV撮影が健全だと言いたいわけではない。
倫理的に批判があることも承知している。私はいかがわしいとしても世の中に必要なもの存在が許されるものはあると思っているが。

当然AV撮影は違法ではない。
いや、違法であったとしても「場が穢れた」とでもいうような発想はどうかと思う。

物理的には何の意味もない。
平均的な嗜好の作品であれば、男女が性行為あるいは擬似性行為をしてそれを撮影していただけのことである。
旅館であるから若いカップルが宿泊したこともあろう。旅行でビデオカメラを持っていたこともあろう。普通のことである。物理的にはAV撮影もカップルの旅行も同じだ。
せいぜい、カメラマンなどスタッフもいたかどうかの差か。
カップルが泊まった旅館なんて許せないとは言わんだろう。

どうも、この提訴のベースに偏狭な発想があるようにしか思えないのだ。
AV撮影を穢れているとばかりに否定するその根拠はいったいなんなのか。

二つの問題があると思う。
一つは性行為を享楽的にとらえることが悪いことだという発想である。
もう一つは場が穢れてしまったという発想である。

性行為を生殖行為ではなく享楽としてとらえるのがいかんのか。
先に挙げたカップルの旅行を例にすればそれが「生殖行動」である率はかなり低いだろう。性行為は二人のコミュニケーション手段だ。
愛する二人の性行為と、仕事での性行為(それを見て多くの人が自慰行為をする)は違うと言えば違うが「性行為を快楽としてプラスにとらえる」という意味では同じだ。
まぁ中には宗教的倫理観により避妊することや性行為により快感を得ることを認めない人もいるが異端として無視する。

個人的にけがらわしいと思うのは勝手だし、内心の問題を止められるものではないが、これを提訴という形で他人に押し付けることがはたして妥当な姿勢なのかは疑問である。
ましてや議員というのは法律を通じて人の権利を左右できるのである。自らの信条の公開についても慎重であってしかるべしと思う。

多くの人(現代では顕微授精もあるので)は性行為を元に生まれてきたのである。古来生殖の手段としてのみならず、個人のコミュニケーションとして、集団の新和機構として必要なものだったのである。AVとて、主に男性の性的衝動を鎮めたり刺激したりで世の中うまくいくようにする装置なんだと思っている。こういっちゃなんだが、ビデオも満足になかった昔では独身男性(彼女なし)の妄想が膨らみ切っていておかしなことになっていた。見てしまえばなるほどこんなもの、だ。
うまくいっているのである。
端的に切り出してAVだけをけがらわしいと言ってしまっていいのだろうか。

もう一つの場が穢れてしまったという発想について。
気に入らないものを穢れとして拭い去れないものとしてラベルを貼ってしまえば、もう挽回する方法はない。穢れは物理的な汚れとは別物で感情的なものである。
今回は建物であるからまだしも、こういう発想をする人間は同じことを人間にもやるのではないかという心配がある。つまり差別だ。

AVを撮影したからと言って建物が特に不潔になったわけでもなく、壊れたわけでもなく、機能を損なったわけでもない。それは先にカップルの旅行者の例で説明した通りだ。
AVを撮影したことと旅館としての機能の良否に因果関係は一切ない。
ところが、この議員はAVは自分の倫理観で気に入らない→旅館の価値を損なったという飛躍的な論理に乗っかってしまっている。気に入らないから具体的な(物理的な)方法で制限するということが通ってしまえば反論できないではないか。
これを人間に対してやられてしまったらどうかと想像してほしい。
ある仕事をするのに、その人の障碍や病気がなんら影響がないとしても「勤まるわけがない」と決めつけられてしまったら。性同一性障害はおかしな人間だから認めたらいかんと言われたら。性アイデンティティと仕事ができるかどうかは関係ないのに。

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こういうことを臆面もなく提訴まで持っていける人間というのは、自分の感覚に合わない人間をすべて否定するのだろうなという気がする。
社会の少数派に対し乱暴な発言をしたり、企業で差別的な取り扱いをするのはいつもこういうタイプだ。自分が正しいと思っていることが正しく、そこから外れているやつは異常だと。
posted by Mozzo at 06:33| Comment(0) | TrackBack(0) | まじめな正論! | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年09月28日

御嶽山噴火に思うこと

御嶽山噴火の報道を驚きと恐れをもって注視している。
この文章を書いている時点で人的被害の全貌もまだ明らかになっていない。
現場が危険なため充分な捜索・救助もできないという。当然、噴火や火砕流の状況も明確になっていない。専門家をしても、広い意味での火砕流が発生したと推測されるとしかいえない程度に情報が限られているようだ。
このなか、生き埋めになった人もいるのではないかという報道もあり、大変に見通しが暗い状況にあるのは否めない。

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御嶽山は活動が活発で、小規模とはいえ近年にも噴火している。
ゆえにそれなりの観測体制はあったはずだったが、直前の警戒レベルは最低(安全)であったという。地震と同じく火山噴火予知もまた難しいということを改めて思い知ることになった。
日本は火山国であるにも関わらず、観測から漏れている火山もあるという。また、かろうじて観測の対象になっていても体制が乏しいところもあるという。
さらに、いくら観測機器や人員が充実しても過去のデータの蓄積というものが大切であって、一朝一夕に観測体制が整うものでもない。たとえば、地下の内部構造を知るにはたとえ噴火は起こらずとも他の場所で発生した地震、あるいは人工地震で波形を観測する必要がある。このデータがなければ観測機器も活用できないのだ。

古い世代では活火山、休火山、死火山という分類を学校で習ったと思う。
今の見識においては死火山などという言い方はできないとなっている。かつて火山であったものはいつか噴火するかもしれないのだ。
これら死火山とされていたものも含めて観測体制を整えていくことは意味があると思う。

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「観測体制なんて有効かどうかもわからんのだからいっそ立ち入り禁止にせよ」という考え方もあろう。
他の危険なものなら私もそう思う。わざわざ危険な場所に住んで危険なものを監視する世に逃げた方が早い。
だが、火山に関しては重要な資源であるという一面もある。

美しい景観、温泉、地熱は大変に利用価値が高い。ある種の鉱物も産するという。
危険だから近寄るなと言ってしまえば大変な損失だ。
ことに超A級の規模・価値の富士山が噴火も近いと騒がれてずいぶん経つが、富士山の噴火がいつかわからんからみんな避難となったらいったいどれほどの地域がなくなってしまうことやら。
現実的じゃない。

観測して防御して、時には一時的避難をするのが正しい。時には失敗して犠牲がでることもあるかもしれない。だがそのデータを蓄積して次に備えるのだ。

地震予知も同じことなのだが、すぐ答えが出ないどころか、本当に将来に答えがでるのかもわからないことであろうとも、科学研究にお金を使う政治であってほしいとねがう。
どちらの例でも、どれだけ精密なセンサーをきめ細かく広域に張り巡らせるかが勝負という一面がある。

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ここからは邪推である。
この記事に貼りつけてあるのは9月16日におきた地震の画像である。日本気象協会のページから引っ張ってきた。
北関東で起きた地震は南東北から上信越、東海、近畿の一部までも揺らした大きなものだった。

この画像を見ると数字の入った丸で地図上の震度を示している。
この数字が示された場所とはなんだろうか。おそらく何らかの観測拠点の場所ということだろう。
この地図を見ると気づくことがある。
まだらなのである。
地質構造の違いを無視すれば地震動は震源からの距離に応じて減衰する。マクロに見ればそのようになっているのだが、よく見るとむらがある。

たとえば関東から宮城県北部まで連綿と続いていた表示が途切れ、岩手県にだいぶ入ったところで震度1の表示がある。また、富山県に全然表示がないのに石川県北部に表示がある。
観測拠点が足りないのではないのか?
これは地質構造の問題なのかもしれぬ。振動が伝わりにくい場所があるのかもしれぬ。まさか富山県に一つもないということはあるまい。

だが、今一度地図を見ていただきたい。妙に県境の線がきっちり見えないだろうか。
県境は揺れないとでもいうのか。
表示のために県境を避けるようプログラムされているのかもしれぬが、東京・神奈川・千葉あたりは県境もなにもなく塗りつぶされている。

わざわざあえて県境近くを選んで観測拠点を減らすということがあるだろうか。
そもそも県境(昔の藩の境界でしょうな)は人が住んでいる単位で決まるのが自然だったのではなかろうか。こっちの集落はXX藩、あっちの集落はYY藩、その境といえば「あの山の尾根のあたり」なんて決め方だったのではなかろうか。地形を無視して緯度経度で決めたなんてことはあるまい(アフリカにはそれをやったのだな)。

ゆえに県境は基本的に辺鄙な場所になる。辺鄙な場所だから「まぁいいか」になったとしてもふしぎではない。

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おもえば東日本大震災後、地震メカニズムを説明する数多くのドキュメンタリーを見たが、いずれも「包括的に」「継続的に」「綿密に」観測することの重要性が見て取れた。
人間にとって大事なところだけを観測してても全体像は見えないのだ。全体像とは地球規模の構造を持っているのである。

もっと綿密に細かく観測を。
ところが政府は気象台をはじめとする公的な観測拠点を減らしている。個々の大学などに任せても包括性に欠けるだろう。
この事故を機に再度必要性について考えてほしいのである。
地震・火山の災害は日本列島の宿命である。うまくやっていかねばならないのである。もっと予算を、人員を。くだらない道路や箱モノはいらないから。
暴論と思われるかもしれぬが、今の10倍の予算が必要だと思っている。
posted by Mozzo at 17:03| Comment(0) | TrackBack(0) | まじめな正論! | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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