2014年09月10日

錦織選手 快挙!

錦織選手の決勝進出の快挙。
最後を逃したのは残念だけれどほとんどの日本人がその快挙を称えていることだろう。
同時に、「もう松岡しゃべるな」と思っている日本人も多いのでは。
お前が代弁することではないと。
もういいよ。おめーが重要人物なら今頃彼のコーチだろうに。部外者だ。
いや、世間がそういっているんじゃないかなと←逃げ
posted by Mozzo at 15:29| Comment(0) | TrackBack(0) | くだらない一言 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

いただきます ごちそうさまを言う心が失われてはいないか

ネット上の掲示板を読むのは面白い。
ただし、一部のネット用語乱れ飛ぶ品位のない掲示板は別だ。表現にも品がないし、たった一言二言をぶつけるだけで論理の構築もない。きちんと論理を構築すると文章が長いとバカにされるとか。当人たちが楽しければいいのだが理解に苦しむ。
新聞社などが運営し、きちんと発言の内容を管理している掲示板に限る。品位のない掲示板を読むと心がすさむような気がする。それでも日頃の鬱憤をぶつけたい人が多いようだが。

世の中いろいろな考え方をする人がいるなぁと思わされる。
もちろん、中には議論をあおるためにあえて極論、わがままな意見を載せるという演出もあろうかと思う。やらせといってもいいかもしれぬ。仮に本心としてもこれを公言すれば総スカン総攻撃を受けるにきまっていることをあえて言うバカがそうそういるとは思えないのである。
盛り上げるために運営側が仕掛けているのではなかろうか、と思わなくもない。まぁ結果がついて来ればそれはそれでよろしい。

たいてい、掲示板のスレッドを始める人が議論や質問を提起する。
いくつも読んでいると予想しないような突飛な話題もあるのだが、ある程度パターン化された話も多い。
嫁の言動が気に食わないなんてのは定番のテーマだ。またそのわがまま加減に容赦なく突っ込むのも同じだ

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さてここからが本題。
よくある話題で「外食の際にいただきます・ごちそうさまというのはおかしい」というのがある。こちとら客で金を払っているのだからいただくもごちそうもないだろう、店の人間が感謝を示せばいいのであって客が言うことではない、というものである。
なにを阿呆なことをと思うのだが、意外と総スカンを食うほどの極論でもないらしい。賛同者が現れることがある。
なんとレベルの低い話であろうか。

どんな教育を受けているのだろうと思う。金のやり取りのみを見た浅薄な考えであるのは言うまでもない。

外食店で一皿の料理が眼前に運ばれてきたとき、たかだか目の前にいる店員との関係にしかみえないのだろうか。

その料理は、給仕してくれた店員と厨房で料理をした人、材料を店まで流通させた人、食材となる生物を育てたり自然から集めた人、それらの経済システムをリスクを負って動かしている人、そして食材として命を終わらせた多くの生物で成り立っている。多くの人の働きと生物の尊い犠牲の上にその一皿が成り立っている。
ゆえに、目の前に店員がいようがいまいが、たとえばセルフサービスで自分でテーブルに運んできたのであろうが、「いただきます」というのはなんらおかしくない。
一人で食事に来て大声で唱えるのも雰囲気を壊すとはおもうので、心の中で唱えたらいいと思う。できれば小さく合掌していただきたい。
宗教・文化によっては、食事の前に祈りをささげることもある。その一皿にかかわった人や生物を神に置き換えて祈っていると言ってよいのではないか。普遍的な考え方と言えると思う。

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なぜ、こうした傾向が見えるのだろうか。
なぜいただきますと言うべきかなんて教わったことはない。こうしたことは自然に身につくものだと思っていたのだがそうでもないのだろうか。それともこれは特殊な少数例なのだろうか。

表面的な理屈でとらえる傾向というのは否定できないと思う。
似た話で「おかげさまで」という言葉がある。
たとえば病気やトラブルで一時的に困っていたとしよう。その後そこからは回復して、その事情を知らない知人に久しぶりに会ったとしよう。
近況を聞かれてその話をする。それは知らなんだ、大変だったとねぎらう。そして、
「今はもうすっかり元通り?」
「ええ、おかげさまで」
普通のやり取りである。

その知人は事情も知らずにいたのだし、何の助けもしてくれなかったではないか。おかげさまではおかしいのではないのかという考え方。理屈といえば理屈なのであるが。
おかげさまでは何もその個人に感謝するだけの言葉ではない。その個人も含めた人の和とか、さらに広げて地域社会であるとか、あるいは過去からのつながりが自分の性格や精神力を作ってくれたとかさらに人とのいいつながりが幸運を呼んでくれたとか。そうしたこと総体に対しておかげさまでではないのか。そこにいてくれてありがとうなのである。

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いただきます、ごちそうさま、おかげさまで、ありがとうございます、すみません。なぜその場面で言うべきなのか、噛んで含めるように説明せねばならんのか。なにやら空恐ろしいような気がする。

本当にこの認識が当たっていると言い切るものでもないし、そうなっているとしてもどうすべきかその答えを持ち合わせていない。
学校だけではなく社会全体における教育が変わってしまったのかもしれない。
たとえば権利や義務を教えることは大事なのだが、それだけじゃないだろうということを教え忘れているのかもしれない。

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中韓との関係悪化の中で、彼らに「そうはいっても日本侮りがたし」と言わしめるのが日本人の素養である。反日に染まった人でも日本に来たり日本人に触れると認識を改めるという話がよくネット上に記事に上がっている。そこにあるのは日本人が礼儀正しく静かで秩序があって、と彼らを驚嘆させるのである。たしかに観光客の振る舞いを見れば彼我の差は大きいようだ。

だが、その日本人の素養を支えてきた精神的支柱が崩れつつあるとしたらどうか。他人に思いをはせ感謝するという日本人なら説明せずとも理解しているはずのことが新しい世代に理解されていないとしたら。
posted by Mozzo at 09:59| Comment(0) | TrackBack(0) | まじめな正論! | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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