2014年09月25日

視覚障碍者の少女を蹴った事件について

若干前の話になるが、目の見えない女子生徒を蹴ってけがをさせた事件があった。
なんとひどいことをするのかと思った。誰しもそうだろう。
当初の報道では、生徒が持つ白杖が加害者と思しき人に当たりつまづいたらしい。それに立腹した加害者が蹴ったということだった。この報道を見て、おそらくスマホを見ながら歩いていた阿呆が白杖に気づかなかったということではなかろうかと思ったのだが。
事態は思いもよらぬ方向に動いた。

引用ここから====
全盲女子生徒傷害、44歳作業員を任意で聴取
2014年09月12日 22時25分

 埼玉県川越市のJR川越駅で、県立特別支援学校「塙保己一学園」に通う全盲の女子生徒が何者かに足を蹴られて軽傷を負った事件で、川越署は12日、複数の目撃情報などから同県狭山市の男性作業員(44)が事件に関与した可能性があるとして、同日から任意で事情聴取を始めた。

 発表によると、作業員は、同市内の障害者施設に入所し、軽作業をしている。現場にいた目撃者の話などから作業員が浮上した。同署の事情聴取に対し、受け答えが困難な状態で、明確な説明は得られていないという。事件当時は1人で行動していたとみられる。
2014年09月12日 22時25分 Copyright コピーライトマーク The Yomiuri Shimbun
引用ここまで====

障碍者施設としか報道されていないが、受け答えが困難ということは知的障碍ということだろうか。
ここからは、この男性が加害者だったという仮定で書く。この男性を批判したいわけではない。そこにある構造について考えたいのである。

日常生活に支障はないだろうと単独行動を認めていたが、突発的な事象には爆発してしまうという状況だったのだろう。それを予測するのも難しいし、ではどうすればいいのかといえば判断は難しい。

目が見えない人の白杖は目と同じ、頼りない白杖を支えに歩く人は最大限の保護を受けられねばならない。自動車教習所でも習ったという人もいるだろう。私は白杖を持つ人をはねたら人生終わると習った。本当かどうか知らぬが妥当だと思う。

ではどうすべきだったのか。知的障碍の人が一般社会に出ることがいけなかったのか。監視や軟禁すべきだったのか。
障碍がないとされていてもちょっとしたことで切れるバカが山ほどいるのだから、比較の意味ではとりたてて危険な存在とは言えまい。できれば檻の中に入っていてほしいバカがその辺を闊歩している。知的障碍の人だけ制限する理由はない。冒頭に書いた通り、スマホをもって歩くバカが白杖につまづく可能性だってあるのだ。以前歩きスマホの話を書いたが、彼らは周囲に注意を配っていると思い込んでいるらしく、自分からぶつかって行ったのに突然現れた相手がぶつけてきたと感じるようである。白杖が目に入るはずがない。

そうした「ある程度」危険な人を監視するなり軟禁するなりが可能だったとして、これで損なわれる人権とそれにより救われる人権のバランスも難しいだろう。
たまたま今回は不幸中の幸いで、蹴られた女子生徒は白杖にすがり転倒は免れたという。だが、駅で転倒すれば場所によりどんな惨事になるやもしれぬ。
この危険性と日常に監視がつく自由に出かけられないということを安易に比較することはできまい。
当然ながら現実論として、そんな監視や軟禁に費用が出せるはずもない。世の中には貧困ゆえ必要な医療が受けられない人もいるのだ。そちらの支援の方が先だろう。

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逆にこの女生徒にガードがつくべきだったのだろうか。
費用などを無視すれば私はこれが理想だとは思う。ガードがつくと言うのは個人生活を侵害することにはなるのだが、安全を考えれば最善だろう。
折衷案で個人ガードでなく駅の各所に警備員を配置するというのはダメだ。今回の事件を「未然に」防ぐことはできまい。加害者を即座に確保することはできたとしてもだ。あくまで個人のガードで。
社会的な弱者一人一人にガードがつけば、街の至る所にそうしたスキルがある人がいることになり、街も安全になるだろう。

だが、これも費用を考えれば到底無理だ。障碍者や高齢者はもっと基本的なレベルで支援を要している。その費用もままならないのに。未来にはロボットのガードマンが買えるような世界になっているだろうか。

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強制力・即効性のある方法でこの種の事件を未然に防ぐことは現実にはできないのではなかろうか。
先に述べたとおり知的障碍者だけが危険なわけではない。知的障碍者を施設に軟禁したところで問題は解決しないし、人権・自立の観点からは到底認められるものではない。そもそもほとんどの知的障碍者は危険ではない。
むしろ、この事件を機に知的障碍者への偏見を助長し、自立を妨げることにつながらないかを注意せねばなるまい。

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こういう話の流れになると、市民の助け合いでということになりがちだ。そういうことがあったら互いに注意しよう、助け合おうと。
それは美しいが責任の所在をあいまいにし、危険防止が機能しているかどうかをわからなくする。

おりしも東京都知事の舛添氏の定例会見で公的負担の話題が出ていた。
先に結論を言えばこの男はバカである。

求められている福祉をすべて公的に支えるのは無理だと匙を投げた。
自助だ共助だと問題をすり替え、公的な責任を放棄した。首長としてあるまじき発想だ。「ではどうする、ここまではできる、ここからはこんな副作用がある、こんな負担がある、こう工夫したら費用が下がる」と考えつくすのが役割だろうに。

たとえば徘徊老人の問題について、警察が探せば費用が掛かる、近所の人で見守ってと言い出す。
共助といえば言葉は美しいが、要するに「てめーらでなんとかしろや、知ったことか」という意味である。その美しい共助のネットワークが形成されているのか、破綻はないのか、漏れる人はいないのか、最終責任はだれがもつのか。投げっぱなしでどうする。
だからと言って、地域にナントカ責任者とかを任命しても形骸化するだろうし、それを無料か低い報酬でやれというなら公的責任の押し付けに過ぎない。「徴用」という言葉を使ってもいいのかもしれぬ。
だいたい地域差というものがあって、地域活動にノリノリのおじさんおばさんがいる地域もあるにはあるが、都市では夫婦そろって賃金労働者で地域との結びつきが希薄というのが普通なのである。昼間の14時くらいに地域の集会をやるといって動けるひとがどれだけいようか。
地域に押し付けたところでみんな都会に働きに出ていたらどうなると言うのか。

そこに考えが及ばず共助でと言い切ってしまう都知事ってバカではないか。

どうもバカという単語が頻出する文章であるが。。。。

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脱線した。
みんなで助け合ってということが全くの無力とまでは言わない。しかし、安全が実現されているかを確認する方法もないし、周囲に善意の人がいるとは限らない。
さらに、個人にガードを付ける案でも述べたとおり同じような事件が起きたとして、周りに善意の人がいたとしても被害を未然に防ぐことはできないだろう。加害者をすぐ捕まえることにはつながるだろうが、蹴られるのを防ぐことはできないし、転倒するのを支えることも大変難しいだろう。

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では、現実的にできてある程度の効果があることはなんだろうか。

まず、教育だと思う。教育と言っても「白杖の人を見たら気をつけましょ〜」なんて緩いものではなく、「赤信号では止まる」くらいに明確かつ理解しているかを検証できるようなものである。
視覚障碍者は決して少なくないと思うが、街で白杖や盲導犬の人を見かけることは少ない。外出が難しい面があるのだろう。今回の加害者とされる知的障碍の男性がどの程度の障碍であったのかは記事からはわからないが、施設に入所しているのであるなら職業訓練や社会訓練を受けたに違いない。その中で視覚障碍者への配慮も「習った」かもしれぬ。だが理解・実践できていたのか。その検証が必要だと思う。

たとえば知的障碍の人は理解するのに時間がかかる場合がある。
一度教えてその場ではわかったと思えても残らない。何度も繰り返さないといけないという場合があるのだ。しかし、社会訓練として街を普通に歩いていても視覚障碍者に出くわすことは少ない。はたして、理解していることを検証する機会がどれほどあろうか。

別のタイプでは抽象化が苦手な場合がある。
社会訓練の際、視覚障碍者の例としてたまたま白杖を持った若い女性を示したとしよう。そしてその女性が赤い服を着ていたとしよう。それでうまく学習できても、教え方理解の仕方で白杖を持った男性には対応できないのかもしれない。
普通は「白杖を持っていればほかのことはどうあれ」と抽象化できる。また白杖=視覚障碍者と理解して、介助者・盲導犬に頼る人も同じと理解できる。
理解プロセスに欠落がないか検証できているだろうか。

もちろん、この教育プロセスは知的障碍者のみのものではない。性格が粗暴なもの、理解力に劣るものはいる。私の記憶でも学校教育で体系的かつ持続的に習った記憶はない。今はどうなんだろう。少なくとも「小学校で習った当たり前のこと」という理解が広がれば違うだろう。

また、ハードウェア的な対応にもまだ改善の余地がある。
点字ブロックは視覚障碍者が頼りにするものであるにも関わらず、配慮に欠ける場所が多々ある。
たとえば駅のホームを見ると屋根の柱を避けるために小さく回り込んだり、ホームの端にあったりする。移動困難者である視覚障碍者が細かいコーナーを的確に回ったり「黄色い線(点字ブロック)の外側に出ないでください」と言われるぎりぎりの場所を安全に歩けるものではない。
こうした場所は他人との衝突が起きやすく、その際の被害を大きくする。
ショッピングモールなどではデザイン重視かなんだか知らんが、色を黄色ではなく茶色など目立たなくしているケースもある。うすぼんやりとは見える弱視の人は色のコントラストに頼っているのだ。

その他運用という面もある。
点字ブロックが路上のマンホールの上を通っている場所がある。それはいいのだが、マンホールを開閉したとき回ってしまって点字ブロックが斜めにずれてしまっていることがある。また、よく問題になる通り点字ブロックに荷物を置いたり立ち止まったり駐輪したりというのがいけない。
いきなり道が折れ曲がったり切れたりしたらどうだろう。当然周囲を見回すだろう。視覚障碍者にとっては白杖を振ることになる。弱視の視覚障碍者でも立ち止まったり右往左往することになる。
それが今回の事件のように他人との衝突を起こすことにつながるのだ。
これはすぐにでも改善できることである。

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視覚障碍者でない人は想像力を働かせないと理解ができない。
行動するための情報の多くは視覚から得ているという。それがなかったら自分はこの芭蕉をどう歩くのか、何が困るか。ぜひ想像してほしいのだ。
posted by Mozzo at 01:46| Comment(0) | TrackBack(0) | まじめな正論! | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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