2014年10月26日

太平洋クロマグロの輸入自粛要請はよいことだ

大変いいことだと思う。

引用ここから====
メキシコ産クロマグロ自粛要請へ 水産庁、輸入業者に

 水産庁がメキシコ産の太平洋クロマグロをできるだけ買い付けないよう商社などの輸入業者に自粛を要請する方向で検討していることが25日、分かった。未成魚が近海に多く生息しているメキシコに乱獲を防ぐ措置を促すのが狙い。日本は最大消費国として効果的な資源管理に向けて異例の対応を取る。

 東部太平洋のクロマグロの管理を話し合う全米熱帯まぐろ類委員会の特別会合が27日から米カリフォルニア州で開催され、30キログラム未満の未成魚の漁獲量をこれまでより半減する日本提案の規制強化策を議論する。メキシコはこれに難色を示しているとされ、最終合意に達するかは不透明な状況だ。
(共同)
引用ここまで====

本来であれば強制力のある禁輸措置に踏み切るべきかもしれぬが、そうなれば国際的な摩擦も大きくなろう。
外貨獲得・儲けの種を失いかねないメキシコ側には不服もあろうが、高い視点で理解し漁業資源保護に取り組んでもらいたいものだ。ごり押しでマグロを売るより、代替資源の開発や貿易協定で損を取り戻すような取り組みが望ましい。

マグロ・カツオ類は漁獲をもっと厳しく制限すべき状況にある。特に未成魚を獲るべきではない。野生生物であるのだから、薄く広く負荷をかけるのが大原則だと思う。海産動物で言えば鯨からオキアミまで薄く広く食べるべきである。
無論、野生生物ではなく家畜や養殖魚に頼るという選択肢もあり、家畜であれば絶滅とは無縁だ。だが、家畜や養殖魚を育てるためには環境を破壊して穀物を育てたり小魚を大量に捕獲せねばならない。環境問題としては拡大していいものではあるまい。

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この報道は二つのことをわれわれに示唆している。
一つは当たり前の話だが、この話輸入業者に押し付けておしまいということではないということだ。
当然中間に立つ流通業者、飲食店も行動を変えねばなるまいし、最終の消費者である我々も行動を変えねばなるまい。
マグロ祭りキャンペーンとかやっていちゃいかんのである。私が時折利用する飲食店がなぜかのきなみマグロ祭りをやっておる。とあるチェーン店の寿司屋もマグロ推しでマグロ5種にぎりだのマグロ丼だのと大きなポスターで宣伝している。私は反発してイカタコ貝推しで食べたりするのだが。むろんイカにも種類があってWebページで国産であることを確認した種類を選ぶのだ。
マグロキャンペーンだの寿司食べ放題だのこんなことをやっていればマグロを卸せ、安く卸せという圧力が高まるだけである。商社も圧力に動じるだろうし、仮にメキシコ産は輸入しなくともボストン産など北米東海岸から仕入れるだろう。あるいは別のマグロに圧力が向くだろう。
近海で獲れるのに数がまとまらないとか、魚体が小さくて扱いが面倒とかで売れない魚が捨てられている。こうした魚を丁寧に探して仕入れるような飲食店に頑張ってほしいし、消費者側もそれを評価すべきだ。
だいたいカツオやマグロなんてのはそれなりに味がいいというのもあるが、魚体が大きくて工業製品として扱えるから便利で流通している側面があるのだ。冷凍マグロは大きな電動のこぎりで解体してがばっと冊にとってしまえばあとは規格に沿った工業製品のように扱える。

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もう一つ大事なのはは環境問題を大義名分に経済活動に介入できることを示したことである。もっと広くフェアトレードという言い方をしてもよい。
種の絶滅を招きかねない乱獲をしていないか。地力や地下水が枯渇するような収奪的農業をしていないか。不法移民などをつかって奴隷労働をさせていないか。有害な農薬や化学肥料、廃棄物を環境に放出していないか。無意味にエネルギーを使っていないか。
そういう大義名分が立てば輸入制限も可能であり、国際的非難を浴びにくく相手国からの抗議にも対抗できる。
これは現在TPPでこじれている農産物の関税撤廃に対する答えになりうる。関税はゼロ。ただしフェアトレードは徹底する。日本は環境破壊も奴隷労働も認めませんと。日本に輸出したいなら改めなさいと。
相手国がフェアトレードの基準に合致する改革をすればコストにも響き、わざわざ輸送費をかけて輸出する農産物と日本の農産物での競争力格差は縮まることだろう。
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2014年10月21日

時期を外しましたが典子様の結婚の話

この秋は天災やらスポーツ界やら、悲しいニュース明るいニュースが行きかっていたのであるが、明るいニュースは高円宮典子様の結婚である。ちょっと時期を外してしまったが。

お相手の千家国麿さんと並んで奉祝に集まった人々の前を進み、拝殿に向かう姿の写真が公開された。
平安調の装束で「現代のおひな様」と言うべき雅なお姿ではあるのだが、まさに「現代の」と強調したいいい意味での違和感があった。

まず、足元である。
国麿さんは伝統的な浅沓を履いている。これがどう歩くのか素人には理解できないような形をしていて「硬くて巨大なスリッパ」みたいなものである。
調べた範囲では女性も同じく浅沓を履くものらしいが、典子様は洋靴を履いているようにみえる。袴と色を合わせてはいるがローヒールの靴に見える。
「明治以降、洋装も積極的に取り入れてきた皇室のやり方です!」ということかもしれぬし、台風接近で足元が悪いことも考えてのことかもしれぬ。また、そもそも浅沓を履いて歩くなど慣れた神職の国麿さんならともかく、典子様には無理ということだったのかもしれぬ。
いやそれ以前に女性も浅沓を履くという私の理解が間違っていて「平安時代には高貴な女性は外を歩かなかった」ということかもしれぬ。外を歩いてみせるのも現代の開かれたやり方なのだ、ならば歩きやすい洋靴でなにがいかんのかと。
いずれにせよ批判するようなことではない。

とはいえ歩きやすそうな洋靴と歩きにくそうな浅沓。この対比がいいのである。

もう一つの違和感はお二人の表情である。

私の勝手なイメージで申し訳ないのだが、国麿さんは神職というには若干濃い顔立ちをしているように思う。もうちょっと瓜実顔の涼しくすましているような感じが神職に合うような気がする(勝手なこと言ってるな)。だが、力強くきりりとした顔立ちで男前といってよかろう。
この男前が神妙かつ緊張した面持ちでいるのはいいものである。

いっぽう典子様はもともと颯爽とした雰囲気であるし、当日も参列した人々に笑顔を向けていた。
目鼻立ちのくっきりした典子様は平安絵巻・おひな様の世界というよりはディズニープリンセスの世界のお姫様というイメージであった。

このお二人が並んでいる姿を見ると、勝手にディズニー映画風のストーリーが浮かんでくるのである。
テキトーに平安時代に時間を巻き戻して、堅苦しい皇族の暮らしに鬱憤をためているプリンセスノリコがいるわけだな。そこに朝廷を乗っ取らんとする悪臣と彼をあやつる邪教集団がいるわけだ。一方霊感で邪教集団のたくらみに気づいてはいる神職クニマロは対抗する勇気が出ずにくすぶっていたのだ。で、偶然出会った二人。プリンセスノリコはクニマロが能力を秘めていながら封印しているのに歯噛みしている。「あなたは私を守りに来る」と言い残して敵地に向かうプリンセスノリコ。能力を開花させるクニマロ。ハッピーエンドの結婚式もプリンセスがリード。うーん、書いていて気持ちよくなってしまった。脚本書きたい。ディズニーさんいかが(無理だ)。

思い切り脱線したので戻すが、いくら天皇が神道の頂点にあるからとはいえ、神職の作法と皇室の作法は違うわけで、二人の雰囲気が違ったとしてもどうということはない。
神職として神妙な表情をすべきという作法だったのかもしれないし、単に緊張していたのかもしれない。典子様は皇族としてにこやかにすべきだったのかもしれないし、公務で大勢の人の前に出るのに慣れていたということかもしれない。
ただ、このコントラストがいいのである。
靴(沓)のこと一つとっても、伝統を守り固い男性と実用的で軽やかな女性。いい対比ではないか。

颯爽としたプリンセスが真面目そうな男性を引っ張っていく感じ。これが伝統の極みといっていい神職の家庭。新しい世代の家庭像という感じがしていいのである。

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こちらは由緒もへったくれもない庶民の身ではあるが、やっぱり颯爽とした女性が引っ張る家庭というのはすがすがしいなと思うのである。場合によって肝っ玉母さんとかかかあ天下とか上品ではない言い方にもなるけれど、男性が威張り散らかしているような家庭よりずっといい。
女性が強すぎて男性が叱られ通しではいかんが(女性が加害者のDVもあることだし)、男性にはおっとり構えていてもらいたいものだ。

個人差があるので、大柄な女性と小柄な男性の組み合わせも多々あるのであるが、平均値で言えば男性は大柄で力も強い。その差に応じて精神的には女性がリードするような関係が望ましいのではなかろうか。

posted by Mozzo at 07:59| Comment(0) | TrackBack(0) | まじめな正論! | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年10月20日

日本にカジノ 作るべきか作らざるべきか

日本にカジノを作るの作ってはいかんのだの議論がある。

悩ましいなと思う。
ギャンブルと思うといかがわしいという気持ちにもなる。ギャンブル依存症というものもある。余分なものを日本にしょい込むことはないのではなかろうかと。
一方で観光資源として有効ではないかという考えもある。アメリカはラスベガス。カジノを中心とした観光都市を作り上げた。ラスベガスに続けとカジノで観光を盛り上げようという国は多々ある。

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カジノが裏社会とつながるという心配は多々あろう。
ラスベガスもかつては裏社会が牛耳る都市だったという。それに伴い様々な不正行為も横行したとか。現在では浄化が進んでいるとはいう。かなり厳密に管理されている模様ではあり、アメリカでもっとも安全な都市とも言われているらしい。まぁそれでも裏社会が排除されているのかどうかは知らぬ。

その他の国ではそれなりらしい。
有名なマカオのカジノでは上のフロアに行くほどレートも上がり、客層の怖さも上がるとかなんとか。
マカオに限らずカジノが繁盛する理由の一つとしてマネーロンダリングがある。表に出せないお金があったとして、それをカジノで使って何割かを回収したとする。それはカジノで儲けたきれいな金になる。カジノも儲かる。客が使った金がきれいか汚いかなんて関係ない。
もちろん、いちいちマフィアの若い衆がちまちまスロットを回しに行くのではない。両者持ちつ持たれつで金を動かすわけである。

もちろん、日本にカジノを作るならそこがマネーロンダリングの温床になってもらっては困る。不正送金する地下銀行などが摘発され常々問題になっている。そうした連中に利用される可能性もあろう。
はたしてどのように防止するというのだろうか。カジノに対してほとんど知識のない日本人が世界を股にかけて悪事に利用する連中に対抗できるとでもいうのだろうか。

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ギャンブル依存症の危険という指摘ももっともである。
ギャンブルで家計が破綻してしまったというひとは数知れない。一人暮らしなら自業自得ともいえようが、家族を抱えている人なら罪は深い。
ただ貧乏になるだけならいいが、そこに付け込んで犯罪の片棒を担がされることだってある。薬物の運び屋にされたり、オレオレ詐欺で金を受け取ったりする連中である。
さらに、パチンコの弊害は大きく、これほど警告されているのに子供を放置して死なせる事故が後を絶たない。
麻薬が違法ならパチンコも違法でいいのではなかろうか。

パチンコに代表される悲劇がカジノで拡大するというならこれは賛成することはできまい。

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とはいえ、カジノのプラスの面も捨てがたいとは思うのである。
経済的な恩恵は横に置いておこう。金儲けの話をしても利点欠点が平行線をたどるだけだ。

まず、カジノが上質な社交場になる可能性である。
お金を持っている人がお金で遊ぶ。その原則を押さえておけば上品になるのではなかろうか。日本の賭博の場というと、なけなしの金をかける、やくざな人が鉄火場でというイメージになるのだが、世界を見れば競馬場など上品な場所が多々ある。
俗物のそしりを免れないかもしれないが、お金がある人が上品を追求し上品な場を作るなら肯定していいと思うのである。それでなければ守れない文化もある。高級なお茶もお菓子もお酒も上品な場で磨かれてきたのだ。
高い入場料を取り、内部ではギャンブルだけでなく演劇や音楽、会食を楽しめるような空間であればどうだろう。地元名士の紹介を要するとしてもいい。それならギャンブル依存症の心配もあるまい。入場料は5万円くらいが妥当ではなかろうか。

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カジノの弊害を論じつつ先に進めていくならば、日本のギャンブルについて総合的に考え見直す必要があろうかと思う。
ギャンブル依存症を言うならまずカジノの是非の前にパチンコ屋の全廃である。換金禁止、入場料の設定は最低限議論されねばなるまい。
競馬、競艇、競輪についても考えねばなるまい。パチンコと違い、それぞれ文化的要素もある(パチンコ台にタレントをフィーチャーするのが文化ではないとはいわんがあまりに薄い)。
パチンコが商売として成り立っているのに、競馬、競艇、競輪は盛り上がらずそれで公的資金にしようという目論見がはずれ赤字を出す施設があるほど。かといっても儲からないギャンブルだからさくっと廃止とは言いづらい文化的背景。

私は競馬、競艇、競輪は規模を小さくして公営スポーツ(できれば民営に)として成り立たせるべきだと思う。ギャンブル抜きで。せいぜい宝くじ並みに確率も低く、かける対象を選べないようなものにしたらいいと思う。レースとしてみてみれば面白いのではなかろうか。観客が何の儲けもないF1やらオリンピックが商売になっているのだから。
posted by Mozzo at 20:40| Comment(0) | TrackBack(0) | まじめな正論! | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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