2014年10月27日

ちょっとした美しい作法について

吉野家にちょくちょく寄る話だのセルフサービスの讃岐うどん屋に行く話だの私の立ち回り先はパッとしないといったらない。
で、吉野家の話である。

私は人間観察が好きなのでカウンターで食事する人を観察していた。
一人の中年男性が会計しようと伝票をもって「ごちそーさん」と声をかけた。ところが、店員さんは別の客の料理を提供しようというところで、「少々お待ちください」ということになった。間が悪いがまぁ当たり前の話。
と間をおいて、もう一人の中年男性が伝票をもってお支払モードに入った。
まぁこれもよくある光景。

その後、店員は忙しかったからなのか気づかなかったのか、二番目の男性に先に対応しようとしてしまった。まぁそういう間違いもあろう。人間だもの。
一番目の男性は怒り出すでもなく、静かに立っていた。二番目の男性は「あちらが先です」と一番目の男性を先にせよと言った。

一番目の男性は会計を済ませると、二番目の男性に「どうも」と軽く礼して去った。

ああ美しい光景。

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この二人の紳士(ついそういいたくなるね)は奥ゆかしく礼儀正しい人なんだろう。
作法もいいに違いない。実は人間観察の一環でこの二人に注目していたのだ。吉野家では珍しく食事姿が美しい。背筋も伸びて、箸の使い方もきれいであったからだ。残念ながら犬食いの人が多いのだ。

ただ、単に奥ゆかしい礼儀正しいという見方だけでいいのかと思わされたのである。

今の世の中、この二人のような人ばかりではない。我先にと争う人、他人が優先されると怒り出す人は決して珍しくない。
さらにいえば、それがおろかな騒動につながることも決して珍しくない。飲食店や病院、物販店で延々と怒鳴り続ける人を見かけることもある。怒鳴られるくらいならまだしも、怪我させられたり殺されたりという事件もないではない。

他人に先を越されても怒らない、自分が誤って優遇されたら辞退するというのはうまい対処だということもいえよう。
会計の順番などせいぜい1分の差も出まい。引いておけば身の安全が図れるといえる。
ことに現代はいろんな人が社会にいる。外国人もいる。他人よりも前に出ることが至上命題になっているような国の人もいるのだ。

そういう意味ではあのお二人は奥ゆかしく礼儀正しいだけではなく、巧みであるともいえよう。いや、このうまい身のかわし方こそが日本の作法であり民度であるのではなかろうかと思うのである。これが社会をうまく回す潤滑油なのである。
どうしたって図々しい人、傲慢な人はいる。これをうまくかわすのが見識なのである。

これをスマートにやるためには周囲に目を配っていなければなるまい。
自分が先だったのに、ということはたいていの人が気づく。でも怒らない。そこまでは まだできよう。だが、あちらが先ですは目配りせねばできることではない。
とはいえ、すべてに気が付けというのもなかなか無理のある話で、場にいるすべての人間が阿吽の呼吸で動くというのが最も美しい。互いに気づけば美しいし、それに気づかなければ引けばよろしい。気づいてくれたらそっと礼をする。

それができる人間になろうではないか。
posted by Mozzo at 22:09| Comment(0) | TrackBack(0) | まじめな正論! | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

原発賛否に根本的かつ哲学的議論を

原発推進・反対の議論は最近はすれ違いで膠着状態のように見える。
最近はどちらも言いっぱなしだ。議論せずとも推進派は押し切れると思っているのだろう。反対派は反対自体が美しくて自分たちも美しくてと自己満足に陥っているようにしか見えない。

だが、原発推進だろうが脱原発だろうが、議論は深めておかねばならないのではなかろうか。すでに原発に手を出してしまったのだから、原発がなかったがごとくの選択肢はもうありえない。どの選択肢を選ぼうが痛みを伴うのである。考えに考え抜いて納得済みでわれわれの未来を選択したいものである。

そこで今回何が議論が足りていないのか、私の知識の及ぶ範囲ではあるが書き連ねたい。誰が読むのかこんなもの。

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なんといっても原発および核関連施設の危険性についての議論である。

かつて原発事故は絶対に起きないと豪語していた時代があった。
まぁそう信じていたとは思えぬが、そういわないと政治的に進まなかった背景があろう。ま、邪推はさておき、度重なる重大事故の果てに福島の事故が起きた。原発事故は起きる。起きた。これが事実だ。

それを当初は想定外の事象が起きたと言い訳した。いや、想定できたけど金もかかるし自分が生きている間には起こらんだろうと高をくくっていたとしか思えないが、それでも邪推はさておき。

想定外に対応できなかったというなら、今後人智を尽くして想定できることにすべて準備するんですねと言いたいのだが、話はどんどんしりすぼみになっていった。
ターゲットは想定できなかったあらゆることであるべきなのに、電源喪失を招くあらゆることに矮小化され、さらに巨大津波に矮小化され、防潮堤の高さの問題に矮小化された。
素人が考えても電源喪失以外でも原発事故は起こるだろうし、津波以外でも電源喪失は起こるだろうし、防潮堤を高くすれば津波が防げるわけではないとわかる。

津波に対する態度がおかしいことについては、先日広島の災害に寄せて書いた。かれらは明らかに津波を過小評価しようとしている。
http://mozzo-expresso.seesaa.net/article/404238170.html

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はたして想定しうる事態にどう対応するのか、それを一切合財洗い出してからの議論でなかろうか。そう思うのである。たぶんそんなんじゃダメでしょPON PON PON。

かつて、原発は安全だ安全だと言われていた時代、圧力容器も格納容器も原子炉建屋もそれはそれは頑丈で、という説明がされていた。
しかし、福島の事故をみて素人ながら思った「こんなしょぼいのか」。
少なくとも原子炉建屋は普通のビルと大差ない。
建屋天井にあっさりと大穴が開いてしまっている。その映像を見るに天井の厚みがない。当然、原子炉建屋だけが破損したわけじゃない。

誰しも考えるだろう。この天井を攻撃したら原発事故になるんじゃないかと。

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たとえば大型旅客機がぶつかって耐えるのか? そうは見えないが。
たしか、政府の回答は飛行経路が原発から離れているから大丈夫だということだったはずだ。決して大型旅客機がぶつかっても大丈夫だとは言っていない。

かの日本航空123便墜落事故では油圧系統を失った飛行機をなんとかコントロールしようと懸命の操作が行われ、機は広い空域を迷走した。絶望的状況にもかかわらずパイロットのあきらめない態度には今でも頭が下がる。
今後、同様の事故は起こらないというのか起きてもそれでも原発にはぶつからないのか。

さらにこの文章を書いている最中に飛行機の経路をリアルタイムに表示するwww.flightradar24.comをたまたま見てみたら、ANA452便が静岡の御前崎をかすめて飛んでいた。御前崎には浜岡原発がある。
原発から空路が離れているというのはたかだか数キロの話か?
ねちねちと探したのではない。もしやと思ってこのページをパッと見たら偶然御前崎の上を飛んでいたのだ。その後もJALやらANAやら飛んでいる。緻密に日本中の原発を観察すればどれだけ飛行機が近づいていることやら。
いい加減なブログに見えるだろうが、できる限りで裏は取っているのだ。

さらに言えば、先のマレーシア航空370便の行方不明事件である。原因はいまだ明らかではなく、様々な憶測がされているのであるが、以下のことは間違いないようだ。
・意図的に無線や監視装置を機内から停止していた
・その後予定の進路を変え数時間は飛行した

つまり、パイロット本人か機内を制圧できる乗客乗員が飛行機のコントロールを奪うことはハイジャック対策が進んでいる現代においても可能であることを証明したのである。パイロットがハイジャック犯だったらもうどうにもならない。無人操縦にするしか方法がない。
そうなれば、確率の問題ではなく、意思と手段を有していれば大型旅客機を確実に原発にあてることができることを示している。

当然これは想定できる。政府に想定できる能力がなかったとしても(そんなおバカさんではあるまいし)今私が想定した。わかったか日本政府!(私は何様なんだ)。
さて、これに対する対策は。政府は答えを出しているのか。

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航空自衛隊がスクランブル発進して警告し従わなければ撃墜?
しかし、スクランブル発進する条件がむつかしい。相手が外国機なら防空識別圏というものがあるが、この場合国内線もあるのだ。
スクランブル発進して相手に接近するまで仮に5分(無理かな)。基地が近くにあっても難しいか。警告して射撃許可が出るまで5分(そんな度胸あるかな)。それで撃墜して落下しても原発に当たらないようにするのだから、はたして原発に何キロまで近づいたらスクランブル発進するのだろうか。
巡航速度であれば10分で旅客機は150km飛ぶ。原発から半径150km。
その距離に旅客機を入れないなんてことができるのだろうか。
先ほどの浜岡原発を例にすれば、100kmでも静岡県内に飛行できる場所はない。浜岡原発から見れば西は渥美半島の突端、東は伊豆半島の先。150kmなら名古屋圏をカバーし、セントレアを出発した飛行機にはすべてスクランブルだ。もちろん、静岡空港なんて使用禁止の危険施設として爆撃せねばいかんというものだ。

現実的ではない。

では、現実解は各原発にSAM(地対空ミサイル)サイトを設けることだな。
10km以内に侵入した航空機は問答無用で撃墜。いや10kmで撃墜できて残骸が原発に当たらないといえるかどうか。
陸自の高射特科大隊は各原発に張り付く必要がある。はてさてそんな体制になっていたかな。

大げさけどテロリストがいれば明日にでも核事故が起こせるということを言っているのだ。

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飛行機が原発に突っ込むという話は、意思と手段があれば確率の問題ではない。
無論意思と手段があればできることはこれだけではない。自爆覚悟の武装したテロリストが何名かいれば何ができるだろうか。
やろうという人間があれば確実にやれる。対策をしなくていいはずがない。
では、意思の問題ではなく確率の問題であるものはどうなるのか。脅威ではないのか。

たとえば、地球を周回する軌道上には昔打ち上げられてすでに制御を失った人工衛星がある。そして、薄いながら空気の抵抗を受け徐々に高度と速度を下げてくる。いずれ地球に落ちてくる。
かつての人工衛星は打ち上げるのに必死で、役目を終えて落ちることまで考えていないと開発者当人が証言している。打ち上げ能力の制限もあるから何百トンという巨大なものが落ちてくるわけじゃないが、数百キロの鉄の塊が音速をはるかに超えるスピードで地上に達することがありうる。

ましてや天然の隕石・彗星となればものも大きいし、数も限りない。

はたしてこれらは原発にぶつからないのか。
それは確率の問題であり、逃げようはない。確率はゼロではないが人間の感覚から言えば低いともいえよう。

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前にも紹介したのだが、地球には時々大きな物が落ちてくる。隕鉄と言われる鉄を主体とした重い隕石もあり、岩石を主体とした軽めの隕石もあり(それでも岩石よ)。水やメタンを中心とした彗星はよっぽどの大きさがなければ地上に到達しないようにも思うが、木星に激突したシューメーカー・レヴィ第9彗星の例もある。原爆並みの威力。

先にもロシアに隕石が落下した事件があった。
チェリャビンスク州の隕石落下で検索すればわかると思う。
幸いにも、隕石は上空であらかた破壊され、地上への被害は衝撃波や比較的小さな破片の衝突ですんだらしい。だが、湖に落下した大きな破片があった。この破片や衝撃波の直撃をうけたら原発がどうなるかはわからん。
この隕石のもともとの大きさがある意味驚異的である。
直径たかだか十数メートル(諸説あるがだいたいそんなもん)。小さい。珍しくないということだ。

ちなみに小惑星探査機はやぶさで有名になった小惑星イトカワはざっくりロシアの隕石に対し長さで20倍だという(ということは体積で言えば8000倍!)。
イトカワは地球と近づくことも多く「潜在的に危険な小惑星 (PHA)」なのだそうだ。

さてイトカワが原発・核施設に衝突する可能性は。

もちろん確率は低い。宝くじとどちらが低いかは知らんが相当に低い。宝くじはジャンボなら一千万分の一なんだそうな。高いのか低いのか。
ま、比較できるものでもないか。宝くじはその場のもの。隕石はこの先何万年もの間に一度でもぶつかったらアウトなので。原発があれば永遠に、そうでなくとも高レベル核廃棄物処理場はある。
また宝くじは買ったそのくじしか当たらぬが、小惑星はイトカワだけじゃない。ダークホースがやってくるかもしれぬ。個人が宝くじを引き当てる確率と、人類が小惑星と原発の衝突を引き当てる確率と、はてさてどちらが小さいやら。母数がわからぬ以上比較できない。
私にそれを試算する能力はないのだが、だからこそ政府は人智を結集して試算しろと言いたい。

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原発推進派はあまりに低い確率の事故を心配しても仕方ない、経済への影響はどうなるという。
それは一理あるとは思うのだが、ではその低いという確率はどれほどなのか。低いから無視していいと判断できる材料もなく議論もせず無視するというのは納得がいかない。

彼らは危険なものは原発だけではない、リスクは何にでもあるともいう。
それも一理ある。
原子力事故で放射能障害で死ぬのも、強烈な温暖化で飢えて乾いて死ぬのも同じだ。原子力事故で日本全体が滅びるかもしれないが、温暖化は世界全体を滅ぼすかもしれない。日本だけならいいではないか、だろうか。
まぁ原発が温暖化ガス低減に役立つかどうかは別の議論だが。
リスクが現実になったとき、実際になにが起こるのかである。

議論せずに終わるなと言いたい。

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実際に何が起こるかによってそのリスクを負うか回避するか決めるのは当然のことだ。
ただ、単純にリスクの確率×リスクの被害などと計算していいものでもない。
そこには価値判断というものが複雑に絡み合う。

たとえば縁起でもないが、大事故によって北海道をすべて失うとしよう(道民ごめんね)。北海道約8.3万平方キロメートル。日本全土約38万平方キロメートルの多くを占め、なんと四国と九州を合わせたより広いという。この比較ににやっとした人はHTBに出頭なさい。
さて、北海道全体を失う被害は日本全体を失う被害の1/4だと評価していいだろうか。いや北海道は大きいけれど、それを比較して小さいと言っていいのか。北海道を失っても東北以南に避難し、日本という国は維持できる。だからいいのかと言っていいのか。比較の問題ではなかろう。4倍のコストを払えば日本全体を失っていいとは言えまい。道民には悪いがこの比較に間違いはあるまい。量の問題ではないのだ。
さらに縁起でもない想定をすればその時日本がロシアに占領されていたとしたらどうなるか。北海道はロシアのごく一部であるし、日本列島すべてが被害にあってもロシアのごく一部になる。相対的にどうなのか。そこは価値観に揺らぎが出るだろう。

我ながらまとまらない話だ。話を隕石が落ちてくる話に戻す。

上野の国立科学博物館には数々の隕石が保管されているという。
多くは隕鉄と言い、鉄を主成分とした塊である。多くは大気との摩擦で焼失するがそれでも大きな塊が地表に到達する。
こんな鉄の塊が音速を大幅に超えて落ちてくるから衝撃は想像しがたい。
あのしょぼい原子炉建屋を見れば10kgの鉄の塊で軽く射抜けるのではなかろうか。
文句があれば、原発ならそのくらい弾き飛ばしますという科学的エビデンスをもとに反論を>日本政府。
何様なのか私は。

10kgというのは国立科学博物館の所蔵品で、とある番組でしょこたんが持ち上げていたのをみた。両手に持ち上げる程度の大きさであるが、鉄であるから重い。
で、国立科学博物館の所蔵品の中には田上隕石174kgてのもある。まぁどう見ても原発の建屋が耐えるようには見えない。
まぁ過去の歴史において日本にこうしたものが落ちてきたのだから、この先落ちてきて原子力施設に当たらない保証はない。確率が低かろうとも。

まぁこの程度のものであれば原子炉にドカンと穴が開いて大惨事になる程度で済むだろう。大惨事だが。

だが、地球にはかつてもっとすごいものが落ちてきている。

アメリカはアリゾナ、バリンジャー・クレーターなんてのがある。
その名の通り隕石が落ちたクレーターである。
クレーターの直径は1.2kmほど。深さは170mほど。残っている穴の大きさでそれだから、実際の威力はもっと広くに及んでいる。
その1.2kmなり170mなりに生き物が残っているはずもなく(穴だし)、半径数十キロにわたって生物は死滅したとされる。
地中に深い方向も170mの深さの穴が「現代に残っている」というのだから隕石の影響は深さ1kmくらいに達したのではなかろうか(これは全くの推測)。
クレーターを買い取ったバリンジャー氏は地下419mまで掘り進んで隕石本体を発見できなかったという。実際には地表との衝突で隕石本体は四散したということらしい。
はたして、そこに核施設があったとき、地下何メートルまで潜れば安全なのだろうか。最終処分場は地下だから安全と言ってるけどね。まだ最終処分場なんぞ場所するら決まっていなくて、はてさてこの隕石が青森に落ちたらどうなるのかね。

まぁバリンジャー隕石なんてのは地球の歴史上まだまだ小物である。
もっと大きな隕石や小惑星は地球に落ちているのだが、そして、地球そのものが小惑星が合体してできたものなのだが。それらの痕跡は人間の目にはつかない。海だったり、浸食されたり。アリゾナだから残るわけで。
もっと大物の小惑星が衝突したらどうなるか。近くに落ちれば日本列島が地殻ごとはがれ弾き飛ばされるという。衝撃は世界を覆い、大型生物はすべて死滅するという。まぁそんな時に原発事故が何だというのかという諦念はあろうかと思う。地盤ごとひっくり返してすっ飛ぶのだから丈夫もなにもない。

ではどの程度の隕石までは想定するのか、そこは議論せねばなるまい。隕石が落ちる可能性とその被害の大きさについて。
バリンジャー隕石と同じレベルだとしてどうなるだろうか。
原発があろうがなかろうが周囲数十キロは壊滅状態になる。県単位で壊滅ではあるが日本は壊滅しない。
まずクレーターとなる周辺の1km四方は全くの壊滅。なにせ地面ごと吹き飛ぶのであるから丈夫な建物がなどと言っている場合ではない。
生物がすべて死滅するという周囲数十キロであっても今の原発が耐えるとは思えない。クレーターの外であっても人口建造物が無事であるとは思えないし、ごく周辺部で仮に建屋の形は保ったとして、原子炉の健全性を維持するための電源や電子機器が正常に動く状況にあるとは想定できなかろう。

生身の人間から見ればおそらく100km圏内は「大惨事」であろうが、日本のどこに落ちようが日本全体が滅びるわけじゃない。500km,1000kmと離れた場所がある。

壊滅的な被害を受ける場所に原発があれば吹き飛ばされた土砂に原子炉の「すべての放射性物資」が含まれる。福島の事故ですらごく一部が漏れただけなのである。ごく一部だからこそ、いまだ原子炉に高レベルの放射性物質が残っているのである。それがすべてふきとんだとしたら。原子炉の外にも使用済み核燃料があるとしたら。

バリンジャー隕石レベルのことがそうそう起きるなんてありえないというかもしれない。
さて、これがどれほど珍しいことなのか。

バリンジャー隕石はそれほど昔のことではない。5万年とも十数万年ともいわれているが。地球の歴史から見れば短い。もちろんこの先5万年の間そういう隕石が落ちてこないという意味ではない。ほんの少し先のことかもしれぬ。
たかだか直径数十メートルの小惑星をすべて把握できているとは言えまい。ことに軌道が極端なものもある。軌道面と地球軌道面との角度が大きいもの、軌道離心率が大きいものがあり、それらは観測の網から漏れてしまうことが考えられる。

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日本が滅びるのか世界が滅びるのか。ちょっと貧乏になるだけなのか死ぬのか。人間がほろびてもほかの生物は残るのか残らないのか。
リスクが現実になったときどうなるのは気になる。0か1かではなかろう。

この際人類なんぞ滅びても生命が地球から消えねばという達観もあろう。
過去の地球の歴史において、生命の絶滅寸前の大惨事が何度もあり、それを乗り越えた種が大きな進化を成し遂げたという事実がある。
地球は何度も変動した。雪玉のように凍り付き、酸素が増え(当時は毒物)、低酸素にさらされ、大陸は移動し海が消え、灼熱に覆われた。そのたびに当時繁栄していた生物は絶滅し、生き残った生物が様々な形に進化した。こうした試練がなければ今も地球は微生物だけが支配していただろうという科学者もいる。

ぶっちゃけていえば、人間の歴史なんて地球のごく一部。生物が残ればどの種でもいいよ。人間絶滅問題なし!
という考え方も決して荒唐無稽ではない。地球の歴史をコントロールした神がいたとしたら、間違いなくそう考えているだろう。「そろそろ人類限界じゃね?」って地球ゲームをやっている神同士で言っているよ。

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ま、いろいろと大脱線してしまったが、もはや人類が何をすべきかせざるべきかは哲学の領域に達したと思うのである。
地球、生物、国家、民族、様々な要素を鑑みて最適な行動はなにか。

「これは今後千年以内に1/10万の確率で日本が滅亡するかもしれない選択肢ですが、そうでないと1/5万の確率で日本は飢えて他国に占領されます」
「これは今後一万年以内に1/5000の確率で日本が滅亡するかもしれない選択肢ですが、その時は世界も道連れです。人類は生き残れません。そうでないと1/1000の確率で日本の製造業は世界に遅れをとります」
はてさて。
人類は確実に生き残りますが、他の生物は全滅です。日本人だけ不利です。人類だけ全滅です。はてさて。

こうした問題は二つ比較して対照群を設けて実験することはできないのである。
核施設の問題だけではないのだが、知力をつくし議論して選択するほかはない。それが次世代に対する責任であろう。
天国あるいは地獄といった死後の世界を信じるわけじゃないが、死後、議論したのかと詰問されたら議論したと堂々と言えるようにしたい。この文章もその一部だ。

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現状の原発推進派政治家報道人の態度を見る限り、ここで挙げたようなごく確率の低い問題には起こるはずがないと断じ、もし起きたらどうなるかは考えていないように見える。そんなことは起きないんだから考えても仕方ないだろうと。起きないというのがそのおっさんの生きている間だけなのかもしれぬが。

では、原発反対派を応援できるかといえばこれもどうかと。
人類はもっと別のことであっという間に絶滅する可能性もあるわけで、その可能性と冷徹に比較したのかと思う。危険性がゼロでなければ100%のような極論にはうんざりだ。

人類が滅びず安楽に暮らせる未来を選択(賭ける)したいのだが。

核事故は未来に起きて人類を滅ぼすのかもしれない。だがその間に安楽に過ごせたらどうか。安楽というのは飢えからの解放などすべてを含む。
原発を受け入れたら100年後に起こる事故があったとしよう。原発を受け入れねば回避できたとしても、150年後には別の原因で人類は滅びるのかもしれない。その間飢餓に苦しめられ。何が起こるか。大きめの小惑星が衝突すれば、ほぼすべての多細胞生物は絶滅。地底に残る細菌のみ残る。
はてさて、それが真のシナリオなら正しい選択はなにか。

要するにかけなのである。ギャンブルなのである。人類としてかけをする以上判断に乗るための情報提供と意見表明の機会は欲しい。
あとはどうなるかは神のみぞ知るのである。

posted by Mozzo at 21:03| Comment(0) | TrackBack(0) | まじめな正論! | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

嫁の作ったカレーを捨てるオニ姑と言われていいのか

悪いっちゃ悪いが、無理もないなという事件。

引用ここから====
カレー捨てられ「死んでしまえ」義母を鍋で殴る
2014年10月24日 17時56分

 警視庁小金井署は23日、国分寺市北町の主婦の女(33)を殺人未遂容疑で現行犯逮捕した。

 発表によると、女は同日午前8時20分頃、自宅で、夕食用に作っていたカレーを義母(73)に捨てられたことに腹を立て、「死んでしまえ」と叫びながら義母の首を両手で絞めたり、カレーを作った鍋で複数回頭を殴ったりした疑い。義母が119番し、駆け付けた同署員が女を取り押さえた。義母は頭に全治10日間の軽傷。
2014年10月24日 17時56分 Copyright コピーライトマーク The Yomiuri Shimbun
引用ここまで====

まぁ確かに首を絞めたり鍋で殴ったりすれば殺人未遂。擁護できることではない。
しかし、夕食に作ったカレーを捨てられるというのはどういう仕打ちなのか。日常的にもっと別の侮辱をされているのは間違いないだろう。かなり同情する。
私も同じ目にあわされたら感情を抑える自信はない。軽傷程度で収めるかどうかも。確実にとどめを刺すかもしれない。そりゃ死んでしまえと思うだろう。

別の報道ではこの容疑者の夫、被害者の息子が「日頃は仲がいいこともあるがいったんもめると手が付けられない」とまるで他人事のコメントをしているそうな。
被害者も気に食わないがこの夫も気に食わない。

この事件を機に根性の腐った姑と情けない夫から解放されて新しい人生を歩まれることをお祈りしたい。まだ若いのだ。

まだ鬱憤が爆発し事件になったからいいようなものだ。同じように抑圧されて人生を無駄にしている女性がどれほどいることか。それを救わない情けない夫がどれほどいることか。こうした女性を救い出すような仕組みを作れないものかと思う。
公が助けないなら女性自身が自らを救うしかない。この事件の女性のように姑を叩きのめせと不謹慎だが思ってしまうのだ。半殺しのような人生を歩むくらいなら姑に叩きのめせと。不謹慎なのは重々承知。

姑が嫁をいじめるというのは本能に根差している部分があるという。

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人間は哺乳綱サル目の一種である。その一部は社会的な集団を作っている。チンパンジー、ゴリラ、オランウータン、ボノボなど。
ただ、雄雌の関係はそれぞれ多彩である。チンパンジーやボノボは強いリーダーの雄はいるものの多対多の乱婚的な集団を作る。ゴリラは強い一頭の雄と複数の雌のハーレムを作る。オランウータンは固定的な集団を作らず独立性が高いなど。
ヒトはこの中ではチンパンジーやボノボに近いとされ、オスのリーダーを中心とした乱婚的な社会を作っていたとされる。ただ、その後個体間のコミュニケーション能力が高まるとともに一夫一婦制的な形態をとるようになったとされる。さらに、生殖能力を失った祖父母が娘や息子の子育てを助ける(生殖能力を失っても死なない)という生殖モデルも獲得したとされう。
祖父母といっても、雄は餌集めや順位争いで忙しく死ぬことも多く、もっぱら娘や息子の子育てに介入するのは雌だと考えられる。そこに嫁姑における生殖戦略が成立したと思うのである。

乱婚的な社会集団の中で雄は順位争いや餌集めを行うため個体の能力が問われる。また、狩猟のためには情報交換や連携を必要とする。一方雌は雌同士の社会関係を作り出し、互いに連携したとされる。現代の人間でも男の会話は情報を交換したり議論であるのに対して女性の会話は共感することに重きを置かれるとされるのに通じる。

そうなると、雌同士の連携を乱す雌は排除するという動きにつながるのである。それが嫁姑騒動の一つの理由だ。生殖能力に優れ雄にアピールし寵愛(餌含め)を得る雌は和を乱す敵であるわけだ。
「愛する息子を嫁に奪われて」という言い方をするケースもあるのだが、要するに若い世代の雌を疎ましく思っているわけで、本能が左右している感情であることを理解すべきなんであろう。

もう一つはさらに厳密な生殖戦略である。
ヒトの雌は自分の娘や息子の子育てを助けて間接的に自分の遺伝子を確実に残すという生殖戦略を選んだ。遺伝子が残ればいいのであるし、遺伝子を共有していない息子の嫁の生存を助ける理由はない。さらに言えば、いったん息子の子供を産めばその子供は自分(祖母)が育てればいいのであるから嫁はいらない。子育ての間は次の子を産まないから(人間は産めるのであるがその他のサル目はそうではなく、その頃の種としての記憶なんだろう)、嫁を追い出して新しい子を産める雌を迎えるのが遺伝子を残す戦略なのである。
ましてや、子を産まないとか男性と同様に外で働いてなんてのは自分の遺伝子を残す方向に働かないから本能が腹を立たせているのである。

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とはいえ、本能だから姑が嫁をいじめていいとは微塵も思わない。正当な理由もなく本能的な感情で動いていることを反省し理性で抑えるのが人間であろう。
周囲の人間も嫁いびりの姑を見たら軽蔑してやればいいのである。

ここまで言ってしまうと、いや違ううちの嫁は本当にひどいのだ、家事もしないし無礼だしという意見も出てくるのかもしれぬ。客観的に見てひどい人もいないとはいわん。
だが、自分の見方に客観性があるのか100回くらい問い直した方がいい。それは本能が作った感情ではなかろうかと。
そして、仮に考えても考えても嫁が非難すべき存在である時、自らの晩節を汚さぬように何をすべきかを考えた方がいい。嫁を攻撃してもなんの解決も得られない。
ダメな嫁を選んだダメな息子ともども切って捨ててはどうだろうか。嫁は嫌いだが大事な息子を捨てることはできないといいとこどりしようとしてはいかん。ダメな嫁を選んだダメな息子なのだ。切り捨てて独立した生活をはじめるのが吉である。
独立した生活ができないのであらばそれは人生の負けであるのだから膝を屈する必要があるのではなかろうか
冷たいようだが、それが唯一平和な解決方法なのである。本能に任せて嫁の作ったカレーを捨てるような婆と言われていいのか。
posted by Mozzo at 16:31| Comment(0) | TrackBack(0) | まじめな正論! | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

市街地住宅地の改良に強制力を

まぁ気持ちはわからんではないがという報道である。産経新聞から引用するが長いので末尾に引用する。記事は以下の場所。
http://www.sankei.com/west/news/141024/wst1410240004-n1.html

大阪十三にあった古い街が大火災で焼失し、その復興でもめているというのだ。
戦後に自然発生的に生まれた雑然とした街並みだったようだ。
古い街並みを再現したいという意見あり、これを機に(法律通りに)区画整理をすべきだという意見あり。どっちにしてももう元の場所に戻れないという商店主もいるようだ。

いきなり脱線するが、産経新聞は大手新聞の中で右寄りとされているが、割と少数意見対立意見をきちんと取り上げているところがよいと思う。もちろん方向性というものは持っていて不偏不党というつもりはないが、対立者の意見に対して冷静だ。気に入らない意見は少数派で取り上げるに足らず、口を極めてけなしていいという姿勢があからさまな中日東京朝日毎日あたりは見習うべきだ。
それはさておき。

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この問題、ノスタルジーに傾きたくなる気持ちもあるのだが、そこはきっちり切り捨てねばならないと思う。そもそも雑然として道路も狭い、防火性のない建築が所狭しと並んでいたからこそ丸ごと焼けたのではないか。同じような街を再建するのか、それで人が死んだらどうするのか。
終戦直後の混乱期に人々が生きていくために立ち上げた街という意味では必然的な姿だったのであろう。だが現代、そしてこの先何十年何百年と生き続ける街の姿としては望ましくない。
広い道路にコンクリート造りの建物が無機的だと批判する向きは多い。雑然とした場末趣味というのがある。広い道路にコンクリート造りだけが安全な街の解であるとは言わないが、ではどうしたら効率的で安全な街ができるのかの提言がない。昔が懐かしい、人情があったでは意味がない。また、広い道路にコンクリート造りの建物に人情は宿らないのであろうか。

土地の権利(借地権も含め)が絡むと調整は難しい。古い建物でこの際建て替えてもいい人がいて、建て替えたばかりの人もいて、土地が広い人狭い人、改造に伴う損得。みんなが満足する解は現実にはないのである。空間を4次元で分割してみんなに配分するくらいのことができねば無理なのである。
大火災が起きたことを福に転じるためにも、思い切った割り切りが必要なのではないか。
商業的に成り立つ高層ビル、商業ビルだけが解でもなかろう。売れるのか売れないのかわからんテナントビルができるくらいなら公共空地にして人を集める方がコストもかからず地域振興の面でもいいのかもしれない。屋台村的なものとかイベント会場として、ほぼ空き地で人が集まる仕組みはいろいろありうる。
土地の狭い大阪であるから、公共空地や緑地があることはわるいことではない。
この際小さく採算がまとまるような案に傾くのではなく、思い切った大阪の知恵を期待したいものだ。

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しかし、街の改造は大火災大災害がないとできないものなのだろうか。
建物の耐火性・耐震性が向上し、今回のように戦後すぐの雑然とした古い街でもなければ全滅するようなことはそうそうなかろう。
いや、雑然とした古い街であっても火災を機にではいかん。人が死ぬかもしれぬ。
もっと、先手を打って早く計画的に改造する必要があると思うのである。

しかし、実態はひどいものである。街ごと再開発なんてのはそう簡単にはできないどころか、とくに住宅街はどんどん悪くなっていく。

私がよく通る場所に古い一軒家が立っていた。小さく古く、それでも小さない庭がある家であった。そこが更地になったので建て替えるのかなと思っていたらなんと三軒の家が建った。庭があったとはいえ小さな家に小さな庭。それが一戸建て三軒に化けるのであるから魔法である。
当然土地はぎっちぎちに利用されており、ことに奥に配置された一軒は周囲をほぼ囲まれ玄関が外に見えるだけ。あれでは日当たりも風通しも悪かろう。
明らかに住環境としては悪化している。見た目新しい家が建っただけである。

これは日本中の住宅地で起きていることではなかろうか。たとえ郊外の土地の広い場所であっても地価が高く狭い土地しか買えない。周囲が空地の場所に庭も満足にない狭い一戸建てが立っているのは滑稽である。
建て替えをすれば広い土地を分割(分筆)するのが当たり前で決して狭い土地をまとめる(合筆)して大きな庭のあるゆったりした家を建てたなんて例は聞いたことがない。
田舎であっても日本は土地が高すぎるのではなかろうか。私は地価も家賃も軒並み3分の1でいいと思っている。

今後人口が減少していく。すでに古い住宅地では荒廃した空き家が問題になりつつある。古くて雑然とした住宅地も商業地も整理してゆったりと広く良質なものに変えていかねばならない時期だ。それができないのは法律や公の権限に欠陥があるからに他ならない。
狭くて古いうちが密集している場所は「10年以内に半数は出て行って残った人は広い家に建て替えなさい」ということが命令できないのでは、いつまでたってもよくならない。

生まれ育った土地が、家が、懐かしい街並みがという言葉は美しいが、雑然と古く危険な都市、低湿な住宅ストックを抱え込むことが健全とは思えないのだ。
同様に過疎・限界集落というものも廃止整理されていい。
強制力も時には必要なのではないか。

引用ここから====
十三「しょんべん横丁」にオシャレなビルは似合わない…復興めぐって意見真っ二つ

がれきが取り除かれ、ほぼ更地になった「しょんべん横丁」の火災現場。元の街並みへの再建をめぐって借地権者らの意見がまとまらず、難航している。昭和の風情は復活するのか=10月1日、大阪市淀川区

 赤ちょうちんが揺れる昭和の風情あふれる街並みは戻るのか。今年3月の火災で焼けた大阪市淀川区の阪急十三駅前の飲食店街で、焼失した約40店舗の復興が難航している。10月中にはがれきの撤去が完了し、更地になる見通しだが、その後の再建案をめぐって借地権者や土地所有者らの意見がまとまらないのだ。「しょんべん横丁」と呼ばれた細い通りに小さな木造の飲食店が並ぶ元の街並みの復活を望む声は強い一方、広い道幅を求める人もいる。細い通りを廃止し、現代的な商業ビルを建てる「うわさ」まで浮上する事態に陥っている。(中井美樹)

「こんな場所はほかにない」

 「はやく元の街並みに戻ってほしい」

 サラリーマン時代から40年近くしょんべん横丁に通っているという大阪府豊中市の男性(65)は、駅前にぽっかりと広がる焼け跡の暗い空間を見つめ、寂しそうに話した。

 午前中から開いている立ち飲み屋、ホルモンのうまい焼き肉店、串かつが人気の大衆酒場、60年近く続く老舗のバー…。火災前、一帯は小さな木造の飲食店が密集、独特の街の雰囲気を醸し出していた。

 阪急十三駅に隣接し、戦後の闇市からスタートした一画。当時は店にトイレのない店が多く、立ち小便する酔客が後を絶たなかったことからしょんべん横丁と呼ばれるようになったという。火災では、南北に走る2本の通りに囲まれた約1500平方メートルに密集する39店舗が焼失した。

 男性のなじみの店だった居酒屋「平八中店」は焼失を免れたこともあり、今月1日、約7カ月ぶりに営業を再開した。店は南北に走る2本の通りのうち西側の市道(幅4メートル)の西部分にあり、火災以降通行止めになっていた市道の開通とともに営業再開にこぎつけた。しかし、市道の東側を走る私道(幅2・5メートル)はまだ通行止めのままだ。

 男性はしょんべん横丁の魅力について「誰でも受け入れてくれるような深さがある。こんな場所はほかにない。復興を待ち望んでいる人はたくさんいる」と語った。

再建への高いハードル

 再建にあたっては、クリアすべき規制上のハードルがある。

 道幅が4メートルあった西側の市道は、昭和22年に決まった大阪市の土地区画整理事業で8メートルに拡幅されることになっている。道幅2・5メートルだった東側の私道も、建築基準法の防火上の規制に基づけば、建て替え時には4メートルに拡幅しなければならない。現行規制に沿って建て替えると敷地面積が減る店が続出する。

 しかし地元や市民から、元の街並み再現を望む声が多く寄せられたことから、市は5月、借地権者や土地所有権者の合意があれば、元の道幅でも再建できる案を地元に提示した。

 この案に基づき地元商店会では、まず市道の道幅を計画上の8メートルから4メートルに変更するため借地権者らの同意書を集め始めた。だが今のところ、対象の56人中、同意を得たのは約7割にとどまる。

 商店会関係者によると、同意していない約3割は、市道が拡幅されても敷地面積が変わらない西側の借地権者らが中心。火災前も道幅8メートルの容積率が適用されており、4メートルに変更されると容積率が小さくなり、延べ床面積がこれまでよりも制限されてしまうことが反対の理由と考えられるという。

 今後、合意形成に向けた話し合いの場が開かれる可能性はある。しかし、商店会関係者は「資産の価値が下がる内容に、そう簡単には合意してはもらえないだろう」と声を落とす。

 私道の道幅をそのまま残すハードルも高い。

 市は、平成14、15年の2度の火災で焼けた「法善寺横丁」(大阪市中央区)でも適用した建築基準法の特例を用いて現状の道幅のまま残す提案をしている。ただ、制度を適用するにしても、耐火の構造物にするといった建築協定の策定が必要で、関係する借地権者ら全員が同意するかは不透明なのだ。

 「越えなければならない高い壁がいくつもある。街全体の復興は、登山で言うと今はまだ1合目か2合目ぐらい。まったく先は見えない」。商店会会長の中田八朗さん(68)は苦しい表情で語る。

商業ビル案に意見真っ二つ

 再建の先行きの見えない中、テナントとして入っていた店は、次々と別の場所で店を借りて営業を再開している。店主の一人は「現状では再建の時期や再建後のテナント料もどうなるのか全く分からない。今、営業している場所でもお客さんが来てくれているので、再建されても戻らないと思う」と言い切る。

 厳しい現状に、しょんべん横丁のイメージとは異なる案が実現する可能性が浮上してきた。

 私道を廃止して店舗を十三駅側に集約し、市道を拡幅する案だ。市が提案している案の一つでもある。この案だと建物の高層化が可能。テナントを多く入居させられる現代的な商業ビルを建てることもできる。

 商業ビルの実現性について、中田さんは「ビルに赤ちょうちんが並んでいても、お客さんは来ないでしょう。やっぱり十三らしい元の街並みを目指したい」と語る。

 十三駅利用者の声はさまざまだ。しょんべん横丁で週に1度は飲んでいたという自営業の男性(62)は「まとまりがなくごちゃごちゃしているのが魅力だったのに、整ったビルになったらつまらない」。一方、近くに住むアルバイトの女性(26)は「しょんべん横丁という名前にいい印象がなかった。きれいになるなら良いと思う」と話していた。

 昔懐かしい昭和の街並みは復活できるのか、それとも−。
引用ここまで====
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ホンビノスガイってなかなかいい貝

海鮮を売りにしたお店で食事をしてきた。ありきたりの刺身や寿司に居酒屋メニューなんてのではなく、ちょっと変わったメニュが売りでなかなか楽しく美味しかった。
よかったのがホンビノスガイである。
大きなものは網焼きで、小さなもの(といっても大きなアサリくらい)は酒蒸しでたっぷりといただいた。
ホンビノスガイはマルスダレガイ科の二枚貝で大雑把に言えばアサリやハマグリの仲間である。アサリやハマグリと比べると薄いような気がするが、マルスダレガイ科に共通の清澄なうまみがある。大きくなると10cmを超える比較的大型の貝である。
火を通しすぎると固くなり旨みも失われるように思う。原産国のアメリカではクラムチャウダーにいれる典型的な貝であり、生でレモンを絞って食べることもあるという。火加減は控えめでよいのではなかろうか。

外来種であって、近年東京湾を中心に侵入してきたという。バラスト水に幼生が紛れ込んでいたらしい。大変に適応力があって、他の貝では耐えられない貧酸素状態にも耐え、青潮の発生に生き延びるという。
以前はオオアサリ、オオハマグリ、シロハマグリとも呼ばれることがあったらしいが、近年は紛らわしくないよう魚介類を標準和名で呼ぼうという動きであるため、ホンビノスガイという呼び方も浸透しつつある。

他の二枚貝同様濾過摂食であり、微小なプランクトンやデトリタスをこしとって食べる。その貝を獲って食べることは海中の過剰な栄養塩類と二酸化炭素を固定して地上に取り出すことになる。また、沿岸漁業でもあるから多くのエネルギーを必要としない。しかも外来種であるから環境面から考えてどしどし食べるべきだ。しかもおいしい。

市場での値段も決して高くない。重量当たりではアサリやハマグリよりもぐっと安いはずだ。ただ、殻が厚くて重く歩留まりが悪いので価格差は縮まるとは思う。
それでいてまだまだ珍しく関東以外では見かけないし、大きいので見栄えもする。ゆえに外食店ではわりといい値段である。
そのため原価率の面では外食店で使いやすい食材と言える。原価率が低いことをことさらにあげつらう向きもあるが、料理として価値があればそれなりの値段を払うのはおかしいことではない。そんな扱いやすい食材もなければ価格競争の激しい外食産業では息もつけないではないか。こんなものもあっていい。

資源量としては現状東京湾周辺に限られることから、日本中でバンバン食べるほど豊富とはいえないのかもしれない。ただ、外来種なので日本で絶滅することが悪いことでもないかもしれぬが。
また、劣悪な環境で育つものの硫化水素が発生するようなヘドロがあるような場所では貝殻が黒く着色するため市場価値が薄れるともいえる。清浄な水の中で泥抜きをすれば臭いも抜けるし有害物質もないと思うのだが。
それでもまだ漁業者の手が入っていない場所が多々あるようである。場所によってはまさにごろごろととれるそうである。また、ホンビノスガイに限らず東京湾に二枚貝が育つような場所をもっと増やすのが環境のためであろう。
重要な商品として認知されれば漁師も市場関係者も着目するので、飲食店も消費者ももっと注目してよい。少なくともアサリやハマグリを輸入して食べるよりずっといい。
本場アメリカと同様にクラムチャウダーで食べてよし、軽く酒蒸しにして切れ目を入れれば寿司種にもなるだろう。カレーやパスタの具にも有望だ。

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大きく厚い貝殻にも注目だ。ちょっとおいしい話とはずれてしまうのだが。
貝殻は炭酸カルシウムが主成分である。
海中のカルシウムと固定した炭酸ガスが元になっている。
土に混ぜ込めば土壌改良材になるし、細かく砕いて研磨剤にもなる。チョークの材料にもできる。モルタルに混ぜ込んで骨材としての利用ができるかもしれないし、プラスティックで固めたら建材になるかもしれない。
大量に確保できる牡蠣や帆立の殻は一部再利用化されているのだが、ホンビノスガイの殻も有望ではなかろうか。見たところ白く用途は広いようにも思う。用途によっては商品にならない黒く着色したものでもよかろう。
富栄養化しやすい東京湾の貝を使うことに意義があるし、大消費地・工業地帯が近い点でもよい。
そうは言っても外食店や家庭からちまちま集めるのでは商売にはなるまい。むき身がもっと流通して加工場から大量にまとまって出る必要があろうが。

東京湾に大きな貝がばんばん育っているかとおもうとなにか利用できないかと思ってしまうのである。
posted by Mozzo at 13:24| Comment(0) | TrackBack(0) | まじめな正論! | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

オスプレイに幼稚な抗議をするバカどもとそれを応援する新聞のバカども

報道機関が不偏不党であるなんて戯言を信じているわけじゃないのだが。
東京新聞のサイトから引用する。

引用ここから====
横須賀にオスプレイ初飛来 「怖い」「常態化か」

2014年10月26日

 これからわが物顔で街の上を飛び回るのか−。不安と憤りをないまぜにした視線が上空の機体に突き刺さる。米軍普天間(ふてんま)飛行場(沖縄県宜野湾(ぎのわん)市)所属の垂直離着陸輸送機オスプレイは二十五日、横須賀市の市街地上空や観光客でにぎわう猿島近くを通り、米海軍横須賀基地に着陸した。初の横須賀飛来に、住民は米軍や市への不信感を募らせた。

 「あれ、オスプレイじゃない?」。午前九時五十五分。海をはさんで基地と向き合う三笠公園(稲岡町)で監視していた市民グループの一人が、声を上げた。見張っていた海側とは逆の市街地方面。集まっていた二十人ほどで空を仰ぐと「ブーン」という音とともに薄灰色の機影が姿を現す。

 基地の上を過ぎ、東京湾に浮かぶ猿島沖のかなたへ。やがて「ドドドド」というプロペラ音を響かせながら舞い戻り、基地に着地した。オスプレイは一度離着陸してから午前十一時十一分、機体を見せつけるかのように基地や海の上を低空で旋回し、東京湾上空へ消えた。

 「OSPREY OUT」と書いたプラカードを持つ横浜市金沢区の無職樋口淳子さん(61)は「地ならしなのかな。これから頻繁に来るかもしれないと思うと、怖い」と硬い表情。横須賀市日の出町の団体職員小原慎一さん(62)は「多くの市民が見る中で低空飛行したのは、オスプレイが沖縄以外でも飛ぶ様子を印象付けるためでは」といぶかる。

 複数の市民グループのメンバーは午後、市中心部の京急線横須賀中央駅前で、オスプレイに反対するチラシを配った。参加した新倉裕史さん(66)は「空母の連絡機に使うことを想定した飛来かもしれない。日常的にやって来る意思表示だろうか」と危ぶむ。吉田雄人市長が「災害救援での重要性は認識している」とコメントしたことにも「厚木基地周辺自治体の首長に比べ、違和感のある内容。がっかりした」といら立ちを見せた。

 基地問題に取り組む呉東正彦弁護士(55)は「平和憲法下の日本の日常に、軍隊が入り込むのは良くない。オスプレイの飛行を常態化させてはならない」と語った。 (中沢佳子)
引用ここまで====

まぁよくもここまで「旗幟鮮明」な記事もあったもんだと。
写真まで引用していないのであるが、記事に掲載された写真がもう冗談の域である。
オスプレイに抗議する「市民ら」の写真なのだが、明確に反対のポスターなりうちわなり持っているのが3人、それ以外の人を含めても5人。どう見ても「オスプレイに抗議する珍しい人々」の写真ではないか。文面では市民の多くが反対しているかのようなトーンであるだけに冗談にしか見えない。
引用した通り中沢さんという記者の記名記事なのであるが、会社の方針でオスプレイ反対の記事を無理やり書かされていてこの人なりの反抗なのかもしれぬ。
仮にも不偏不党を掲げるのであれば、オスプレイに抗議する人がどの程度いるのかを客観的に示してはどうかと思う。

オスプレイに抗議するのも自由なのでいいのだが、その思考回路はなんとかならんものか。
特徴的なのは記事末尾の弁護士の意見だ。平和憲法と軍隊は相容れないみたいなことを言っているのであるがレベルが低い。
言うまでもなく戦争は望ましいものではない。軍人自身も戦争に至らないように目を光らせるのが本分と思っているのであって、戦争したくてしょうがないというわけじゃない。
軍隊を否定すれば戦争が世の中から消えてなくなるわけではない。
誰がやるのかが問題じゃない。何をやるべきかやらざるべきかが問題ではないのか。
たとえばオスプレイが離島の急病人を救いに行っても反対なのか。急病人に死ねというのか。あるいはオスプレイを使わず急病人を助けるための体制をどう作るのか提言できるのか。あの東日本大震災では自衛隊も米軍も救援のために働いた。そこまで否定なのか?
これはやるべきだ、これはやらざるべきだという議論をする気もなく、軍隊ダメダメバカバカと言っているのだ。仮にも知的職業と呼ばれる弁護士なり新聞記者がそのレベルでは話にならない。

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話は脱線するのだが、オスプレイがことさらに否定すべき存在だろうか。

以前にもこのブログで触れたがオスプレイはちょっと変わった航空機である。
世の中飛行船やら気球もあるが、およそ実用的な航空機といえば固定翼機か回転翼機(ヘリコプター)である。固定翼機はプロペラなりジェットなりで推進力を得て、その推進力で得た空気の流れで揚力を得る。回転翼機は翼を回転させて得た空気の流れで揚力を得る。
オスプレイはその中間的な存在で、状況によってモードが変わる。
通常の巡航時には固定翼的である。あの大きな回転翼をプロペラとして使い推進力を得る。ただし主翼が通常の固定翼機より小さいので揚力の一部は回転翼を若干上に向けることで得る。
特徴的な垂直離着陸では回転翼を上に向け揚力を得る。
通常の滑走を行う離着陸でも回転翼があまりに大きくて邪魔になる(前に向けると地面に当たる)のと固定翼が小さい(低速では揚力が足りない)ことから回転翼を斜め上に向ける。まさに中間的である。
まぁこう書いてしまうと簡単であるのだが、その回転翼機モードと固定翼機モードを遷移するときが危ない。たとえば回転翼機モードで浮いているときにぱっと固定翼機モードに切り替えてしまうと速度が出ていないのでどんと落ちてしまう。徐々に切り替えて速度を出さないといけない。

ま、こまごました話はネット上にもっと詳しい記事があるので興味があれば見てもらえたらいい。
まだまだ技術的に枯れているとは言えず、改良の余地があるのは確かだろう。
とはいえ、実績のある固定翼機や回転翼機に比べて事故率が高いかどうかといえば統計上は(少なくとも軍用機としては)少ないそうである。珍しい形式の飛行機が事故を起こすとニュースで取り上げるため危険だというイメージが先行するのだろう。
また、大きな回転翼を見ると騒音が気になるところだが大型の輸送ヘリに比べて騒音は少ないと言う。ことに、水平飛行にうつれば回転数も落ちるのでヘリとは比べ物になるまい。
無論危険や迷惑はゼロではない。その他の航空機と同様程度に。しかしちょっと危険だから迷惑だからといって全面否定では世の中進歩はない。軍隊が導入するからにはそれなりの利点があるのである。危険を管理して熟成するのが本道ではないのか。

上述の通りオスプレイは固定翼機と回転翼機の中間に位置する。ゆえに難しさもあるのだが、両者のいいとこどりという面もあるのだ。
固定翼機は速度が速い。ジェットであれば超音速も可能。プロペラ機でも600km/hを超えるものもある。
オスプレイは最高で500km/h超、450km/h程度で巡航できる。これは高速型のヘリコプターよりも早く、輸送機型のヘリコプターと比較すれば1.5倍から2倍程度の速度だ。
固定翼機としては高速とまでは言えないが、高速で比較的大型の輸送機は1500m〜2000mクラスの滑走路を必要とするし、数百mで離着陸できるレシプロの小型機は速度も積載量もオスプレイとは比べ物にならない。

航続距離も優れている。
荷物が軽い時の比較であるが3500kmを超える。一方ヘリコプターはせいぜい数百kmから1000km程度。大型の積載量に優れるヘリコプターでも2000km程度である。
無論、空中給油を受ければヘリコプターでも航続距離は伸ばせるが、そうした装置を装備せねばならないし、空中給油機や空中給油できる艦船を密に配置することになり、それこそ軍事作戦並みの体制を取らねばならない。緊急時には給油する側が間に合わないという事態にもなろう。

これらの性能は離島の救難に威力を発揮すると言えよう。
急病人の輸送なら荷物が軽いから1500kmの往復も可能だ。空港施設が貧弱な場所に対し往復で6時間の輸送を可能にする機体はほかにない。積載能力も室内空間もあるから救急設備を装備することも可能だ。
救援物資を積んでの飛行となると航続距離が減るが、離島にも給油施設を作るのは滑走路を造るよりは容易だ。

無論、懸念される離島の防衛にも有効だ。
現在の国際情勢、というよりは中国のやり口として、堂々と宣戦布告して艦船航空機がずらりと並んで開戦ということはあるまい。漁民や調査船に扮した連中を上陸させ徐々に米軍の出方もにらみつつ拠点を作るに違いない。ベトナムやフィリピンに対して行ってる侵略行動と同じだ。
そうした事態には初動が大切だ。「もうここは中国の拠点だ」と居座る前に排除せねばなるまい。ゆっくりとでかい艦船で向かう前に少人数でいいから即時に乗り込んで制圧せねばいかんのだ。戦闘機で制空権を確保しつつオスプレイで第一陣が上陸、その間に強襲艦を載せた艦船を向かわせるということになろう。もしそれが不可なら攻撃機で地上攻撃をするほかはなく、無人島ならともかく日本人が住んでいる島を襲われたらどうにもならない。

つい話がくどくなったが、オスプレイがいい悪いの問題ではない。優れたところもある道具なのだから何のためにどう使うかなのである。
問題があれば運用方法を工夫すればいいのであって、軍隊だからいやだもんいやだもんと駄々をこねているような連中にはどうにも共感できないのである。
要するに自衛隊や米軍に難癖つけられるならなんでもいいんでしょうに。利点なんてどうでもいいんでしょう。

どうしてもオスプレイが嫌だと言うなら、いやだいやだと駄々をこねる前に、どうしたら日本の安全を守れるのか、別の方法を提示すべきではないのか。離島すべてに大きな滑走路を作ります、そのために増税もやむなしとか、離島すべてに自衛隊の部隊と救急病院を配置します、そのために増税もやむなしとか、対案を出せといいたい。

少なくともこういう幼稚な連中を応援するような新聞社ってなんだと思う。
posted by Mozzo at 12:22| Comment(0) | TrackBack(0) | まじめな正論! | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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