2014年11月19日

障碍者にいやみではなく配慮をするということ

半分成功、半分失敗、ま、そんな体験を共有して今後のためにしようかという話。

とある駅のとあるバスターミナル。バス乗り場がいくつもあるようなところであった。
乗り場が10個あったとしても行き先は10個では効かない。ひとつのバス乗り場に行き先が三つも四つも。ひとつのバス乗り場に行列が何列もできるのである。大きな駅だ。
このバスターミナルには何度も行っていて、ようやくバス乗り場の位置は覚えたのであるが、どの列に並んでどの行き先のバスに乗ればいいやらだめやらまだあやふやである。

さて、このバス停に並ぼうとしたら白杖を持った若い男性がちょっと中途半端な位置に並んでいた。同じ列だ。
こういうときに遠慮がなく偽善者の私は「もうちょっと前につめても大丈夫よ」と声をかけた。
考えてみれば当たり前。いくら白杖を持っていたとしても、音もなく立っている人が何人並んでいるかなんてわかるはずがない。わかるとしたら白杖を振り回してごつごつと当てているわけでそれはそれでけんかになる。

ああどうも、みたいなやり取りがあってしばらく、バスがやってきた。
ここでまた偽善者精神を発揮した私は「XXX行きが来ましたよ」と声をかけた。
ところがこの男性は「えぇ〜〜〜!? XX番乗り場ではないのですか。XXX行きに乗るのですが」と驚いた。こっちも驚いた。それは隣の乗り場だ。
乗り場をひとつ間違えたというわけだ。幸いにも隣だし、そこまで案内したところで来たバスが行ってしまうほどの時間はかからない。
私はこの男性を正しい乗り場に案内して、それではじゃぁね〜〜と明るく去っていったのだが。

反省せねばならぬことはいろいろあった。

====
別に悪いことをしたわけではない。実利的にもバスに乗り込もうとしてから気づくよりもよかったはずだ。ただ気遣いというか認識が甘かったという反省だ。

この男性は20代前半と思しき若い人で、おしゃれ感も漂う青年というか少年というかいい雰囲気の人であった。ハンディがある人は社会に出ることで精一杯でおしゃれにまで手が回らないケースが多いと思う。なかなかのおしゃれ美少年(少年と言い切ってしまっているが)。
また、視覚障碍者に限っても、決して数は少なくないはずなのだが町で見かけることは少ないように思う。人口に占める割合が何パーセントだからこの程度は見かけるはずという明確な指標があるわけではないが、こんなに白杖を持った人が珍しいということはあるまいに。
おそらくこの男性は活発溌剌と社会生活に踏み込んでいこうとしている人なのだろう。
それはいいことだ。

だが、その雰囲気に呑まれてというか勘違いして「白杖を持っているが、何でもできる普通の人」という誤解をしているなと思ったのである。具体的に考えればおかしいのはわかるのであるが、気丈に行動されている人が目立つし、こちらが気を使うのは失礼という気がするというのもある。
だが、いくら熟練の人でもできないことはある。ことに社会は視覚情報に偏って成り立っている。駅での案内は電光表示に偏っている。ちいさなヘルプが必要だ。
無論、視覚障碍者がなんの問題もなく行動できるような仕組みは理想だが、現実にはまだまだだ。バス停の列に白杖の人が近づいてきたら「XXX行きの列ですよ」「列の末尾はこちらです」「XXX行きのバスが来ました」くらいのことは声をかけても失礼に当たらないと思うべきではないのか(この辺視覚障碍者の意見も聞きたい)。
ましてやこの男性は若く、不慣れだったのかも知れぬ。しかし、それで引きこもってはいられぬとどんどん外に出ようとがんばっている最中だったのかも知れぬ。何でもできるように見えるのは買いかぶりすぎで行動を妨げない範囲で、対話しつつお手伝いするのが必要だったのではなかろうか。

もうひとつの反省は、この男性を正しいバス停に案内する過程だ。
無論、手を引っ張って連れて行ったわけではない。横について腕をやんわりと取って(ひじを軽く包むように)案内したつもりだ。不慣れだったかも知れぬが。
だが、「こちらがXXX乗り場で、行列の最後がここで」と言っただけで案内が足りなかったのではないかといまさらに思う。

この男性はバス乗り場を勘違いした。その時点で脳内に気づいた地図が崩れたわけだ。
その状態で「ここが正しい場所です」とぽつんとつれてこられても情報が足りないのではなかろうか。その配慮が足りなかった。

並ぶ場所は正しくともどの方向に並んでいるのか理解できたのだろうか。
並んでいる行列の長さがわからなければ乗り口までの距離がわからないのではなかろうか。
だからといって、バスに乗るまで見守るとか、手伝うとか、ましてや一緒のバスに乗って案内するというのは行き過ぎでこの人の自立を否定することにつながると思う。
正しくは、「ここが正しいバス乗り場。こちらの方向に並んでいて(ひじから先を軽く誘導すると正確に伝わる)、並んでいる人は何人、のり口までは何メートル。ここまでは正確に伝えるべきだったのではなかろうか。悩ましい。

こうしたことに意識が高いつもりでいたがこんなものだ。残念。後で考えればああすればよかったはいくらでも出てくるのだが。

考えるべき教訓は二つ。
ひとつはこうしたシーンを想定してシミュレーションすればスムースに行動できる。実地の人に出会ってから反省では遅い。
もうひとつは視覚障碍者の人もどんどん社会に出て、たとえその場は迷惑であってもどんどん触れ合うべきだということ。それにより、私を含め理解の足りぬ平均的な人も教育される。もちろん実地訓練ばかりではなく、このようなケースではこうしてほしいと事前情報も発信すべきだ。

それは難しいことであっても、白杖を持った人に細かく目配りし、何に困るか想像することだけでも世の中改善する。

そして白杖だけではない。松葉杖車椅子あたりはわかりやすいアイコンともいえる。聴覚障害者はわかりにくい。どうしたって欠ける部分があることが避けられないのならば、どうすべきか考えるべきだろう。
posted by Mozzo at 00:46| Comment(0) | TrackBack(0) | まじめな正論! | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年11月12日

自らの臭いを適度に気にするということ

とある店で食事をしていたときのことだ。カウンター席があるような気取らない店である。私が行くのは99%まで気取らない店なのだが。
カウンターで私の隣席に50代半ばと見える男性が座った。身なりはよく、どこぞの企業の部長と言って通る風情。なんでそんな店で食事を食べているのかは知らぬが。
食べる様子は決して不作法ではないのだが、一つ問題が。
臭いである。しかも男性の席は私から見てかすかに風上なのである。
整髪料と思しききつい臭い、そして強烈な腋臭。
それまでおいしくいただいていた私の料理はその瞬間粘土の塊に化し、お食事はむなしく口に押し込む作業に堕してしまった。悲しい。

臭いの問題は難しい。当人は気づかないものである。
整髪料も慣れてしまえば「ほのかに香っている」と思っているのだろう。腋臭は自分で気づいていないかもしれない。
それに本人がどう意識していようがいまいが、「臭いからあっち行ってください」とは言えない。言えるわけがない。失礼なことであるし、それを言う心臓があったとしても喧嘩になる。仮に知り合い同士でも言えるものではない。自分にだって気づかない臭いがあるかもしれない。
なまじおならのほうがいい。友達同士なら「臭いなー」と言えるしおならの臭いはすぐに消える。

よく取り上げられる臭いの原因はこのほかに香水、化粧、たばこ、洗わない髪・体、洗濯しない服などなど。腋臭を除けば本人が気を付ければかなり改善するものであるのだが。腋臭とて究極的には手術もあるし、そこまでいかずとも腋毛を始末し、汗パッドを用いれば軽減するはずだ。
人が根に持たない、ネガティブにとらえない生き物であるならば、むしろ直接指摘してあげるべきなんだろう。それができればいいのに。

一部の人は、日本では清潔志向が行き過ぎている、無臭国家をめざしているのかと批判する。確かにそれも一理あるかもしれぬ。
身の回りから臭いものが消えているのは事実だ。
汲み取り式の便所が消えた。水洗が当たり前。もはや汲み取り式をみることはむつかしいだろう。
毎日風呂に入り髪を洗うのが常識になった。昔は一日おきに風呂に入るものだったし、風呂に入っても髪を洗わないこともあったのだ。銭湯には「洗髪料」というものがあった。洗髪料とはシャンプーのことではない。髪を洗う人はお湯をたくさん使うので余分にお金を払うのだ。
昔は上着やズボン、スカートなど服の数が少なく、クリーニングに出すのも衣替えの時だけだった。場合によっては汗のにおい、脂のにおいがしたものだ。「襟垢」なんて言葉、今では使わないのではなかろうか。

周囲から悪臭が消えると残る悪臭は目立つ。さらに慣れていないから苦痛になる。食堂で汲み取り式便所の近くの席なんてのは臭ったものだが、今はそんなのでは食事できないだろう。
清潔志向を批判する人はもっと身の回りに雑菌がなければ免疫がおかしくなるとも主張する。それも間違ってはいないのだろう。だが、どうしたって昔に戻るとは思えない。それに香水やら整髪料の問題は別のことだ。

極端になってはいかんのだろう。
気を付けられる範囲で気を付ける。それは必要なんだろう。
香水や整髪料は控え、髪や体は常識的な範囲できれいに洗う。服もきれいにする。腋臭には清潔と汗対策。煙草を吸う人は口臭と服のにおいに注意。
だが、強迫的になって、髪が抜けるほど洗うとか、きつい薬剤を使うのは行き過ぎだ。汗スプレーも使いすぎれば悪臭だ。体を壊したり精神を病んでは意味がない。
posted by Mozzo at 20:36| Comment(0) | TrackBack(0) | まじめな正論! | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

抗議の焼身自殺は卑怯で意味がない

何の意味があるのかという騒動。

引用ここから====
日比谷公園で男性焼身自殺…ビデオで自ら撮影か
2014年11月12日 07時17分

 11日午後6時55分頃、東京都千代田区の日比谷公園で、「火が出ている」と119番があった。

 警視庁丸の内署員が火に包まれている成人男性を発見。男性は病院に搬送されたが、間もなく死亡が確認された。

 同署幹部によると、現場には、集団的自衛権の行使容認や、沖縄県の米軍普天間飛行場の同県名護市辺野古への移設に反対する内容が記された抗議文があり、同署は男性が自殺を図ったとみて、身元の確認を進める。自らを撮影していたとみられる録画状態のビデオカメラも見つかった。
2014年11月12日 07時17分 Copyright コピーライトマーク The Yomiuri Shimbun
引用ここまで====

まぁ抗議の焼身自殺とうことなんだろう。
人ひとり死んでいるのであまりきついことをいうのも何なのだが、こんなことに効果があると思っている人がいるならその人に届くことを願いたい。こんな閑散としたブログを読んでいる可能性は宝くじが当たるより低いだろうけど。

何の意味があるというのか。意味がない。

抗議の自殺が有効な戦術となる国もあるのだろう。だが日本では通用しない。極端な理解しがたい行動には静かに拒否感を出すのが日本人だと思う。端的な行動にそうだそうだと尻馬に乗るような傾向が低いのである。暴動がおこるような国はそういう傾向があるのかもしれぬ。
それがいいのか悪いのかは別の問題であって、とにかく日本ではまったく効果がないのである。
それが証拠にこれで集団的自衛権の議論が盛り上がったりしただろうか。全く無視である。

意味のないことに一つしかない命を無駄にかけることはしない方がいいに決まっている。

また、仮に効果があるとしても卑怯な手であることも指摘しておきたい。
焼身自殺でその抗議している内容について賛否両論が巻き起こったとして、当の本人に反論することもできない。賛成する側はナントカさんの命を無駄にするなとかいうだろう。それは議論の封止に他ならない。だから卑怯なのだ。

生きて議論をしなさい。それが正しい。
posted by Mozzo at 19:41| Comment(0) | TrackBack(0) | まじめな正論! | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
×

この広告は1年以上新しい記事の投稿がないブログに表示されております。