2014年11月03日

学校給食に安心と教育を 中国産が安全だからOKという無神経

それは論点のすり替えだと思う。という報道。
若干長いが産経新聞から引用する。

引用ここから====
「安全、科学的に考えて」 学校給食で中国産食材排除の波紋

 東京都杉並区などは先月、学校給食に原則、中国産の食材を使用しない方針を打ち出した。同区などの給食に中国産食材が使われているとする一部報道を受けての措置だが、食料自給率の低い日本では中国からの輸入食品は多く、完全に排除することは困難。食の安全に詳しい専門家からは「中国産が全て危険というわけではない。食の安全についてはデータに基づいて科学的に考えるべきだ」という意見も出ている。(平沢裕子)

 ◆保護者の不安に対応

 杉並区は10月8日、区立小中学校の学校給食で、「当面、中国産の食材を使用しない」などとする給食食材への対応を記した紙を保護者に配布した。

 同区などの学校給食に「中国産食材が使われている」とする報道を受けた措置で、同区教育委員会学務課は「今夏、中国の食品会社で期限切れの鶏肉が使われていたことが判明し、中国産の安全性について不安に思う保護者がいるため」と説明する。同様に「中国産を使わない」とする足立区も、「輸入食品の安全性が担保されていることは把握しているが、保護者から不安の声がある」(教育委員会学校教育部学務課)とする。

 こうした措置に対し、食の安全・安心財団(東京都港区)の唐木英明理事長は「安全性については、科学的データで考える必要がある。中国産が国産や他の外国産に比べて危険というデータはないのです」と指摘する。

 とはいえ、かつて中国産の冷凍ホウレンソウやウナギから国の基準値を超えたり、使用が禁止されている農薬や抗菌剤が検出され、中国産食材に対して「危険」というイメージを持つ消費者は多い。

 ◆完全排除は困難

 厚生労働省輸入食品安全対策室の三木朗室長は「中国産だけでなく輸入食品については、安全性確保のため、輸出国に対して日本の食品衛生規制の周知を図るとともに、輸入時に検査も実施している」と説明する。

 同省の「平成25年度輸入食品監視統計」で輸入食品の食品衛生法違反の件数をみると、輸入と検査の件数自体が多い中国の違反件数が244件と多い。だが、違反の割合をみると、中国は0.3%。これに対して米国は0.91%、タイが0.62%で、中国はこれらの国よりも低いのだ。

 唐木理事長は「学校給食から中国産食品を排除するのは、科学のデータに基づいた措置とはいえない。食料自給率の低い日本で、中国産を完全に排除するのは困難」と説明。「学校給食では、食の安全を守る仕組みや、海外からの輸入食品も日本の豊かな食生活を支えている現状などをしっかり教えるべきだ」と話している。

中国産は輸入食品の13%

 平成25年に日本が海外から輸入した食品は約3100万トン。中国からの輸入は約405万トンで13%を占める。中国産というとニンニクやホウレンソウなどの野菜や冷凍食品が多いイメージだが、鮮魚▽海草▽小豆▽トウガラシ▽茶▽塩▽洋・和菓子−など多岐にわたる。

 輸入時の検査は、幅広い品目のモニタリング検査に加え、過去に食品衛生法違反のあった食品について集中的に行われる。

引用ここまで====

このブログでも安全と安心は違うということを何度も書いてきたが、なんと日本人でも安全と安心がわかっていない連中がいたとは。

端的にたとえれば、清潔な床に肉をたたきつけて、清潔な長靴で踏みつけて、検査したら雑菌も有害物質も検出されませんでした、したがってこれは安全ですと言われて納得して食べるかということである。
では床に食材をおいて足で踏みつければ納得できないかといえば讃岐うどんの一部はそうしているわけで、納得して食べる。

そこに信頼関係があるかないかだ。

安全とは極端に言えば有害な物質や微生物が含有されないこと。食べて害が出ないことだ。安心は信頼できる人がわれわれのために誠意をこめて作ってくれているかどうかの問題だ。
いくら安全対策をしてもごくまれな確率ですり抜けることはあるのである。食品であるから全数検査は無理なのである。
そのとき、「この人たちは心をこめて作ってくれているからめったなことはあるまい」と信頼するのが安心なのである。信頼関係があれば万が一の万が一に問題が出ても極端なことにはならない。人間だから間違いはあると、冷静かつ「科学的」に対処して必要な保障なりなんなりに臨むことができる。
安心がないからこそ問題が起きた時には感情的な紛糾が起きる。

とはいえ安心というのは情緒的な概念であり、安全は化学的概念である。

もし、これを国がこの保護者たちと同じ論理で「中国産はいくら検査で安全と言われても安心できないので禁輸にします」と言うなら許されるものではない。あくまで国家間の共通言語は科学と論理だ(ちなみに「いくら安全でも国内に需要がない」というのも論理だが)。

しかし、消費者が国と同じ論理に乗る必要はまったくない。あくまで安心を追求していいのだ。また個人の見識で安全なら安いものを食べるでも責めるべきでもない。
消費者である保護者が安心でないという以上、区が国の論理に乗っかって安全ですからと主張するのはおかしい。区は末端の消費者である保護者と子供たちを代表して食材をかう消費者だ。安心できなければ買わないという選択をしてもいいし、そもそも保護者と意見が対立するのがおかしい。保護者の意見を代表すべきだ。
保護者の意見が割れていて、中国産でいいから安いものをたっぷり食わせろという意見がそれなりに多いならまだしも。

ましてやこの「食の安全・安心財団 唐木英明理事長」とは何者なのか。外務省の手先か?
安全と安心を名乗る以上、その違いについてきちんと説明できるのか。彼は安全としか言っていない。本来、先頭を切って安心をどう考えるか仕切りに行かねばならない立場だろうに。
根底には役人がいうことを一般人ががたがた言うなという姿勢があるように思えてならない。安心を考えている保護者の立場をちょっとでも考えればこんな立ち位置になるものか。

原則論で問題を整理した後に需給の問題とか具体的な対策を考えればいいのである。

具体的な対策はいくらでも考えられる。
値段を上げるなどして優先的に国内産を給食に回す手もある。国内全体で量が足りないなら金のない人はその分輸入物に変更するだろう。保護者だって自分は輸入物を食べてもせめてわが子にはと思うだろう。
この案をとるなら安心は高くつきます、お金を出してくださいと説得するのは区やこのナントカ財団のおっさんのやるべき仕事だとなる。やるべき仕事をやっていない。

あるいは、今の給食費で買える範囲でのしょぼい食事にするのもいい。国産品は安心だけど貴重なのです。みなさん大切にかみしめて食べましょうといえば立派な教育になる。カロリーが足りない分はおむすびを各家庭に持たせたらよろしい。おかずだけ給食。

あるいは、もはや自治体など信用できないと保護者で給食組合を立ち上げる手もある。無償で給食設備を貸せと。あとはこちらでやるからと。それもすっきりする。そうなれば話題にもなり。全国の企業や農業団体が支援するかもしれない。
日頃、健康的な野菜が云々とか言っている外食産業大手は自社の契約農場を拡大して食材を提供すれば美談になるぞ。

あるいは、くだらない体育やらクラブ活動やらやらせるくらいならグラウンドの片隅や市民農園を借りて生徒に「本格的に」生産させたっていい。秋の収穫イベントに一日だけ食べるなんて量ではなく、給食の野菜だけでも賄う分を。

だいたい、国内産だけでは足りないというのは本当なのか。消費者側がえり好みをして季節関係なくぴかぴかな農産物を買い叩こうとしているからこうなるのではないのか。きゅうりの旬には毎日きゅうり。曲がっていようが細かろうが隣の人と形が違おうがきゅうりはきゅうり。それが嫌だと文句を言うな。打ち捨てられている二等品や大根の葉っぱ、芋の茎にも食べられるものがある。
それも教育である。
思えば、私が子供の頃も一か月の給食献立表と言うのがあった。いまもそうなのだろうか。これおかしくないか。
台所をあずかり家庭の買い物をする人に問いたいが一か月の献立表なんて出せと言われて出せるか。その日に安いものを買う、安いときには数回分を仕入れる、工夫してこそやりくりだ。一か月前に献立なんか決まるか。
給食は量がそろわないとならないのでさすがにその日にスーパーで安いものと言うわけにはいくまいが、日々の天候や市況をにらみつつ献立を決めれば違うのではなかろうか。


とにかく、公に噛んでいる人間がまともに考えもせず、知恵も出そうとせず、自分の立場の範囲だけで安直な方向に納めようとしているのが腹立たしい。
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うまいものの話:カニカマ

うまいものの話:カニカマ

昔のことだがスーパーのお総菜売り場で面白いものを見つけた。
ポテトサラダなのだが大きく「カニ肉入り!」と書かれている。なるほど、ポテトサラダの中に赤いものが入っている。ずいぶん多い。しかし、この赤さはどこかで見たような。。。
もちろん、ポテトサラダに混ざっていたのはカニカマ。カニ肉はほんのわずかに、鉛筆よりも細い肉が一本、トレイの中央にちょろりと入っていただけだ。笑った。

まぁ罠のようなものなのだが別に怒ることはないと思った。
ルール上かなりのグレーゾーンなのだが、まぁ見ればわかるだろうと。ラップで覆っただけだから中身がきっちり見えるし、値段も相応だ。それでも今ならアウトだろうか。

個人的には下手なカニよりカニカマの方がうまい。下手なカニは身が貧弱で味もぬけ、ぼそぼそしている。カニカマは今や手軽なシーフードとして世界中に定着しており、材料であるすり身を指してSurimiと呼ばれているとか。タイなど東南アジア地域ではカニが安く食べられるのだがカニカマが人気という。
即席ラーメンもそうだが、日本発の商品が世界に広まるなら食品が広まるのが一番うれしく感じる。もちろん、自動車や電気製品などなどいろんなものが広まってほしいものではあるのだが、食品が広まるのは平和な感じがするのだ。

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広く知られている通り、カニカマは石川県のスギヨという会社で開発された。人造クラゲの開発をしているとき、失敗作の触感がカニに似ているということで開発を開始したという。いや人造クラゲは失敗してよかったんじゃないのか。そうは売れないだろうし越前クラゲなんて大発生しているし。

今や中国など世界中で生産されているらしいが、自動機械で大量生産できることもあり、日本でもコストで太刀打ちできる。
その製造機械のトップメーカーがヤナギヤでシェア7割という。製造機械も日本がリード。

機械であっても食品の製造機械と思うと和やかな気がする。大がかりな機械が食品を作っている姿はいいものだ。

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カニカマにするすり身の原料は基本的にちくわやかまぼこと同じである。ただ、よりカニに近づけるため商品によってはカニのエキス、カニの油を入れるようだ。
原料の魚と調味料を混ぜて大型ミキサーで粗くすりつぶしたのち、臼で細かくすりつぶすことで粘りが出てすり身となる。

このすり身をシートに薄く塗りつけながら連続で蒸し、長く幅のある帯状にする。
カッターで細く切れ目を入れたものを製品に合わせて丸めたり斜めにカットしたり中央に何かつめたりと成形して出来上がり。

製品もバラエティに富んでいて、使いやすいほぐし身タイプ。カニ肉らしくない形だがまっすぐなタイプはパンにはさんだり巻きずしの芯に使いやすい。芯にチーズを入れたり、辛子風味にしたりともはやカニ肉とは関係ない方向に進化したおつまみタイプ。

形や風味をできるだけカニ肉に近づけた正統派も進化している。ことに前述のスギヨが開発した香り箱(かおりばこ)はカニを超えたと評す向きもあるという。写真で見た範囲ではカニ肉だ。間近でそのまま見比べればともかく、ちょっと調理すると本物のカニと区別がつかないとまで。なんと、第45回農林水産祭最高賞 天皇杯受賞と同社ホームページにある。
お値段は普及品のカニカマに比べると高いとはいえ大したことはない。

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思わずカニカマ紹介コーナーで終わりそうになってしまったが、カニカマに注目するのは手軽でおいしい食品であるからだけではない。

まず、割と健康的な食品と考えるからだ。
加工食品ではあるけれど、怪しげな添加物満載ということでもないようだ。
先の香り箱の原材料表示を見る限り、合成の保存料や着色料、結着剤(リン酸塩)を使っているわけではないようだ。品質調整保持のためにビタミンや酸味料、アミノ酸を使っているので無添加といっていいのかはわからぬし、自然食品とまでは言わないが、天然の食材にも含まれているものであるから、有害とは思わない。
一方で、主原料の魚をたっぷり摂れる。畜肉に傾くことは健康のみならずいろいろな意味でよろしくない。魚を敬遠する向きにもとっつきやすい。

これらのことから「伝統的製法ではない」一般的なハム、ソーセージなどと比べたら加工食品の優等生といってよかろう(伝統的製法のハムソーセージはなんら問題ないと思う)。
これは大量生産品であるにも関わらず伝統的食品であるかまぼこをベースにしているところがよいのだろう。

無論すべてのカニカマが上記に当てはまるかは別問題。中には粗悪なものがあるやもしれぬ(見たことはない)。表示の確認は要する。同じくちくわ・かまぼこの中にも質の悪い材料をごまかすためにリン酸塩を使っているようなものもあるという(昔は見た記憶がある)。ぼそぼそした魚ではリン酸塩の助けを得る必要があるのだろう。
ま、少なくとも手ごろな価格で好ましい商品が入手できる(ことが多い)ということである。

世に健康的と呼ばれる食材・料理は多々あれど、高価だったり手間がかかったりということがすくなくない。また、せっかく作っても好き嫌いから食べないこともある。安くて手軽でとっつきのいいカニカマはまずまず有用であると思うのである。加工食品だからと目を吊り上げる向きもあろうが、それも一つの価値観ではあろうが、比較の問題として悪くはないのではなかろうか。

次にカニカマに着目する理由として魚資源の有効利用がある。カニカマそのものというよりその発想に着目している。

カニカマの主原料は前述のスギヨではスケソウダラを使っているようだ。スケソウダラはすり身に限らず広く加工食品に用いられている。日本のマクドナルドのフィレオフィッシュもスケソウダラである。
スケソウダラは大量に獲れる魚で用途も多い。近年は乱獲による資源減少が指摘されているが、今も重要な魚資源である。
しかし流通が難しい。タラの類は足が速いのだ。鮮魚では流通させにくい。しかも季節が限られてしまう。かといって、冷凍では売りづらい。
ではそんなに獲らねばいいのではないかという考えもあるが、スケソウダラはたらこ、白子として珍重されるため、むしろ身肉は余ることになる(少なくとも国内では・季節による)。
そこで、加工食品であればすぐに冷凍して、使いたいときに使えばいいので効率がいいというわけだ。

なにもすり身はスケソウダラでないと作れないものでもない。白身ならなんでもいける。高級品ではシロギスやグチを使うというし、サメなども使われるという。
サメなんてのも、ふかひれやら肝臓(肝油やスクアランの原料)としての利用価値がたかく、身肉は余る。流通させにくい。

カニカマは当初コピー食品といわれ毀誉褒貶半ばしたものだ。だが、工夫によって使いづらい材料、売りづらい材料を売れる商品にできることを示した。
その発想で、市場で値がつかず捨てられるような魚を利用する第二第三の商品が誕生すればと期待するのである。
さらには、日本で繁殖している外来種として有名なブラックバスやブルーギル、アメリカナマズ、ティラピア、アメリカザリガニ、ウチダザリガニ、ライギョ、ハクレン、ソウギョあたりもうまく流通させるヒントになるかもしれない。これらはもともと食用として日本に持ち込まれたものなので、加工方法を工夫すれば売れるはずなのである。
いずれも養殖してもそれほどの値段がつかないとか、天然ものでは数がまとまらないとか、足が速いとかそういう理由でそれほど流通しないのだろう。流通しなければ漁をする人もいなくなる。
こうした魚介類を集めて「なんでも材料にできる」というヒット商品が生まれたら、一石二鳥どころか鳥が群れで捕まるくらいに利点がある。個別の魚種の数がそろわなくとも、漁獲が不安定でもいいのだ。ブラックバスが食べられないならブルーギルを食べたらいいのよ!

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かつてコピー食品というものがもてはやされた(批判も相半ばしていたが)時代があった。
人造イクラ、人造トリュフなんてのがあった。また、コピーというのもおかしいが代替材料もコピー食品と言われていた。代用キャビア(ランプフィッシュなどチョウザメ以外の魚卵を着色調味したもの)、代用エスカルゴ(アフリカマイマイ)なんてのもあった。
これらは材料となる食材が枯渇するなど高価になってしまったため代用品を模索した結果である。その食材は不足しているが、その他の食糧は不足していない状況。

恐ろしいものになると合成清酒とか合成醤油なんてのもある。合成清酒は一応飲用に適する材料(アルコールや糖類)から作られているが、合成醤油は人毛などタンパク質原料からつくるというから恐るべしである。
こうしたものは、そもそも食糧が全般的に不足している状況下で研究製造されるものである。安全の面からも食文化からの面からも到底好ましいものではなく、食糧事情が好転すれば駆逐されてしかるべきものではあるのだが、今もその技術がコストダウンに使われているのは悲しいことである。合成清酒の技術はその後三倍醸造といって少ないコメから多くの清酒を作るために使われ、今でも安酒には残っている。さらにコメをけちるための技術は研究され続けているようだ。
合成醤油は日本ではもはや作られていないが(そもそも髪を集めるネットワークがない)、中国ではいまだ作られているとも言われる。

趣の違うものもある。
古くはがんもどきに代表されるとおり、その食材が食べられない人向けのものである。これをコピー食品と言っていいのか言葉の選択に迷うが。
がんもどきは精進のため、大豆肉は肉のアレルギーやベジタリアンのため。アレルギー対応の職人については乳製品や小麦などアレルギーは多種に及ぶので多数の食品が研究され、アレルギーを持つ人の食生活を豊かにすることに貢献している。誠にもって称賛すべき研究であると思う。

脱線するが宗教的理由やベジタリアン向けに「肉に似た」食品が作られるというのがどうにも疑問でしょうがない。ベジタリアンにはいろいろ理由があるとは思うのだが、基本的に肉食の否定なのではないのか。ことに宗教の場合、肉に対する欲を消してこそ意味があるのではないかと思うのだが。がんもどきって雁の肉を食べたいって思うこと自体が煩悩でしょうが。
気分だけでも肉をたべたいんだもん、と言っているように感じるのは私がおかしいのか。なら肉を食べればいいのにと思う。まぁ全くのプラグマティックな理由でベジタリアンをやっている(肉に対する欲望はある)人ならわからんではないが。

このように本来の食材・食品をまねたものは様々なものがある。

で、今回のカニカマもスタートラインにはカニが高価だというものがあったと思う。
だが、今やカニよりカニカマが好きだという人も少なくない(私だ)。
人造イクラは本物のイクラの値段が下がったら市場から姿を消した。しかし、カニカマはカニの値段が下がっても姿を消さないのではないだろうか。

そういう意味でも偉大な発明であると思う。
posted by Mozzo at 13:21| Comment(0) | TrackBack(0) | うまいものの話 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

iRONNAの禁煙ファシズムにモノ申す にモノ申す

産経新聞関係の企画だろうか。iRONNAというページがある。そこで禁煙ファシズムだという批判が行われている。

http://ironna.jp/search/tag/%E7%A6%81%E7%85%99%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%B7%E3%82%BA%E3%83%A0

大雑把に言うと、嫌煙が行き過ぎている(ファシズムというあおり方はどうかと思う)、煙草は素晴らしい、喫煙に害があるなんて嘘だ、吸わせろ、俺の話を聞けということを言っているようだ。

好きな煙草を昔は自由に好き勝手に安く吸えていたのに、今では制限され値上げされ、気に食わないのはわかる。
だが、主張が感情的で根拠が一面的である。嫌煙を押し返す力関係でしかとらえておらず、どう非喫煙者や社会と折り合いをつけていくかという客観的な視点に欠ける。

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マンガ家や作曲家の大御所をひっぱり出してきて、いかに煙草が素晴らしいか語らせているのだが、喫煙者だから煙草を素晴らしいと思うのは当たり前の話であって、非喫煙者は迷惑だと思っているのだからなんの説得力もない。
結局、「俺たちが素晴らしいと言っているのだからごちゃごちゃ言わずに吸わせろ」と言っているに過ぎない。
効果どころか逆効果だろうに。

喫煙に害がないと言い切っている人もいる。害があるというのは嘘だというのだ。
いわく、喫煙率の高かった昭和30年代より喫煙率の下がった現代の方が肺癌の死亡率が上がっているからだ。と、鬼の首をとったかのようであるのだが。
単純で一面的な論拠である。
まず、煙草の害は肺癌だけではない。あらゆる病気に有意な影響があるという研究成果が出ている。肺癌に矮小化するのはごまかしである。
さらに、煙草の害は病気だけではない。身近に火があることは火災ややけどの可能性を高め、運転中の喫煙は運転操作の誤りによる事故の原因となる。

喫煙率の低下と肺癌の死亡率が単純に相関しないことは様々な原因がある。
まず、喫煙の影響が肺癌による死につながるまでには多くの時間がかかるのである。
たとえば、戦後徐々に豊かになりガンガン煙草を吸い始めた若者が現代で肺癌になり死んでいるという可能性がある。戦前から喫煙「率」は高かっただろうが物資が不足する戦中から戦後すぐまでふんだんに煙草が吸えたわけではあるまい。喫煙「量」が多かったとは到底考えられない。
一日一本しか吸えなくとも、一日50本吸おうとも喫煙者一人でカウントされるのだ。
それが、徐々に煙草が行きわたると若い層に大変なヘビースモーカーが増えてきた。よくある昔のマンガやドラマのイメージで、大学生がアパートや麻雀荘で連続喫煙しながら徹夜麻雀なんてのがある。ああいう人たちだ。
そういう人が昭和60年代あたりに中高年に達し、肺癌で死に始めたという可能性の方が蓋然性が高い。
少なくとも喫煙率と肺癌の死亡率がきれいに相関するなんてことはあり得ないのである。タイムラグがあるし、喫煙量や生活習慣も要因として働くに違いない。

また、別の見方として「やっと肺癌で死ねるようになった」ということも言えよう。肺癌で死ぬ前に肺結核やその他感染症、胃癌、心臓病、交通事故で死んでしまえば肺癌の死亡率にはカウントされない。生活環境が向上し、健康診断などが普及し、医療レベルが上がって初めて肺癌で死ねる年齢まで生き延びたのだという可能性もある。

と、これらはほんの一例なのだが、ちょっと考えればこの辺の穴が見えてくる理屈なのだ。喫煙率と肺癌の死亡率が相関していないように見えたから煙草に害がないと言い切ってしまうなんて、思考の浅さを露呈するだけでやめておいた方がいい。

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と、かように突っ込み始めたらきりはないのでこの辺にしておくが、彼らに欠けているのは客観的にどのようなすみわけをすべきなのかという視点である。

日本は民主主義社会であるのだから、個人は尊重され、平等でなければならない。
誰かが一方的に害を受けたり我慢をしているのは平等ではない。また、直接個人間の衝突がなくとも社会への負荷(社会コスト)に大きな負担をかけているのであれば、社会コスト負担の公平という観点から平等ではない。

簡単な例を挙げれば、同じ空間にいて片方は自由に臭いをまき散らし、片方がじっと我慢するのは不平等だ。喫煙者がしょっちゅう呼吸器系の病気にかかり病院に行き、あまつさえCOPDだ肺癌だと医療費を使うなら同じ保険料では不平等だ。会社の部屋の壁がすぐ茶色になるので掃除の人がまめに掃除をせねばならずコストがかかるのに、給料が同じでは不平等だ(給料に反映させるとしたら微々たる額でもこれは理念の問題なのだ)。
きちんと厳密な分煙をしましょうとか、服や体臭が薄れるような技術を導入しましょうとか、保険料は余分に払いましょうとか、追加の掃除代を負担しましょうとか、そうした提案をすべきなのである。
それを、煙草を吸って何が悪い、ファシズムだファシズムだでは対話も成り立たない。

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この企画では嫌煙活動はファシズムだとしている。煙草の害を宣伝することや禁煙推進、公共の場や飲食店での全面禁煙をすることはファシズムなんだと。日本は民主主義なのだ、もっと喫煙者の意見を聞いてくれ、煙草は素晴らしい、煙草は文化だ。だから吸わせろと。
なぜかここで根拠に民主主義が出てきている。他人の権利をないがしろにして自己主張だけでは民主氏が泣く。
これでは対話は成り立たない。俺たちの居場所を作れ吸わせろ、では一方的な主張で妥協点を見出すこともできない。彼らは嫌煙運動が喫煙者の意見を聞かずに押し付けるから民主主義に反するという。そうだろうか。無論嫌煙運動も一枚岩ではなく、ヒステリックな人がいないではない。だが、基本的に健康被害であるとか、個人間の権利というものについて一つずつ論破してきた結果が現在だ。
論破される一方で反論できなかったのだから議論に負けたわけで、それはファシズムでもなんでもない。議論を戦わせて道理が通ればそれに従う。それが民主主義だ。言い返せなかったから力で押すぜというのは民主主義でもなんでもない。ファシズムという言葉を軽く使いすぎだ。

そもそも両者で問題点の整理もいまだできていない。正確には喫煙者が問題点をいまだ理解していない。喫煙の素晴らしさを語ってしまう時点でピントがずれているのは間違いないのだ。
ここで禁煙問題を論じるほど大風呂敷を広げる気もないので、気になっていることをいくつか書きたい。

■喫煙する権利?
厳密に言うと喫煙する権利というものはない。喫煙しても罰せられないだけである。
何を根拠に喫煙する権利を主張できるのか。
多くの「XXXをする権利(あるいはしない権利)」は幸福追求権に論拠している。
憲法13条の「すべて国民は、個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする。」が規定していると考えられている。
また、憲法25条「すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する。
国は、すべての生活部面について、社会福祉、社会保障及び公衆衛生の向上及び増進に努めなければならない。」が規定する生存権にも関係する。

いくら、喫煙者が煙草を吸うと気持ちよく(それは依存症によるものなのだが)、文化だから幸福追求なのだと強弁しても生命や公共の福祉に反するなら当然否定される。
健康で文化的な生活でもない。

ただ、現状をいろいろ考えると禁止するまでではないなという判断で違法ではないだけだ。今後新たに医学的な知見が明確になったり、医療費をはじめとする社会負担との因果関係が明らかになれば禁止されることもあるだろう。
それだけのことだ。

■登場人物は誰だ
煙草の問題は権利の衝突だ(煙草を吸う権利というものはないのだが便宜上権利と呼ぼう)。では誰の権利が衝突しているのか。登場人物は誰だ。
喫煙者本人、これは当然。周囲にいる非喫煙者、これも当然。それから広く公的なものすべて。社会保障の仕組みもそうだし、喫煙所の整備する費用負担も、コンビニで吸殻入れの掃除をするコストもすべてだ。
非喫煙者をもうちょっと細かく見るとさまざまな人がいる。
会社のなかでなら同僚など対等の人がいる。上司後輩、力関係が異なる場合もある。
通りすがりの見ず知らずの人もいる。飲食店や電車などで横に座る人など。
見ず知らずなのだが喫煙者の支配下に置かれてしまう場合もある。たとえばタクシーの運転手が喫煙者だった場合。喫煙OKの飲食店や新幹線の喫煙者で働く労働者。
そして家族、近隣住民。

よく、煙草問題で論争になると「直接文句言えば」と乱暴な言い方をする人がいるが(まあ論理的に言い返せないんでしょうが、これは乱暴だ)、上記のような力関係や背景が様々ある中でそんな単純にとらえることはできない。
大雑把な議論をすれば声を上げられない人にしわ寄せが行くのは道理だ。自分の子供は文句を言えない。

たとえば、個人経営の飲食店で働くアルバイトなんてのは弱い立場だ。経営者が禁煙にすると客足が落ちると危惧して喫煙OK。喫煙者も集まってくる。煙漂う中で接客をし、吸殻の掃除までさせられるのが人間として平等なのか。考えねばなるまい。
そんな店はやめてべつの店に行けばいいと単純な人は言うだろう。だが、弱い立場で事情もあればそうはいかないのである。

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書き始めるときりがない。
喫煙者がこの問題を力の押し引きの問題だと考えているかぎり彼らに未来はない。
喫煙率、医学的エビデンス、数々の社会的負荷、全面禁煙の店舗がうまくいっているこの事実。禁煙派が押し切ってしまえる状況にある。
それでいいのか。キチンと対話して正しく住み分けられる状況を作ったの方がうれしいのではないのか。強引にあらゆる場所が全面禁煙になっても私はいたくも痒くもないけれど。

自分たちに都合がいい断片的なデータや報道だけ信じて、目を覆うことはやめた方がいい。客観的かつ合理的に考えた方がいい。

文頭で挙げたiRONNAはおそらく産経新聞が中心にやっていることだとおもうのであるが、産経新聞の記事にマクドナルド全面禁煙の記事があった。
会社員が多い地区で全面禁煙にしたら客足が落ちたので店長が困っているという報道だ。
ほら見ろ、喫煙者の居場所を作った方がいいんだ、きっとマクドナルドも反省して全面禁煙を解除するさ、そうさそうさ。と自分に都合がいいように解釈して現実から目を背けても意味がない。

冷静かつ客観的に考えた方がいい。
みんながみんなマクドナルドウオッチャーじゃない。マクドナルドが全面禁煙になったことなんて知らない。「あそこのマクドナルドは禁煙じゃないから行かない」という層が気づいていなくて戻ってきていないと理解する方が蓋然性があるのではないか。「全面禁煙の店にお気に入りができたからわざわざ変えない」という人も当然多かろう。マクドナルドが全面禁煙になったからと言ってスターバックスから乗り換える人はそうはいまい。

喫煙率が下がっているのは事実だ。喫煙者は二割、しかもそれは各世代をならした数字であり、明らかに40歳代以降の喫煙率が高く20〜30歳代の喫煙率は低い。
マクドナルド全面禁煙の記事の例で言えば、ターゲットにしているのが現場で動いている若い会社員ということになる。二割以下の人をターゲットにして商売するのか、八割をターゲットにするのか。
無論、煙草の煙が平気な非喫煙者もいるし、昼間は吸えなくても全然平気という喫煙者もいるので単純ではないが。

また、売り上げが落ちないなら店側は全面禁煙にしたいのである。
回転率とコストの問題があるからだ。
ファストフードやファミレスで観察するとわかるが、喫煙者の回転率は低い。ドリンクをすすり煙草を吸いドリンクをすすりの繰り返しで時間がつぶれている。いや、昼の繁忙時間帯など食後に一服で5分座っているだけで回転率に響く。
喫煙させるだけでコストがかかる。灰皿を交換して回り、それを洗浄するのにも人手がかかっている。ドリンクバーがあれほど安くできるのは多くが人件費だからだ。売り上げにもならない灰皿交換を従業員が行うのはドリンクバーをやらないくらいにインパクトがある。
掃除代もバカにならない。壁や天井、椅子テーブルの汚れが激しいのである。私も飲食店で働いた経験があるのでわかるが、洗剤をスプレーすると茶色の液が滴り落ちてくるのだ。
さらに、分煙にするとなったら、パーティションだ空気清浄機だとイニシャルコストがかかる。単に席を区切っただけではクレームがくるのであって、空間を区切らねばいかんのである。

またまた書きすぎてしまったが、こうしたことを頭にいれておくと、先の産経新聞の記事を素直に信じていいのかは考える余地があることがわかる。
産経新聞は喫煙に関しては煙草A GoGoの新聞らしく、全面禁煙を考えている飲食店へのメッセージなのである。信じてしまうと大変なことになる可能性がある。

昔は喫煙者も非喫煙者も混在しているのが普通だったがすみわけが進み、全面禁煙の店も増えてきた。すると喫煙者は喫煙できる店に集まる。先に述べたとおり喫煙者は回転率が悪い。売り上げ単価も低いと予想できる。長居するつもりで来たとして、口さみしいなと思ったら非喫煙者は軽食をオーダーするところ、喫煙者は煙草で満足できてしまうからだ。
そして、喫煙者自身から「店が煙い」とクレームが入るのである。これまで非喫煙者で薄めていたけどそうもいかんので。

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すでに、都市部のコンビニでは似たようなことが起きている。
店でも吸えない、路上も禁煙。喫煙エリアは少ないもののあるのだが満杯で、喫煙者だが人の煙は嫌い。そうなるとコンビニの店頭で吸うことになる。
それが問題になっている地区もあるようだ。
何人も集まってくれば当然臭いが周囲に漂う。都市部では郊外と異なり、テナントビルで1階がコンビニ2階以上がオフィスや店舗というところも多い。それでは煙がオフィスに入ってくるとクレームが上がる。それで吸殻入れ撤去。
そうなると喫煙者は喫煙できる場所を探してさまよう。
路上喫煙は禁止だが私有地では禁止されていないからとテナントビルの入り口あたりに集まる。大きなテナントビルだと入り口に植栽があったりしてスペースがあるのだ。それでまた近隣からクレーム。

みじめである。これでいいのか。
「だって、どこもタバコ吸えないんだもん。しょうがないじゃん」という人もいるが子供じゃないのだ。
煙草が吸える場所まで苦痛なくいられるのが当然。我慢できないというのであれば嗜好ではなく依存症だ。嗜好品ではなく依存性のある薬物と自ら認めたことになる。
どうしても煙草が吸える場所がほしければ、自ら行動することだ。現在の禁煙の広がりは煙草が迷惑という人が自ら声を上げ行動した結果だ。無論喧嘩しろというのではなく、折り合いのつく対話をして、必要な施設(喫煙ルームなど)を作る働きかけをし、コストを負担することだ。
考えてみた方がいい。喫煙者自身のために。
posted by Mozzo at 10:46| Comment(1) | TrackBack(0) | まじめな正論! | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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