2015年01月30日

賞味期限切れの備蓄食料ってごみ?

けしからん事態と言えばそうなんだがしかし。。。。

産経ニュースから引用する。

引用ここから=====
6年前の期限切れ「備蓄米」50食分を各国大使らに提供 都の防災訓練でおにぎりや炊き出し

 東京都は29日、各国の大使らを招き、27日に都内で行った外国人向けの防災訓練で、保証期限が6年前に切れたアルファ米50食分を誤って提供したと発表した。ガーナ大使ら最多61人が食べた可能性があり、健康被害などの確認を行っている。

 都によると、提供したのは、災害対応にあたる職員用に備蓄していたアルファ米。外箱には「平成27年1月」と保証期限の記載があったが、実際には17年3月と21年1月に保証が切れていた。都が行った在庫整理時のミスで、混入した可能性が高い。

 このうち21年1月に保証が切れたものを炊き出しに使い、おにぎりにして2グループ計61人に提供。このグループには、ネパール、ガーナ、チェコの大使も含まれていたという。

 一部参加者から「期限が切れている」と指摘があり発覚。都は大使館などに連絡し、参加者に謝罪したという。

引用ここまで=====

食品偽装だの異物混入だの騒ぎが続く中でのこの事態。問題であるのは言うまでもない。
賞味期限については日本の目線は厳しく、ほんの数日過ぎていたとしても不祥事として回収、謝罪となるのである。
そこを6年前。しかももっと古いものも出ていかなかったとはいえ在庫として存在したわけでとんでもないと言えばとんでもない。

だがしかし。。。。

アルファ化米とは、米の澱粉が劣化(ベータ化)しないように乾燥したもので、水を加えるだけで食べられる優れた保存食品である。水で戻して天下の美味とは言わないが、まぁ食べられる程度にはなるというわけだ。
商品によるのか戻し方によるのか、記事を見るとうまく戻せばおにぎりにして食べられるだけの食味があるようだ。
優れた食品だ。

このアルファ化米の賞味期限が仮に30万年あって、6年だ10年だの超過であれば普通に食べられるのも不思議ではなかろう。しかし一般的な商品では製造後5年程度が賞味期限らしい。
期限を倍過ぎても食べた人は指摘されるまで気付かなかったわけなのだから、裏返して考えればいかに優れた商品で、賞味期限に大きな安全係数をかけているかわかるというものだ。

優れた商品ゆえに地方公共団体の備蓄食料などで多くが保有されているという。また、それらが賞味期限を迎えていて更新にお金がかかるともいう。
今回結果的に賞味期限超過のご飯を食べた各国公館関係者には気の毒だが、期限が過ぎて艇も何の問題もないことを証明したことになる。
はたして杓子定規にルールを当てはめることが正しいのか大変に複雑な思いがする。

安全係数をぎりぎりにして、ちょっとでも保存条件(温度や光)が悪ければ期限前でも劣化しているということでも困る。とはいえ全く劣化していないものがごみになるのももっと困る。

二つ考えなければならないだろう。
賞味期限はルールとしてある。だが超過したからと言ってゴミだというのもやりすぎだ。
封を開けて食べられるようなら食べたらいい。あまりそれを目を吊り上げて不祥事だだめだだめだと攻撃するものじゃない。わかって食べるなら何がわるいのか。
何が何でも賞味期限を過ぎたら食べないというのも勝手だが、少々のことを気にしない私のような人間には売ってもらって構わないし、私は気にせず食べる。どうせ手作りの料理などもっと危ういのだ(いいのかそれで)。
「期限は切れたけど死ぬわけじゃなし」というコーナーを作っていただきたいものだ。

もう一つ考えるのはローテーションもせず備蓄するということの危うさだ。倉庫代を払ってごみを生産する愚かさだ。
家庭でも食料の備蓄が推奨されるがポイントは「日常の保存食で」「日々食べてローテーション」だ。乾パンだフリーズドライの宇宙食だも結構だがローテーションせねばいずれゴミになる。
それだけではなく、いざ保存食に頼る生活になった時の状況がシミュレーションできない。
だから家庭で備蓄する食料は特殊なものではなく、レトルトのカレーとパックのご飯(お湯が沸かせれば食べられる)など日常でローテンションできて、食べるシーンが想像できるものが優れているのである。

家庭も地方公共団体も同じだ。日々ローテーションとは言わないが、役所の食堂で毎月出すとか何らかの形で消費と補充を繰り返すべきではなかろうか。
理想をいえば「避難生活を味わえる食堂〜避難所つき」を経営すべきなのである。

ま、とにかく食べ物は捨てたくない。その発想をね、お役人さん。
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2015年01月26日

フランスのテロ事件 言論への制限を一切なくせ

フランスの週刊誌本社をテロリストが銃撃した事件である。
事件発生から時間がたっているがテロリストを批判する声は欧米を中心に広がっている。当然のことだと思う。「まっとうな」イスラム教の国、団体からも非難する声があり、連中が正当なイスラム教徒ではなく下劣なテロリストに過ぎないということも多くの人が理解していることだろう。

当然のことながらどんなに気に入らないことがあったとしても暴力で応ずるのは許されることではない。
究極の暴力として戦争という手段があり、戦争を仕掛けたものに対して軍事力で対抗することを否定するものではない。理想じゃないけど国がなくなったら困る。
だが、言葉や画像といった「情報」で行われたことがいかに侮辱であろうがなんであろうが暴力を使うことは許されない。それが世界の常識であり、その常識に外れる考えを持っている(それが正義だと信じている)ならばこの世界から退席してもらうほかはない。鳥も通わぬ絶海の孤島で閉鎖した国を作るのか、はたまたまさに彼らの言う「楽園」に行ってもらうかだ。楽園は4次元か5次元か全然違う世界にあるのだろうが。

さて、ここまでは多くの人が納得する論理だと思う。
だが、一部の報道やら論評を聞いているとその先が悩ましい。

一部こんな意見がある。割とメジャーだ。
暴力は当然いかんことだし、表現の自由は大事だ。しかし、表現の自由だからと言ってなんでもかんでも許されるのか。相手が誰であれまっとうな批判論評は当然許されるが揶揄侮辱は許されないのではないか。というものだ。

本質的には正しいと思う。本質的にはね。

たとえば、キリスト教においては(いろいろ宗派はあるけれど)、イエスキリストは聖母マリアの処女懐胎によって生まれたとされている。
この点について否定することはキリスト教に対する侮辱ととらえる人は少なくない。

ただイエスキリストが実在する人物であれば物理的・科学的にはそんなことがあるわけがないわけであって、いやそもそもイエスキリスト自体が実在の人物であったかどうだかも疑う説もある。だいたい、イエスキリストの誕生日が12月25日というのもだいぶ時代が下ってから「教会が決めた」ものだ。
マリアがどのような人物であったのか、なぜ処女懐胎ということにしたいのか、当然当時の考え方やら事情があったわけでそこを歴史的・科学的に研究することは現代の価値観において肯定されてしかるべしとおもう。
それでもかつて映画ダ・ヴィンチ・コードが公開されたとき物議を醸したものである。私も好きな作品であり小説や映画、派生して発表された研究本など様々みたのだが決してキリスト教を侮辱したものとは思えなかった。史実を追って様々な仮説に取り組むことと想像をはたらかせて華麗なるフィクションを構築したことにおいて真摯で優れた作品だと思ったものである。

歴史学の観点からあるいはそれをベースにしたエンターテインメントにおいて真面目に取り上げていることが自らの信じていることに反しているからと言って怒ってはいけない。科学技術の発達した現代において、地球の大きさが無意味になるほど情報通信が発達しているのだから異文化との交流もまた激しくなるのである。
唯一の共通言語である科学をもって分析されることを拒否していては現代社会は成り立たない。
科学を認めない狭量な姿勢は回りまわって大事にしている神様の評判を下げることになるのではなかろうか。科学的分析は大いにやったらよろしい、でも私たちは神話を信じていると言えば済むことだ。

その点日本は私の思う理想に近い。
日本にはいろんな宗教も入ってきていてさまざまであるのだが、国の象徴である天皇についても神話がある。神格化することを否定する人もいるし肯定する人もいる。神様とは言わずに伝統だという人もいるし神様だと思っている人もいる。
さまざまな人がいるが互いに戦争をしているわけでもない。
初代の天皇とされる神武天皇は神話上の存在とされていてそれをむきになって否定(実在したのだという)する人は少数だが、だからと言って神武天皇とかその始祖とされる天照大御神への信仰が薄らいでいるわけでもない。自然と神様としての存在と科学的な分析が同居することが平和に受け入れられていることがいいことだと思う。あとは宮内庁が全国の天皇陵とされる古墳について、もうちょっと科学的な研究を受け入れてくれたら完璧なのだが。墓所として尊重することと科学的な分析は両立すると思うのだが。

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と脱線したが、いくら宗教とはいえそこに歴史学的科学的分析を加えてはならぬというのは通用しないと思う。その点イスラム教だけではなくかたくなな人がいるのは事実だと思う。

冷静な科学的分析はよしとしても侮辱はいかんと言うのは誰しもそう思うだろう。
繰り返すが本質的には私もそう思う。

だが、技術的な問題としてどこまでが批判でどこからが侮辱なのか。主観が混じる話できっぱり決められるものではなかろう。そこが問題だ。
自身をイスラム教のまっとうな信者だと思い込んでいるテロリストがムハンマドをたたえるのであるなら、そのムハンマドを取り上げてテロリストを批判することがすべて否定されていいとも思えぬ。
だいたい、偶像崇拝が禁止だからムハンマドの絵を描いただけで侮辱だということを異教徒に強制できるものではあるまいに。そもそもムハンマドは絵を描くなと言ったのだろうかね。偶像が神格化され権威化されることを否定しただけでと思うのだがまぁそれは脱線として。

批判をするのに風刺画はいかんと考えるひともいるようだ。
批判をするなら論文など真面目な態度ですればいい。面白おかしく風刺画を描いたら侮辱ではないかというものだ。
それもどうかと思う。
まず、風刺というものは(絵に限らず)文化として言論として歴史も意義もある。表面的に「受けを狙っている」と受け取られやすいけれども決して不真面目なものではない。今回の事件の舞台となったフランスでは風刺の文化的地位は高いと聞く。歴史的背景からなにより自由を重視するという。

批判すべき対象があったとして、論文とか新聞記事とかで批判することは当然できる。ところが、相手が権威であり自分が正しいと信じ込んでいるような輩では正攻法で批判しても聞く耳持たない。民衆も真面目な議論についてくるとは限らない。
そんな時には風刺が効くのである。問題を笑いに変え届く意見にするのだ。

たとえば今問題になっているイスラム国ならば、ムハンマドが「イスラム国は弊社の製品ではありません」というシールを印刷しているなんて風刺画があっていい。まっとうなイスラム教徒を含めて怒るかもしれぬがそれこそ「届くメッセージ」なのである。

そう考えると極限まで自由であっていいと思う。
意味のない侮辱に対しては同じく暴力ではない方法で反論すればいいわけである。法律で強制することではない。これは批判か侮辱かと議論すること自体が物事を正しい方向に導くと信ずる。

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話が変わってしまうが、どんな風刺も批判もOKというならば、フランスをはじめ西欧諸国にある「ナチス礼賛は法律違反」というのも変えたほうがいいと思っている。
法律は杓子定規なものだ。
ナチスを描写してはならないとなれば、全体としてナチスを批判する文脈の作品でも表面的なことで制限される。それは意味のないことだ。
いやナチス礼賛の言論もあっていいのではないか。表に出したうえで議論すればいい。ナチスを描写しただけでゆらぐ何かがあるならそこを考えたほうがいい。
表面的に制限するからネオナチみたいな連中が陰で暗躍するのだ。ナチス礼賛でもなんでも言うのはOK。批判もOK。議論しつくすことがいいのではなかろうか。

これは日本で問題になっているヘイトスピーチにも通じる。
ヘイトスピーチだからいかんという表面を封殺する論調はいかんと思う。議論をして論破するのが正しいと思う。
posted by Mozzo at 09:38| Comment(0) | TrackBack(0) | まじめな正論! | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年01月25日

美味しいなめ茸見つけた

なめ茸をご存じだろうか。たいてい瓶詰で売っている昔からあるお惣菜?珍味?というものだ。エノキダケを刻んで甘辛く煮たもので結構メジャーなものだと思っているのだが。海苔の佃煮(ご飯ですよとか)の次にメジャーだと思っている。はてさて。

とはいえ、なめ茸を常備常食しているわけでもない。
ずっと食べていなかったのだがある時急になめ茸熱が来た。こういうものは恋と同じで(?)急に来るのである。温かいご飯にとろりとなめ茸を乗っけてほおばりたい。なめらかな食感と旨味が急に恋しくなったのである。

そこでコンビニに行ったのだが、なぜかあの定番といっていいなめ茸がない。ご飯ですよ(海苔の佃煮)はあるのになめ茸はないのである。定番だと思うのだが。。。。
で、翌日スーパーの買い物で探してみた。なめ茸はあったが、あの定番ブランドがない。同じような形の瓶ではあるが、そのスーパーのPB商品であった。
まぁよかろうと買い求め、食べてみたのだが驚いた。ののしりたいほど甘いのである。まさに噴飯ものである(ご飯だけにね)。これでは醤油味のついた飴である。
そこで原材料の欄を見てみたのだが、調味料の筆頭に砂糖など糖類が並ぶ。原材料表示は量の多いものから並べるというルールがあるので糖類が最も多いということになる。液体である醤油よりも固体の砂糖が上になるというのはよっぽど多いのである。
これは醤油味のキノコジャムじゃ!とののしりつつ食べ物を捨てるのは嫌だと思ったので工夫した。ジャム!?と思いトーストに乗せてみたらなんとか食べられたのでやっとのことで片付けた。

しばらく食べないうちに世のなめ茸はキノコジャムに変わってしまったのか、このブランドだけがおかしいのか、ううむとうなっていたのだがどうしようもない。自分で作るという選択肢もあるにはあるのだが、そしてそれは思いのほか簡単であるというのだが、あまりの甘さまずさになめ茸熱が去ってしまった。

さてその後約百年(うそ)なめ茸とは縁がなかった。あの定番ブランドを見かけることもあったのだが、なめ茸というものの常識が変わっていたら悲しいし、なめ茸熱も去ったしということで手を出していなかった。
ところが最近ちょっとした高級品と出会ったので認識が変わってしまった。
なめ茸と言えば一瓶120g程度入ってせいぜい200円台、PB品なら100円前後もありうる。
一瓶300円を超えると何らかのこだわりのある高級品ということになる。
私が買ったのは400円程度なのでまぁまぁの高級品ではなかろうか。
まず、普通の軟白栽培したエノキダケではなく日に当てて育てた野生種とのこと。普通に見かけるエノキダケは暗所で育てることで日光を求めて細長く白く育つ。いわばモヤシである。通常は日に当たるのでナメコやシメジのような形になるし茶色に着色するようだ。
原材料表示を見ても砂糖は使っておらず水あめ(麦芽糖)とみりんとある。それも醤油より後に記載されていたので甘さ控えめと思われる。

これは美味しい。
心配だった甘さは控えめでしかも甘味は砂糖ではないからまろやかである。うまく表現できないのだが砂糖の甘さというのは舌の裏側から回り込んで刺すような嫌味を感じないだろうか。
単に使う量の問題かもしれないし、糖の種類の問題かもしれない。
砂糖は蔗糖(スクロース)であるが、みりんはブドウ糖(グルコース)、麦芽糖(マルトース)、種々のオリゴ糖を含んでいるそうである。水あめは麦芽糖が主成分である。
砂糖を大量に使う商品は味付けが安直になり甘さが刺すように感じるのかもしれない。

またこの野生種のエノキダケというのが食べ応えがあるというかなんというか。食感もブリブリとしているし、何やら良い香りがするのはエノキダケの香りなのだろうか。
そして、出汁や酸味も整えられていてご飯が進むと言ったらない。
年明けに決心した生涯何百回目かのダイエットの野望はもろくも崩れた。ちょっと味見のつもりでご飯一杯ぺろりと。これははまってまた買ってくるとみた。ああ、ご飯を食べていたらやせるダイエット法がないものか(ない)。
これは餅に乗せてもうまいねきっと(ダメダメ!)。

====
なめ茸一瓶400円というのは比較の問題で高いといえば高いが買えないほどの値段ではない。一瓶100円そこそこのなめ茸を買って「うまくもないな」と思っているくらいならこちらのほうがコストパフォーマンスが高い。
もう私はこれ以上のなめ茸しか買わないと決めた。

だが、そうそう売れないだろうなぁとは思うのである。小さな一瓶が牛丼一杯より高いなんてと思う人もいよう。
ネットで探すと実は個性的な、でもちょっぴり高いなめ茸がいろいろ発売されている。でもそうそう売れないからスーパーの棚に場所を確保できないのだろうなと思う。
しかし、安いからと言ってあんなに甘ったるいのが受けているのだろうか。私は甘いものが好きではないから世の中の人はうまいと思っているのかもしれない。だからメーカーは甘くしているのかもしれない。
でも、それはずれているのかもしれないぞ。品目を絞るコンビニの店頭では見かけなくなっているのがその現れなのかも。売り上げ低下で「子供女性向けに甘めの味付けに」とメーカーの頭の古い人は思ったのかも。ありうる。
子供や女性に甘いものをあてがっておけば満足するというのは完全にずれているのである。子供は今や親がいろんなところに連れていくのでいろんな味を知っている。塩辛やモズクが好きな子供も珍しくないのである。ちゅるちゅる系ぬるぬる系は強いのである。
女性は甘いものも好きだがそれだけではない。飲み屋にも進出しているし寿司屋焼肉屋も女性が制圧していると言っていい。
女性にアンケートをとって「あなたのご褒美フードはなんですか」と問うたところ、世代によってケーキだ和菓子だと甘いものが上がったのだが、30代は「焼肉」だそうだ。
スイーツはスイーツ。なめ茸に甘さをもとめてなんかいないかもしれないのである。

ま、こういうことを書いてなめ茸業界を誘導できないかなと思っているのだが、私のブログの影響力なんて3mgくらいしかないな。

===
このなめ茸のように、スーパーでも扱っている範囲で「そこそこ高級」というものはいろいろある。買えないほど高くはないけれどちょっと高い。そしてこだわり。
お茶に昆布、味噌、醤油、ごま油、豆腐、エトセトラエトセトラ。
「こんなもの高くても安くても一緒やっ!」という人もいようが、買って食べてみればなるほど違う。なんかちがう、ビミョーにちがう、どっかちがう、きゃなり ぱなり ぱなり(知っている人だけついてこい)。

今まで惰性で「ま、お茶って飲むよね」と思って買って飲んでいたものが、「うむ、うまい」となれば幸せだと思う。いや高いものに目覚めたら不幸なのか。まぁそれも価値観。
私は知らずに死んだらもったいないとは思う。

買ってみてはどうかと思う。それでその値段を出すに値する差があると思えば買い続けたらいいとおもう。
不景気は家計を直撃するのに好景気は通り過ぎるという近年、食費の切りつめも考えねばならないのだが、そればっかりではこうした「ちゃんとしたもの」がなくなってしまう。買える人、評価する人は買ったらいいと思うのである。
切り詰めた中でも見た目豪華にしたいという向きもあろうけど、安物とか揚げ物とかそんなんばっかりでも悲しい。この際見た目は質素でもいいものを使っているという食卓もいいのではなかろうか。若い人がいる家庭ではむつかしいかもしれないが。

美味しいお米で炊いたご飯、味噌も出汁もこだわったお味噌汁に具の豆腐も怠りなく。おかずは今回見つけたなめ茸に伝統の漬物としよう。
見た目貧相である。それなりにお金はかかるがこれだけ貧相ならそれほどでもない。こういう食卓もいいのではなかろうか。

posted by Mozzo at 13:23| Comment(0) | TrackBack(0) | まじめな正論! | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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