2015年03月12日

法律はともあれIGZOってシャープのものだと思うよ

理屈としてわからんではないがという話。

引用ここから====
「IGZO」他社も使用可に…シャープ上告断念
2015年03月11日 19時42分

 シャープが製造する液晶「IGZO」の商標登録を無効とした特許庁の審決を支持し、独占使用を認めないと判断した知財高裁判決について、同社は11日、上告を断念したと発表した。

 スマートフォンなどに使われている同社の看板商品の名称を今後は他社も使用できるようになる。知財高裁は2月、「商標登録の時点で半導体の原材料を表す言葉として広く認識されており、独占使用は適当でない」と判断していた。
2015年03月11日 19時42分 Copyright コピーライトマーク The Yomiuri Shimbun
引用ここまで====

へ〜〜〜〜である。
IGZOとは純粋なブランド名ではなく物質の名前であったか。
そんなことは知らなかった。

法律がどうのこうの言おうとも、IGZOの名前を世に広め高品質の代名詞として広めたのはシャープでしょうが。
その辺の技術にかかわる人が因縁をつけたらしいが、シャープの功績を否定できるだろうか。

それは一般名だもんね、シャープの物じゃないもんねという因縁を法律で受け止めるならそういう判断になるのかもしれぬ。
だが、IGZOというものを評価し敬意を払うのであれば、それはシャープの物であって、自らの商売に使わない、小さく(これはIGZOの技術を使ってます)と表示するのが正しい商売人ではなかろうか。

今後シャープと関係ないIGZOを前面に出す企業が現れたら否定し軽蔑し絶対に買わないと考えるのが正しい消費者ではなかろうか。
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川崎の事件に見る悪のくだらない構造 川崎の事件に見る悪のくだらない構造

神奈川は川崎市の多摩川河川敷で中学一年生が遺体で見つかった事件のことである。またも凄惨な事件が起きてしまった。
加害者とされる少年らが逮捕されている。本人は当初黙秘していたとも伝えられ、家族も否定していたが、一転犯行を認めたそうでもある。まだ、二次的な情報による報道で、逮捕された少年らを犯人と決め付けるわけにもいかないが、確度の高い報道のようにも見える。
なんにせよ殺人は別としても報じられる素行、そして殺された被害者の受けた被害は目を覆いたくなるようなものである。
日常的に被害者に肉体的精神的暴行を加え、ある意味「おもちゃ」にしていたという。
中学一年生と言えば13歳、対して加害者とされる少年らは18歳。この年代で5歳差は決定的であるし「遊び仲間」であるはずもない。

さまざまな報道がされている。主犯格とされる少年は素行が悪く酒を飲み、暴力をふるうなどしていたという。しかし、さまざまな報道を読み合せてみると悪くて強い、グループの親玉みたいな人物ではなかったようだ。
学業不振で性格も弱く、同年代からは馬鹿にされ蔑まれる存在だったようだ。強いものにはこびへつらうが弱いものには高圧的暴力的にふるまったという証言があるという。
同年代には洟もひっかけられないような人間が圧倒的に弱い立場の年少者をおもちゃにしているという姿が浮かび上がる。
同年代には対峙できず、感じた圧迫を1とすればそれを5にも10にもしてこの被害者にぶつけていたのかもしれぬ。歪んでいる。

この加害者とされる少年たちだけを責めるのではない。ここに浮かび上がる悪の構造を批判したい。
ここで悪は「あく」ではなく「わる」と読んでいただきたい。
昔から若いものは悪を気取ることが多い。エロスとタナトスのたとえ通り、男子は暴力性を前に出し、女子は性的に進んでいることを前に出す。そこに自分の存在感があると信じているからだろう。
学生の本分であるべき学業やスポーツで第一線に立っていればそんなことをせずとも存在感を出せるのであるがそれはほんの一握りの人のことだ。学業やスポーツでなくともたぐいまれなき美貌であるとか、ファッションセンスでもいい。だがそれも一握りの人だ。
多くの人が凡庸であり、それでよい自分は凡庸ではあるがそれなりに立ち位置があり価値があるということが納得できるのはもっと大人になってからなんだろう。
未熟であるからそれが暴力であろうが存在感を出せるならやる。未熟で愚かであるからそうなる。本来は「凡庸な人間であるのが普通のことなのだ」というほとんどの人が結局たどりつく結論がわかってればそうはならない。しかし、そこがわからないのが未熟ゆえだ。責めても仕方がない。

「悪を気取る若者は多いが人を殺すまではいかないのが普通だ。そこがおかしい、特異な事件だ」という向きもあろう。一部の報道では加害者とされる少年は人を殺してみたいと言っていたともいう。
だが、これは特別なことととらえるほどのことでもない。殺人に至るか否かは紙一重であって、殺人を犯すから特別な人間とかそうでないから凡庸ということでもない。どちらにせよだめな人間なのである。
殺人に至ったから特別な(特別に悪い)人間だという価値観を出すこと自体が社会をミスリードすることになろう。

=====
殺人事件として世間の耳目を集めたこの例はほんの氷山の一角。殺人にはいたらず自ら鬱屈をためつつ弱者をいたぶっているどうしようもない人がこの世に多々いるということを言いたい。
これは若年者だけではあるまい。成年者であっても弱者いじめであろうという行動は多々見られる。
むしろ殺人まで踏み込まないのは理性というよりは狡猾さなのであろう。殺人まで行ってしまった今回の事件の犯人は(報道されている少年かどうかは別として)ただの直情的馬鹿。殺人に踏み込まずねちねちといじめる連中のほうがたちが悪い。殺人もたちが悪いが。

この病理、ごく珍しい特別な異常なことだから、個別に処置すればいいのだということで終わらせていいのだろうかという疑問がある。
繰り返すが殺人に至らなければいいというものではないのだ。鬱屈を下に向けていく構造自体がいかんのだ。
殺された少年も、ふつうの会社でいじめられている名も知らぬ会社員も、普通の学校でいじめられている学生も、アルバイト先でいじめられている人も、取引先にいじめられている零細業者もなにもかも、同じく救済されねばならない存在だ。

悪な連中はなぜか上下関係が強調される。
支配するものとされるもの。
ところが、これが二つにきれいに分かれる単純なものではない。
たとえば学校で悪として支配的にふるまっているやつも、いわゆる「センパイ」に支配されている。センパイに焼きを入れられるから支配下の後輩をいじめるという図式は昔からあった。
そのセンパイは下手をすればやくざの下っ端のチンピラであり、これまた暴力団のヒエラルキーの中では最下層にいるのである。
暴力団の組長とていまや組織化がすすんでおり、その辺のチンピラを抱えているような組はいわば末端でその上位のまた上位というように階層化されている。
頂点に有名な広域暴力団がいるのだろうが、そのトップとて徹底的な取り締まりがされぬようと裏で政界とつながっていたりするわけである。
そこにあるとてつもなく深いヒエラルキーが大変に不愉快だ。

やくざとは関係ない会社にある悪のヒエラルキーも似たようなものだ。
若い社員をいじめる中堅社員もまた上にいじめられている。頂点に立つ社長だか会長だかしらんがそれとて天下を取っているわけではなく首根っこを押さえられているような状態にあるのが普通だ。
誰にも頭を下げる必要などないと思っているような人はごく一握りで、そのような大企業や大経済団体の代表はまた政治家とつながっていてなんてことになるんだろう。
誰にも頭を下げないのは寿司屋か蕎麦屋のおやじくらいのものではなかろうか(ごめんね)。

ま、日本の悪の構造がどうあれ、それをここで論じてもどうしようもない。
ただ、その末端も末端のごく下っ端に加わって偉くなったつもりのバカがいることはなんとかせねばならん。

なにもその阿呆なヒエラルキーに進んで加わることはない。
やくざ社会に身を投じることは阿呆の極みなので論外だが、悪のヒエラルキーの会社に参加することもどうかと思う。
自分が属する会社なり集団がそんなくだらない構造を持っていると知ったとき、別に抜ける必要はあるまい。それは生活をひどく阻害することになるし、それをよしとしたらハードルが高すぎる。
できることなら「上の人間」が押し付けるいわれなき圧迫を下に回さない人間になることだ。それだけでも精神的な強さを求められることなのだが。
口で言うのは簡単だが、これを書いている自分自身、実際にそんな場面で下を守ることができるだろうか。
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震災で思い出す震災とあまり関係ないこと

今年も3.11を迎えてさまざま思うのであるが、3.11で思い出したのだが震災と全く関係ない出来事があった。

日本中に静かなパニックがあった。
物流が阻害された面もあるし、買占めもあった。
ガソリンスタンドに車の列ができ、スーパーの棚からものが消えた。
スーパーですべての商品が消えたわけではない。いわゆる災害用品と言われる水、電池、レトルト食品や、その他簡便に食べられる食品がなくなった。
震災から数日のスーパー。なるほど、麺類でいうならゆでるのに時間がかかるパスタやうどんはまだあるが、時間のかからない即席めんや蕎麦素麺あたりは在庫がない。ことにカップ麺はすっからかんだった。

ところが、カップ麺で在庫たっぷりの商品があったのだ。
韓国製の「辛ラーメン」とかいうカップ麺である。あまり有名ではないローカルブランドではある。食べたことはないが名前通り辛いのか? ほかの商品がすっからかんなのに、棚から飛び出さんがばかりに在庫がある。
これはどういうことだ。

日頃韓国の言動に批判的なわがブログ、あることないこと言って韓国を貶めたいのだろうと思う人もいるかもしれぬが、これは単なる事実である。別に韓国製品をどうのこうの言いたいわけでもない。

他のブランドの在庫が払底する中、「辛ラーメン」だけが豊富な在庫を誇ったのはなぜなのか。
震災で混乱する中店の人に確認するのも気が引けて推測になってしまうが以下のいずれかであろう。

(1)震災にも負けない供給能力があった
(2)震災の時には買う気になれない商品であった(日頃は買うのだが)
(3)そもそも売れない商品であった(たとえ震災であっても買わない)

(1)の供給能力について、日本のブランドの工場が日本にあって、韓国ブランドは工場が韓国にあったからという可能性は否定できるわけではない。だが、物さえあれば店頭に商品が並ぶものではない。流通というものがある。韓国の商品だけがスムースに運べたわけはあるまいし、ブランドの規模からいって流通体制について、大手ブランド(たとえばカップヌードルとか赤いきつねと緑のたぬきとか)にくらべてそれほど有名ではないローカルブランドが整っていたとは到底思えない。
なまじ、私の住む地域だけで生産される純粋なローカルブランドであれば、工場さえ生きていれば流通が損なわれていてもなんとかしたということも考えられるが遠く韓国から運んできてはそうはいくまい。

(2)の震災の時にだけは買う気になれないというのも不自然だ。辛いから食べたくないということはあるまい。飲み水が不足するからかもしれぬが、私の住む地域ではそれほどのことはなかった。寒い時期だから辛いものはおいしいだろうし、辛い食品はこれだけではない。それ以外に震災だから食べたくない要素があるとは思えぬ。

(3)そもそも売れない商品ということなのかもしれぬが、これも不自然だ。
仮にこれがそのメーカーのアンテナショップで、「売れ行き抜群」と言いつつ実は売れてなかったというならわかる。しかし、これはスーパーの棚だ。スーパー、コンビニの商品棚というのは各卸・メーカーがしのぎを削る静かな戦場である。より広く目立つ場所を確保する戦いがそれぞれの営業担当によって繰り広げられている。
むろん、スーパー・コンビニ側も傍観者ではない。売れる商品を売れる場所にどーんとおいてこそ売り上げが上がるというものだ。売れないメーカーが棚を確保しようとしたらこれをはねのけなければならぬ。
戦争なのだ。
そこをのうのうと売れない商品が幅をとっていたとは思えない。

(1)(2)はあまりに不自然だが、(3)はまだ考える余地がありそうだ。
二つの可能性が思いついた。
(4)日頃は売れないから棚を確保できていなかったのだが、他の商品が払底したため置き場所を確保できた
(5)なにかずるい手段を使って売れないのに棚を確保していた

(4)の震災だから棚が一時的に確保できたというのはまぁまぁ蓋然性があるかもしれぬ。
しかし、そこまで売れない商品が震災だからといっていきなり営業をつなげるものなのかが不思議だ。商品がないからスーパーの側から日ごろ付き合いのない筋に声をかけたのだろうか。
とはいえ、私の住んでいる地域では売れていないにしても、売れる場所があるから卸がいて流通ルートが成り立っているわけである。それがどの程度売れるかどうかはわからぬが、日頃足りなくならず余らずという程度に在庫を持っているわけで、震災となれば売れる地域なら先にそちらで在庫が払底するだろう。いきなり日頃付き合いのないスーパーに卸す在庫を持っている卸もそうはあるまい。

(5)のずるい手段ともなるともはや陰謀説である。売り上げが上がらないのにリベートかなんかしらぬが手を回して棚を確保する。何のために。売れているふりか?
とはいえ、全然有名ブランドでもないわけだし、売れもしない商品を店頭に並べればロスは激しいわけである。それで得られるものはなんだ。
これも考えにくい。
仮にそんなことがあるとしたら許しがたい。小売りも卸もメーカーもコストダウンをして、競争力を高めようとしているのである。
売れねば小売りも卸もメーカーも負けるのである。そこにリベートかなんかしらぬが不正が入り込むすきがあるとしたらそれは消費者に転嫁されるわけであるし、消費者に転嫁されればその小売店は負けていなくなるわけである。そんなバカがこの時代にいるとも思えぬ。

どうにも答えはわからぬのである。

むろん、私の狭い体験だけで物を言っている。
存外上記(4)のように日頃棚を確保せんと在庫を抱えてトライしていた卸が、震災を機に一時的に棚に置かせてもらったということが正解なのかもしれぬ(しかし、あれほどくっきりと他ブランドと違いが出れば逆キャンペーンだと思うが)。

良いものならそこにあるはずもなし、悪いものならそこにあるはずもなし。正解をご存知の方ぜひコメントを。
posted by Mozzo at 01:27| Comment(0) | TrackBack(0) | まじめな正論! | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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