2015年04月11日

ネットにつながる家電も善し悪し

寝かしておいたら旧聞になってしまったが。
拙宅にはテレビがないのでどうでもいいんだが、怖い記事。

引用ここから====
テレビの電源が突然切れたり入ったり…なぜ?
2015年03月30日 08時53分

 三菱電機は29日、液晶テレビ「リアル」の一部で、視聴中に電源が突然切れるなどの障害が全国で起きたことを明らかにした。

 29日午前0時頃から、電源が切れたり入ったりを数分おきに繰り返す、といった不具合の報告が相次ぎ、障害は正午頃まで続いたという。

 同社は、2010年以降に発売された製品(最大で約162万台)に影響があったとみている。

 家電メーカーは、テレビに内蔵されているソフトウェアを更新するため、放送電波を利用して、各家庭のテレビ(他社製品も含む)にデータを配信する仕組みになっている。三菱電機によると、今回の原因となったデータは、他社が配信したもので、三菱電機が配信停止を要請したことで、障害が復旧したという。
2015年03月30日 08時53分 Copyright コピーライトマーク The Yomiuri Shimbun
引用ここまで====

なるほど、メーカーとテレビが一対一で通信しているわけではないからこうなるのだな。
相手のテレビを特定して「今からお前に更新データを送るぞ」「よしわかった送ってくれ」とやれば(ネゴシエーション)こんなことは起きないのだが、テレビの電波でそれをやるのは無理だ。

で、他社のデータも受け取ってしまうから識別番号とかで「これは俺とは関係ないデータだから捨てよう」とか判断するのだろう。今回の騒動は三菱のテレビでその判断ロジックが甘かったか、データを配信していた他社がお約束を破って識別できないようなデータを送ったかだ。

ここまでは奇妙な事件、で終わるが考えてみると怖い。
外からソフトウェアを書き換えることができるということなのだ。
無論素人が簡単にできることではないが、そのデータの内容がわかればできる。
データの内容は極秘だろうが内部情報がこれだけ漏れる時代だ。
書き換えて「わー面白い」だけでこんな手の混んだことをする馬鹿はいないと思うが、思いもよらぬ犯罪に使うことができるかもしれぬ。詐欺とかね。

電波や回線に絡んだ商品は自分自身のソフトを書き換える機能がついているとおもっていい。携帯電話、スマホ、PC、電子ブックリーダーこのへんは当然。
デジタルオーディオ機器などもそういう機種があると思う。
エアコンとか冷蔵庫とかあまりネットワークと関係なさそうな機器もネットにつないで外部からコントロールする機種ではそういうことをやっているかもしれない。

なぜそうなっているかというと、コンピューターが内蔵されているような複雑な機能をもつ機種だと、ソフトウェアの更新は宿命みたいなもんだからなのである。複雑ゆえにごくまれなタイミングや条件で妙な動きをする不具合もあるだろうし、新しいロジックで効率的に動くという改善もある。完璧にしてから発売しろよと言う人もいるかもしれないが、複雑なソフトウェアは単純な機械とは比べられないほどの試験をせねば「完璧」は言えないのである。あとから不具合やら改善法が見つかるのは避けられない。完全品にしてから出荷したら、15年前の性能のテレビが100万円で買いますか?てな話だ。この値段は、高価格にもかかわらず同じ数が売れるとしたらの話だ。数が売れねば価格は上がる。実際には10倍100倍の値段でもペイしない、というか売れない。
単純な鉄の棒なら横に何ニュートンの力をかけても折れない、縦に引っ張っても切れないとせいぜいテストは数十ケースだ。コンピュータ制御の製品は完璧を目指したらテスト項目は何千何万では利かないし、「5年間フル運転しても大丈夫」とかそう簡単にテストできないことが出てくる。そういう問題がソフトウェアではあるのだ。長期間動かすと突如動かなくなり再起動するとその後数年間は使えるのだがとかいうのが。

なぜそうなるのか、理由は様々だがソフトウェアの誤りの例の一つで有名なのは桁があふれることだ。
たとえば時間・時刻。
時刻をマイクロ秒単位で管理したいとして、人間が理解しやすい形としてはXXXX年XX月XX日XX時XX分XX.XXXXXX秒と管理したいだろう。
しかし、ソフトウェア的には面倒だ。年月日。。と個別に数字を持つのは面倒なのだ。
1999年12月31日23時59分30.000001秒と2000年1月1日0時0分11.999777秒ではどちらが先の時間かどれだけ経過したのかという判定を複数の数値を見て繰り上がり繰り下がりを計算せねばいかん。なので内部的には簡略化して、とある時刻からの経過時間で表現する。。
たとえば1970年1月1日0時からの経過時間で管理するというやり方がある。これは2038年問題として有名だ。
管理する単位が短くなればなるほど、扱う時間が長くなればなるほど、その時間を保持するために多くのビット数が必要になる。
たとえば現在の多くのコンピュータで標準的な32ビット整数では足りない場面が出てくる。64ビットであれば足りるがそれを考慮しているかどうか。
たとえば32ビットの整数(符号なし)は4,294,967,295まで表現できる。ずいぶん大きな数字であるが秒単位で約136年(計算あってるかな)。符号あり整数ならその半分。2038年問題というのはこの辺にある。
場面によっては136年じゃ足りないし秒単位でも足りない。
これが64ビット整数(符号なし)だと18,446,744,073,709,551,614まで表現できる。
秒単位でなくマイクロ秒単位であっても約584,942年である。まぁ恐竜の生きていた時代をマイクロ秒で遡ったりしないのでたいていの場面で足りる。

とはいえ、64ビット整数が扱えるようなコンピューター(正確にはプログラミング言語やOS)が一般化したのは最近のことであるし、精度が上がればそれだけメモリも食う。古いプログラムや意識の低い人が作ったプログラムにはそうした誤りが入り込むわけだ。

あまりにくどい説明になってしまったが、こういう誤りは見つけにくいから製品を出荷してから見つかることはあるのだということがわかってもらえるだろうか。

またソフトウェアというのはややこしくて、仮に10万項目の試験の9万9999項目まで合格して最後の1項目が失格としてだ、その修正をしたら最初の1項目目に悪影響を及ぼしていないとは限らないのだ。部品同士が関係しているからだ。その10万項目で足りているのかも正解はない。
また、当然何度繰り返しても大丈夫という観点で試験をするが、それが1000回なのか1000回で充分なのかというのは正解はない。

無論、従来の(たとえば自動車)商品に倣えば商品を販売店がメンテナンスして回るのが正しいのだろうが、コスト的にどう考えてもむりだ。売価数百万円の自動車ならともかく、せいぜい数万円の商品にそんなことをやっていられない。商品が自動で更新するというのは必要不可欠のコストダウンなのだ。

怖いことなんだが否定することでもない。いちいちテレビを販売店にもっていくとか、サービスマンが来るとかそれ自体が面倒だし、その費用をだれがもつのか。毎回「いやぁ不具合が見つかっちゃいましてね。ソフトを交換するので5千円払ってください」といわれて払う馬鹿はいない。5千円じゃサービスマンの出張費用だって赤字なんだが払う側からしたら高い。
だからといってそれを見込んだ価格が商品に含まれていても困る。
ネットワーク経由でできるからの価格なのだ。

そういうものだとわかって付き合うというのが賢いのだろう。昨日まで順調に動いていたものがある日いきなり変な動きをするというのを覚悟しておくのは厳しいが。

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通信機能を持った機器にはデータを送り出す機能を持つものがある。
今回の騒動はテレビ電波に乗せたいわば下りのデータだけの問題であったが今の地上デジタル波は双方向の通信が想定されている。インターネットにつながる機器も多い。データを外に出すことができるのだ。

最近欧州で韓国製のテレビが問題にされた。盗聴をしているというのだ。音声認識機能があってそのチューニングのためにデータを製造会社のサーバーに送るというのだ。目的がどうあれ盗聴といわれてもしかたあるまい。プライバシーに神経をとがらせている欧州であまりに脇が甘い。
実際にデータを使って何をしていたか、当然メーカーは純粋にチューニング目的でデータをその都度捨てたというだろうが、事実はどうあれ信用されるかどうかは別だ。仕組みとして盗聴できないようになっていることが信用というものであるのだが、データを上に出せないというのも機能を制限することになり痛し痒しだ。

話題がずれてしまっているが、盗聴を怖がるのであればそれこそ電話なんて使えない。事実盗聴が可能どころか必要な場所では実際に盗聴されている。
しかし、盗聴されたら困るような人は電話は危ないとおもってそれなりの理解でつかう。暗号化された回線をつかうとか符牒をつかうとか。
まさかテレビやエアコンが盗聴しているとは思わないから怖いのである。

ネットワークでつながるということは便利と不安の両方が増す。
かつて便利な食品添加物が発達し、それを否定した食品もまた発達したように、ネットワークを駆使した商品が発達し、それらを排除した「ネットフリー」な商品もまた発達するのだろう。
回るだけの扇風機や光るだけの電球が「ネットフリー」として売り出される日が来るのかもしれないし来てほしい。逆に言えばすべての家電にネットがつながって「あと10日で電球が切れます」くらいのことがわかって、電気屋がやってくるのも理想と言えば理想だ。そしてそれを拒否する選択肢もあっていい。

そう、選択肢がほしいのだ。
ネットワークにつながるテレビしかないとか、電話を使うのにスマートフォンしかないとか、それでは困るのである。
ちなみにスマートフォンとは(私の定義では)iOSやAndroidOSで動いていて「キャリアやメーカーに囲われていない」携帯電話のことを指す。テンキーがついていようが二つ折りだろうがスーとフォンである。外からアプリを入れて悪さをすることが可能だからだ。
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2015年04月09日

両親に無限の監督責任はない 当然の判決

以前もこのブログで触れた事件の最高裁判決が出た。

以前書いたブログはこちら。
http://mozzo-expresso.seesaa.net/article/357166307.html

当然の判決だ。よかったと思う。

引用ここから====
小6蹴ったボールよけ死亡、両親の監督責任なし
2015年04月09日 22時20分

 子供が起こした事故が原因で死亡したお年寄りの遺族が子供の両親に損害賠償を求めた訴訟の上告審で、最高裁第1小法廷(山浦善樹裁判長)は9日、「通常は危険がない行為で偶然損害を生じさせた場合、原則として親の監督責任は問われない」との初判断を示した。

 そして1、2審の賠償命令を破棄し、遺族側の請求を棄却する判決を言い渡した。両親側の逆転勝訴が確定した。ほとんどの事故で親の監督責任を認めてきた司法判断の流れが変わることになる。

 裁判官4人全員一致の判断。認知症で徘徊(はいかい)する高齢者が起こした事故で、介護する家族が監督責任を問われる可能性があり、今回の判断は、高齢化社会で介護者の負担を一定程度軽くする影響もありそうだ。

 判決によると、2004年2月、愛媛県今治市の市立小学校の校庭で、放課後に子供たちがサッカーで遊んでいた際、小6男児(当時11歳)がフリーキックの練習で蹴ったボールがゴールと高さ1・3メートルの門扉を越えて道路に転がった。これをよけようとしたオートバイの男性(同85歳)が転倒し、足の骨折などで入院して約1年4か月後に肺炎で死亡した。

 1審・大阪地裁、2審・大阪高裁はともに、男児に過失があったと認める一方、11歳だったことから責任能力はないと判断。上告審ではこれを前提に、親の監督責任の有無が争点となった。

 判決はまず、男児の行為について「開放された校庭で、設置されたゴールに向けてボールを蹴ったのは、校庭の日常的な使用方法だ」と指摘。「門とフェンス、側溝があり、ボールが道路に出るのが常態だったとも言えない」とした。

 そして、親の責任について、「人身に危険が及ばないように注意して行動するよう、子供に日頃から指導監督する義務がある」と言及。ただ、今回の男児の行為について「通常は人身に危険を及ぼす行為ではなかった」とした上で、「両親は日頃から通常のしつけをしており、今回のような事故を具体的に予想できるような特別な事情もなかった」と監督責任を否定した。

 2審判決は、親の監督責任について「校庭ならどう遊んでもいいわけではなく、それを男児に理解させなかった点で両親は義務を尽くしていない」と判断、両親に約1180万円の賠償を命じていた。

 遺族側は、今治市には賠償を請求しておらず、訴訟では学校側の安全管理の当否は争点にならなかった。

 ◆親の監督責任=民法714条は、責任能力のない子供が事故などを起こした場合、「監督義務者」の親が賠償責任を負うと定めている。親がいない場合は、親代わりの親族や未成年後見人、児童福祉施設の施設長が責任を負う。監督義務を怠らなければ責任を免れるが、免責を認めた判決はほとんどなかった。

 ◆最高裁判決の骨子◆

▽親は、子供が人身に危険が及ばないよう注意して行動するよう、日頃から指導監督する義務がある

▽通常は危険が及ばない行為で、たまたま損害を生じさせた場合は、具体的に予見可能だったなどの特別な事情が認められない限り、監督義務を尽くさなかったとすべきではない
2015年04月09日 22時20分 Copyright コピーライトマーク The Yomiuri Shimbun
引用ここまで====

裁判関係のことに触れるとき毎回書くのだが、裁判は単に責任の所在を明確にするためだけにあるのではない。
同じことが繰り返されないように今後どうあるべきかを示すものだ。

この両親に責任があるとしたら、事故を起こさないようにするのに何ができるというのか。小学校の高学年から中学あたりまでは判断力に欠けるところがあるが、騒動を起こす知恵や体力がついてきているし、大人の言うことを素直に聞くとは限らないというたちの悪い時期とは言える。
事故を起こさないようにするには四六時中監視するか、学校をフェンスでぐるりと囲うかである。紐をつけて縛っておくわけにもいくまい。
現実的には無理だ。

ではどうあるべきか。
死んだ人を責めるつもりはないが、バイクで道を走るからには身を守る能力と責任が求められるということなのだ。とっさに身をかわす体力や反応能力、多少のことでは倒れない足腰、危険を予知して行動する判断力。道路に飛び出してくるのは何もサッカーボールだけではない。風に飛ばされたビニール袋、猫や烏、鳩といった動物。物だけではない。不意に建物に反射した太陽で目がくらむかもしれないし、大型車が横を通って風にあおられるかもしれない。大型車なら見ればわかるが大きなビルの脇や橋に出るところで急な突風に驚くこともある。
言っちゃ悪いが当時85歳。その能力があったとは思えないのである。サッカーボールで転ぶくらいであるから。本人に自覚がないなら周囲の人間や公が運転をやめさせねばいけなかったのではないか。

記事では認知症患者の徘徊にも触れている。
線路に入り込んだり、道路を逆走したりで事故を起こし、民事で家族(保護責任者)に巨額の請求がされた裁判が相次いだのだが、「世の中そういうこともある」という前提で運転者や鉄道事業者、道路管理責任者にも注意・対策する責任があるということになろう。

世の中漫然と行動しても全くの安全な場所というのは幻想だ。危険があって当然、だからこそ対策する。
それがバランスの取れた考え方というものだろう。

それにしても事件から判決まで11年以上。あまりに長い。
この少年はもう23歳とのことだ。若い多感な時期というのに、重いものが常にのしかかっているような暮らしだっただろう。拙速はいかんのもわかるが、もうちょっとなんとかならんものかと思う。原告と死亡した男性の関係はわからぬが男性の子の世代として60代から70代というところか。これも重い。

====
話は変わるが以前に書いたときも今回も裁判の大枠がわからなかった。
死んだ男性は事故から1年半後に亡くなったということだから、事故と死亡の因果関係について争点にならなかったのか? 寝たきりになり抵抗力が落ち肺炎になってなくなったとすれば、100%の因果関係が認められるとは思わないのだが。
次に、この事件は第一審で約1500万円、第二審で約1180万円の賠償という判決だったのだが、請求額はいくらだったのか(つまり原告の主張を裁判所はどこまで認めていたのか)が見えない。
いつも読売の記事は詰めが甘いように思う。

と、産経を当たったら原告の請求額は約5000万、事故と死亡の因果関係は第二審で認め弁護側が争点にしなかった模様。まあ引用しなおすのも面倒なのでまぁいいか。
posted by Mozzo at 23:18| Comment(0) | TrackBack(0) | まじめな正論! | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年04月06日

カタカナビジネス用語は必要だから定着してるんじゃないの?

気持ちはわからなくもないんだがという記事。
画像が多く引用が面倒なのでリンクのみ記載する。

「アジェンダ」、「タスク」、「エビデンス」 “カタカナビジネス用語”って、本当に必要なのか!?
http://www.excite.co.jp/News/bit/E1427784020332.html

記事を書いたご当人がカタカナ語が苦手なようで否定的な雰囲気が感じられる。カタカナ語の使用を否定しているとまでは言わないが。
無論、格好が良いと思って(格好良くないが)日本語で充分に言い表せるものをあえて外国語からカタカナ語に引っ張ってくるのは望ましいとはいわん。
だが、新しい物や概念が生まれてぴったりと当てはまる日本語がなく、外国語から引っ張ってきたカタカナ語が定着するのは言語の変化として当然のことであり否定することはできない。

だいたい記事に挙げられていたカタカナ語の説明もどうだろうか。

アジェンダ→計画・予定表
タスク→課された仕事・職務
キャパ・キャパシティ→収容能力・容量
エビデンス→言った言わないの証拠・言質
アサイン→割り当てる・任命する

説明として間違っているとはいわないが、語の微妙な意味合いを伝えきれているとは思えない。すべてこの説明で置き換えられるか考えればわかると思う。ちょっと違う。微妙に違う。きゃなりぱなりぱなり。

もちろんもとになったTaskなりAssignなりという外国語とカタカナ語のタスクなりアサインなりがおなじ意味合いを持っているとも思わない。日本語に取り入れられた時点で外国語のもつすべての意味が取り入れられたわけではないし、元の語を使う国でも意味は変わっていく。
「日本語に取り入れられた」なんて言うな、外国語であって日本語ではないわ!、と怒る人もいるだろう。違うのである。カタカナ語になった時点で「外来語」という立派な日本語なんである。

そもそも日本語は外来語を積極的に取り入れる性格があった。
明治時代には学生がメッチェンだのシャンだの独語を織り交ぜてしゃべっていた。意味は調べていただこう。
この文章自体に多用されている漢語もカタカナ語ではないが元は外来語だ。漢語とは文字通り漢の言葉だ。
嘆くべきはやまとことばの造語能力の喪失なのである。漢語を避けてやまとことばとひらがなで書いてみたが、ひらがなルーツ自体が漢字だ。仮名は漢字を書き崩したものなのである。万葉仮名というものを思い出すとわかる。

無論、ルーツが海外にあるからと言って嘆くようなことではない。
文化は伝播し変化するものである。我々自体のルーツがアフリカ大陸のどこぞにあるわけで、我々独自のものだと言い張ること自体が情けない。そういうことが好きな人々もいるけれど。

今あるありようそのままが文化であり、それが海外から来たものであってもそれを変化させ豊かにさせたのは我々であってそれが文化の豊かさなのである。決して否定するようなことではない。海外がルーツであることを嘆くのではない、今現時点で豊かな精神活動文化活動が行われているか否かだ。

====
とはいえカタカナビジネス用語がわからないと否定する向きがいるのもわかる記事だ、。
だが、いかんのはカタカナ語なのか?
「え、それってどういう意味?」とその場で聞けないコミュニケーション能力の欠如が問題なのではないか。わかったふりも怒るのもいかんのではないか。
その場で聞いてみて、その語が不特定多数に通じるのか否かを確認すればいいのだ。ほとんどの人が知っている語なら素直に意味を聞いて理解すればいいし疑問があれば議論すればいい。
どう考えても断りなく使う語でなければ廃れていくだろうし、意味を確認してぴったりの語であれば定着していくだろう。議論をすればそれは既存の言葉を使うべきだという結論が定着することだろう。
問題を提起したつもりで自らのコミュニケーション能力の低さを露呈しては詰まらんのである。

あるがままに。
posted by Mozzo at 17:19| Comment(0) | TrackBack(0) | まじめな正論! | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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