「ろくでなし子」さんという漫画家、造形作家がいる。
自分のマンコの型を石膏で取り、それをもとに様々な作品を生み出している。その際の一部始終、彼氏のチンコの型も取ったという漫画を読んだが、彼のチンコの作品は見ていない。権利関係か?
ぱっと見た目田園風景のジオラマ、よく見るとマンコ。笑える。だんだん大掛かりになってきて、拡大してカヌーを作ったりもしている。
この人が裁判に訴えられる前から注目していて、サイトも見ていたのである。
このマンコの型を3Dデータにして配布したということで「わいせつ物を配布した」と裁判になっているのである。
はぁ?である。このマンコ芸術。面白いがどう考えても「劣情を催す」ようなものではない。これをわいせつ物だという人はむしろ煩悩で頭がおかしくなっているから検査したほうがいい。そのうち性犯罪をおこすぞ。
人の倫理観というのは様々であり、性器とか尻とか乳房とかを他人に見せたくないとか見たくないということもあるにはある。マンコよりおめーの顔のほうが迷惑だよっと言いたいケースもあるが、それを面と向かって言うわけにもいかない。これはいい、これはいかんという一定の方向性というものはあるのである。それはわからんではない。
だが、それは法律で制限するほどのことかと思う。
チンコやマンコを直接さらけ出してこれを見ろと首根っこを押さえつけられるのであればこれは強要罪として犯罪でいい。見たくない人もいるのだから、公共性の高い場所、例えば電車の広告とかショッピングセンターとか、そんな場所では「控えるという暗黙の合意」があってもいい。だがそんなことをいちいち法律違反だと目くじら立てて取り締まるというのはあまりにばかばかしい。
チンコもマンコも別に珍しいものではない。たいていの人はそのどちらかを持っているし、たいていの人はもう片方も見ている。触ったり口にしたりもしている。それをことさら「いけないもの」として取り締まる理由はなんだ。取り締まる側にどうにも抑えきれない妄想があるのか。
マンコとチンコは生殖に使うものであり、本能に大きくかかわるものである。食べる姿寝る姿とともに生殖にかかわる姿はあまり大っぴらに見せないという文化はあっていい。だが、文化だ。法律で取り締まることではない。
ろくでなし子さん(何て名前だ)の裁判でも過去の同様の裁判でも「これは芸術であってわいせつではない」という論法が使われる。法廷戦術上仕方ないのだろうが私は納得できない。
わいせつであろうがなかろうが、公がいちいちくちばしをはさむことではない。本質的にはそう主張せねばならないのではなかろうか。わいせつは芸術ではないのか。わいせつに感じる気持ち自体が芸術につながる部分もあろう。人間の心が揺れ動くすべてのものが芸術ではなかろうか。わいせつも否定してはいかんのではないか。
性的興奮も羞恥も自己否定・自己肯定もなんにもかも、心の動きは芸術なのである。
法律で抑え込むなということを言いたいのであって、ことさら倫理観としてあけっぴろげがいいと言いたいわけではない。隠すこともこれまた表現であり文化である。ちらりと見えるか見えないかがかえって魅力を引き立て心をかき乱すという面もある。
だいたい丸出しが当たり前になってしまえば、ろくでなし子さんの作品の面白さも失われてしまう。「マンコ? マンコだよこれ わはは」という視点がなくなれば身体の一部を使ったたんなる造形になってしまう。マンコもひじも手のひらも同じでは成り立たなくなってしまうのだ。そういう倫理的合意のもとに成り立つというのもこれまた事実。v