2015年05月27日

ろくでなし子さんの裁判 わいせつを取り締まるというロジックがそもそも

この文章においては女性器のことをマンコ、男性器のことをチンコと表現する。文句がある人、気分を害する人、お帰りはあちらです。てゆーか読んでいる人がいるのか、このブログ。

「ろくでなし子」さんという漫画家、造形作家がいる。
自分のマンコの型を石膏で取り、それをもとに様々な作品を生み出している。その際の一部始終、彼氏のチンコの型も取ったという漫画を読んだが、彼のチンコの作品は見ていない。権利関係か?
ぱっと見た目田園風景のジオラマ、よく見るとマンコ。笑える。だんだん大掛かりになってきて、拡大してカヌーを作ったりもしている。
この人が裁判に訴えられる前から注目していて、サイトも見ていたのである。

このマンコの型を3Dデータにして配布したということで「わいせつ物を配布した」と裁判になっているのである。
はぁ?である。このマンコ芸術。面白いがどう考えても「劣情を催す」ようなものではない。これをわいせつ物だという人はむしろ煩悩で頭がおかしくなっているから検査したほうがいい。そのうち性犯罪をおこすぞ。
人の倫理観というのは様々であり、性器とか尻とか乳房とかを他人に見せたくないとか見たくないということもあるにはある。マンコよりおめーの顔のほうが迷惑だよっと言いたいケースもあるが、それを面と向かって言うわけにもいかない。これはいい、これはいかんという一定の方向性というものはあるのである。それはわからんではない。
だが、それは法律で制限するほどのことかと思う。
チンコやマンコを直接さらけ出してこれを見ろと首根っこを押さえつけられるのであればこれは強要罪として犯罪でいい。見たくない人もいるのだから、公共性の高い場所、例えば電車の広告とかショッピングセンターとか、そんな場所では「控えるという暗黙の合意」があってもいい。だがそんなことをいちいち法律違反だと目くじら立てて取り締まるというのはあまりにばかばかしい。

チンコもマンコも別に珍しいものではない。たいていの人はそのどちらかを持っているし、たいていの人はもう片方も見ている。触ったり口にしたりもしている。それをことさら「いけないもの」として取り締まる理由はなんだ。取り締まる側にどうにも抑えきれない妄想があるのか。
マンコとチンコは生殖に使うものであり、本能に大きくかかわるものである。食べる姿寝る姿とともに生殖にかかわる姿はあまり大っぴらに見せないという文化はあっていい。だが、文化だ。法律で取り締まることではない。

ろくでなし子さん(何て名前だ)の裁判でも過去の同様の裁判でも「これは芸術であってわいせつではない」という論法が使われる。法廷戦術上仕方ないのだろうが私は納得できない。
わいせつであろうがなかろうが、公がいちいちくちばしをはさむことではない。本質的にはそう主張せねばならないのではなかろうか。わいせつは芸術ではないのか。わいせつに感じる気持ち自体が芸術につながる部分もあろう。人間の心が揺れ動くすべてのものが芸術ではなかろうか。わいせつも否定してはいかんのではないか。
性的興奮も羞恥も自己否定・自己肯定もなんにもかも、心の動きは芸術なのである。

法律で抑え込むなということを言いたいのであって、ことさら倫理観としてあけっぴろげがいいと言いたいわけではない。隠すこともこれまた表現であり文化である。ちらりと見えるか見えないかがかえって魅力を引き立て心をかき乱すという面もある。
だいたい丸出しが当たり前になってしまえば、ろくでなし子さんの作品の面白さも失われてしまう。「マンコ? マンコだよこれ わはは」という視点がなくなれば身体の一部を使ったたんなる造形になってしまう。マンコもひじも手のひらも同じでは成り立たなくなってしまうのだ。そういう倫理的合意のもとに成り立つというのもこれまた事実。v
posted by Mozzo at 00:55| Comment(0) | TrackBack(0) | まじめな正論! | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年05月25日

国旗国歌 ルール違反でも大目に見ろという判決には納得できない

こんな幼稚な主張が通るとはとあきれる判決。
産経新聞から引用する。

引用ここから====
国歌不起立で教員再雇用せず 都に賠償命令 東京地裁判決

 卒業式などで校長の職務命令に反し、国旗に向かっての起立や国歌斉唱をしなかったことを理由に、定年後の再雇用選考で不合格になったのは違法として、都立校の元教職員22人が都を相手取り、1人当たり520万〜1300万円の損害賠償を求めた訴訟の判決が25日、東京地裁であった。吉田徹裁判長は「都教委の判断は裁量権の範囲を逸脱、乱用した」として、全員にそれぞれ200万円超の賠償を命じた。

 判決によると、都教委は平成15年10月、卒業式などで国旗に向かって起立し、国歌斉唱することを義務づけ、従わない教職員は服務上の責任を負うとする通達を出した。原告らはこれらの職務命令に従わずに戒告などの懲戒処分を受け、再雇用を申請したが不合格となった。

 吉田裁判長は「職務命令違反があったことだけを不当に重視し、教職員としての長年の経験や知識などを全く考慮していない」と述べ、再雇用への期待を違法に侵害したと指摘した。再雇用された場合に、原告がそれぞれ得られる1年分の報酬を賠償額と算定した。

 同様の再雇用拒否をめぐる訴訟では、1審判決が元教員への賠償を命じたが2審で逆転敗訴。23年に最高裁で敗訴が確定している。

 判決後に会見した原告団代表で元教員の泉健二さん(68)は「都教委の行ったことはひどいものだと認めてもらった」と述べた。一方、都の中井敬三教育長は「判決は大変遺憾なことで、内容を精査して今後の対応を検討する」とコメントした。
引用ここまで====

日の丸君が代が気に入らないという個人的な好みは批判しない。だがそれを表に出していいのかということは別である。
まず、表面的にはルール違反なのである。判決でも「職務命令違反があったことだけを不当に重視」と言っていて決して原告の姿勢が正しかったとは言っていない。ルール違反はあったけれども、それに対して厳しすぎないかと言っているのである。
だがこの判決で原告側は「都教委の行ったことはひどいものだと認めてもらった」と言っているのはあたかも全肯定されたかの如くである。これからはルールを守るという気がない。
犬でもしつければルールを守る。まずルールを守れ。守った上でそのルールが不合理であるならルールを変える取り組みをすればよい。気に入らないからルールを破って挑戦するのであるならことの軽重は違えどテロリストと論理は同じである。
ことに教育に携わるものとしてこれでいいのか。

さらにいえば、国歌・国旗その他国家を象徴するものに対する態度を教えるのは大切なことなのである。たとえ気に入らなくともである。到底それができる人材ではsあるまい。
たとえ気に入らない、対立している国であっても相手の国家を侮辱することは最後の最後までしてはならない。ニュース映像などで腹が立ったからと相手の国旗を踏みつけたり焼いたりするシーンが流されるが、あまりに気軽にそうしたことをやっている。「もはや戦争だ。お前らを抹殺するぞ」くらいの表現であることを忘れてはいかん。どんなに憎くともそれをやれば下品な人間として負けだと思う。
それを表面的に国旗を踏んではいかん、焼いてはいかんと教えても意味はないのである。自分が気に入らなくともそれを尊重している人もいるということを感覚として理解せねばならない。

仮に自らは君が代日の丸が気に入らないとしても、それでも敬意を示すということを児童生徒に語ることができるならそれはいい教育になるだろう。
それができない幼稚な感覚の老教師を再雇用する必要はあるまい。

というか、これは民間企業なら即刻クビ。なんて甘えているのだろうか。
posted by Mozzo at 23:35| Comment(0) | TrackBack(0) | まじめな正論! | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

オスプレイ 使い勝手のいい道具なのだ

道具は使いようという報道。

引用ここから====
オスプレイ救援物資運ぶ…道路崩れた山あいの村
2015年05月12日 09時00分

 【ダーディング(ネパール中部)=石田浩之】ネパール中部で発生した大地震で、米軍の新型輸送機MV22オスプレイが、道路の寸断などで孤立した山間部に救援物資を届ける活動を行っている。これまで物資が届いていなかった山あいの村ダーディングに向かうオスプレイに11日、同乗した。

 ネパールは物資輸送に利用できるヘリコプターを10機しか所有しておらず、地震発生後、各国に支援を要請。米軍は、沖縄県の米軍普天間飛行場に配備されているオスプレイ4機を派遣した。4機は1日1〜2回、首都カトマンズなどと山間部の被災地を往復している。

 上空から見る険しい山岳地帯の村は、倒壊した住居が点在し、細い道が崩れた土砂に埋まっていた。オスプレイは村の狭いグラウンドに垂直着陸。集まった住民ら約200人に対し、コメのほか、離乳食やテント用のシートなどの物資を配った。自宅が倒壊したギミレさん(45)は、畑のジャガイモで2週間以上しのいできたと言い、「支援がようやく届いてありがたい」と喜んでいた。
2015年05月12日 09時00分 Copyright コピーライトマーク The Yomiuri Shimbun
引用ここまで====

オスプレイについてはこのブログで以前にも触れた。
http://mozzo-expresso.seesaa.net/article/357166966.html
http://mozzo-expresso.seesaa.net/article/407830578.html

反対派はオスプレイは危険で邪悪なものと言わんばかりだがこの記事を見てどう思うのか。コメントする義務があると思う。オスプレイは悪者だからネパールの人を支援したのも邪悪な行為だ、許されない、ネパール人が災害で死んでもオスプレイは使うな、とはっきり言ったらどうだと思う。

仮に沖縄に適度な大きさの輸送ヘリがあったとしても、航続距離の短さ速度の遅さから対応はむつかしかっただろう。大型ヘリは比較的航続距離が長いものもあるが、着陸する場所を選ぶため、現地に入り込めないケースもあるという。
速度、航続距離、積載量、離発着距離、それぞれ個別に見ればもっとすぐれているものがあるのだが、総合的に「ちょうどいい」航空機だったというわけだ。

今回のケースには大変いい道具だったというわけである。
一方で事故率が高くて危険だという意見もある。これは誤解で他の航空機と比べてことさら事故率が高いわけではない。ただ新奇な航空機の事故は大きく取り上げられるため報道に取り上げられ注目されるに過ぎない。
このブログでもふれたが、いったんエンジンの不調が起こると固定翼機や回転翼機に比べ逃げ道がないという問題はある。固定翼機はグライダーのように飛び続けせめて安全に不時着する場所を探すことができるし、回転翼機ではオートローテーションという方法で同じく不時着する場所を探すことができる。だが、オスプレイの場合はグライダーのように飛ぶには主翼が小さすぎ、オートローテーションの機能がない。
だが、固定翼機も離発着のとき高度も速度も低い状態では同じように弱いし、回転翼機はテールローターを失うとか別の原因で壊滅的な事故を起こす。
まぁ空を飛ぶっていうのだから苦手な状況はある。そこをいかにうまく危険を避けるかであるのだ。

オスプレイ反対派は本音としては米軍や自衛隊のやることだから気に食わないわけだ。仮にJALが近距離コミューター路線に導入と言ったらここまで反対するだろうか。米軍だから気に食わない、反対したい、それだけだ。トータルとして国益になるかどうかの議論が必要であるのに。

米軍や自衛隊に反対したいということが目的化している。米軍が沖縄にいるとか自衛隊があるということは日本にとって「手段」にすぎない。日本の安全を守るための手段だ。そこをはき違えては議論にもならない。

たかが道具だ。使い方が問題なのである。

====
このブログでも指摘した通り、新しいものであってまだ熟成が足りないのは事実。
確率が低いとはいえ事故を起こせば破滅的であるなら住宅地の上を飛ぶなというのはまっとうな主張かもしれない。本来はオスプレイに限らず航空機は離発着が一番危険で、離発着ルートの下は緩衝帯として住宅を建ててはならぬというのが米国のルールだ。そうやって問題を解決する方法もある。事実上どこに家を建てようが勝手だという日本が異常だ。
空港の周辺には住宅を作らなければいいのである。すでにある住宅は立ち退かせてもいいのである。オスプレイは来るなという方法でなく空港近くから立ち退けという解決方法もあるのだ。住宅と空港どちらが国益に沿っているのか代替案はあるのかで判断すればいい(空港の移転先は見つからないだろうが)。


目的と手段は違う。目的は理念とか戦略とか高次の観念が絡んでくるが手段は技術的な問題が絡むだけである。そこに平和だ戦争反対だというようなことをからめてくるとまとまる話もまとまらない。話をまとめたくないからやっているんだろうが。
とにかく必要な道具を必要なときに使えないのはばかばかしい。
posted by Mozzo at 20:16| Comment(0) | TrackBack(0) | まじめな正論! | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
×

この広告は1年以上新しい記事の投稿がないブログに表示されております。