2015年05月16日

人のふり見てわがふり直せという

最近とんでもない「おばはん」を目撃した。女性に向かっておばさんというのはもはや侮蔑という時代にあえておばはんと言いたい光景であった。

混みあう朝の時間帯のコンビニである。
このおばはんはおにぎりとか惣菜とかゆで卵とかおそらく昼飯と思われるものなど数点を買っていた。レジで会計する際に商品一つずつに対してレジ袋を要求している。他人の買い物を頼まれたときに別の袋にしてくれと頼むことはあっても全部別の袋にしろというのは尋常ではない。しかもそれ全部あんたの昼飯やろ!と突っ込みたくなる内容。
これはまだ序章。たとえばコンビニのゆで卵というのは無駄にも思うがひとつずつ丁寧にプラスティックの包装がされている。そうした包装を全部レジではがしてそれを店で処分しろというのである。店員も手伝うが手間取る作業だ。
ごみを処分するのが嫌なのかもしれないし、店で売った商品の包材を店が処分するというのは一理あるがレジを止めて店員に手伝わせることではない。後ろにはほかの客が列をなして待っているのだ。
会計を済ませたらレジから一度引いて隅でやって「申し訳ないがごみの処分をお願いしたい」と頼むのが最低限のラインだろう。これだって図々しい。
無論、コンビニ側も趣味で過剰包装しているわけではない。もし帰りに万一のことがあってはいかんと包装しているわけで、店頭で包装を解いた時点で持ち帰りの際に卵が割れただの汁がこぼれただの苦情を言う権利は一切ないのは当然だ。

この不作法によってこのおばはんが得たのは何枚かのプラスティックの袋とわずか一握りのごみを片付けなくて済むことだけだ。到底他人に「図々しいおばはん」「他人の迷惑を考えない無神経」と思われる代償に得られるものとして見合うものではあるまい。
もはや他人に迷惑をかけているという自覚自体がないのだろうか。
日本の状況から見て、このおばはんを冷静に説教してやる人はそうそういまい。見て見ぬふりだ。私もカチンときたがこのおばはんを説教することはしなかった。注意してやる社会のほうがいいのかもしれぬ。さりとて無用な騒動を引き受ける覚悟もなく。
ほんのわずかの利益のために人間としての尊厳を失っている自覚もなく他人から注意されることもなく、このおばはんは老いて死んでいくのであろう。

私も世直しが商売ではないのでここで積極的にどうのこうのできるわけではない。
ただ、個人それぞれが他人に迷惑をかけない、見苦しい真似はしないと呼びかけることができるだけだ。
誰かを待たせていらいらさせていないか。迷惑をかけたのに気付かないということはないか。迷惑をかけて謝らないということをしていないか。常にわが身を振り返っているうちに他人に喜ばれることもできるようになるものだ。
ベビーカーを押しているお母さんのためにエレベータのドアを押えて待ってあげたとかそんなことでいいのである。自分がなしているマイナスをなくし、ちょっとでいいからプラスになりたい。
みんなそう考えるようにしないか。
posted by Mozzo at 16:12| Comment(0) | TrackBack(0) | まじめな正論! | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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