2015年05月23日

尊敬される 愛される そんな未来に

ごくたまになのであるが、立ち食いのうどん・そば屋に立ち寄る。
本来立ったままの食事というのは行儀のいいことではないし、もしこれが一日を締めくくる夕食であるならせわしなくて寂しい。
そもそもうどん・そばとして最上のものでもない。立ち食いといえど努力してゆでたてのおいしい麺を出す店も増えてきているというが、まず早いということが優先で麺はゆでおきか冷凍である。
しかし、たまに食べたくなるのである。あの攻撃的な汁の香りが漂ってくるといいのである。また「私、さみしい食事をしている」と思うと妙な快感が(変態か?)。

ま、それで先日立ち寄った店が面白かったのである。
駅のホームの片隅にあって、店頭で券を買い、狭い店内で食べるというものである。

店内は思いのほか混んでいた。しかし混んでいる駅じゃないし、客が次々に出入りしている様子もない。しかも、ほとんどの人が待っている人で食事をしている人がほとんどいない。
滞在時間が長いから混んでいるだけである。
普通ならこんな店からは退散するのだが、なにせもう食券は買ってしまっている。時間がかかるなら返金してなどといえばこのおばあさんはさらに混乱してしまうだろう。みんなじっと待っている。

なぜ待たされるのかといえば店員の手際が異常に悪いのである。
女性をおばあさんと呼ぶのは現代日本において失礼とされると考えていいが(私はどんなに年配の女性に対しても御姐さんと呼びかけるようにしている)、おばあさんと呼んでおかしくない年齢に見える。
これで超ベテランということなら手際もいいのだろうがおそらくパート・アルバイトであろう。手際が悪いにもほどがある。一つの所作をするたびに「次はなんだっけな」と考えているのが明らかだ。
ナントカぶっかけうどん・そばというのがあったとして、やっとのことで台になるうどん・そばが器に盛られて汁がかけられたというのに、乗せる具が準備できていなくてこれからゆでるとか話にならん。待たされるし麺は伸びるし。
券にはうどん・そばと併記されていてどちらにするかは口頭で申告するシステムなのだがこれを忘れてしまう。うどんをさんざ待っていたのに出てきたのはそば。「えっうどんですが。。。あぁそばでいいです」と食べる客。
単品で追加したトッピング(ワカメとか)はもはや忘れるのが基本。私のワカメも当然のごとく忘れ去られていた。

こうした段取りの悪さのほかに、手が震えるから手際が悪いというのもある。手が震えてトングでネギをつかんで乗せるにもずいぶん時間がかかる。
本来であれば年齢を考えても健康状態を考えてもとっくに引退して悠悠自適の生活をするとか、仕事をするにしても体に無理なく経験を生かせるような職種を選べるようでありたいが、体を使う立ち仕事をせざるをえない境遇であるのだろう。

気の毒ではあるのだが、ここまで来るともはや「志村けん演ずるおばあさんのコント」である。
「天ぷらそばひとつ」(いかりや長介で)
「ワカメうどんひとつね」(志村けんのおばあちゃん)
「天ぷらそばって言ったでしょ」
「なにを怒ってるだかね。怖い人だね。ワカメうどんね」
「天ぷらそば!」
「はいはい。。。はいお待ちどう、ワカメうどん」
「天ぷらそばって。。。もうワカメうどんでいい」
「なにを怒ってるだかね」
「ズルズル。。。」
「。。。おっ、あんた誰だね。お客さんかい。いらっしゃいませ」
「もう食べてます」
「なにを怒ってるだかね」

ま、せめて雇っているお店の側も、待っている客の側も温かい目で見守って、なんとかこの志村けんが(ちがうけど)働き続けられるようにしてもらえたらと思う。

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しかし、ある意味反面教師として自分自身の問題として考えねばならないとおもった。自分が老いたときのためである。

年をとれば能力が下がるのは避けられない。無論個人差はあるが。
目も耳も悪くなり、手先は鈍り足腰は弱る。さらに短期記憶が衰える。昔のことはよく覚えているのだが、ほんの数秒前数分前のことが思い出せない。とっさの判断力も衰える。右によけるか左にするか、とっさに判断することができなくなる。
病的なものが原因のこともあるのだが、多くは年齢に伴い避けられないことなのである。年をとるということはそういうことだ。
だが、それは若いころからわかっていたことだし、それを補うための経験があるはずだし、対策を練る長い時間もあった。

自らの状態を認識し、対策をすれば改善するのである。
冒頭に取り上げたおばあさんを例にするなら、まず短期記憶が衰えていることを認識せねばならない。
この店は受け取った食券を小さな板にセットして順番や内容を管理している。つまり注文の「キュー」があるのである。キューというのは待ち行列を管理するような考え方である。
このおばあさんを観察していると(観察する時間は大変に多くあった)、製作する順番が到来した券を確認するとそれを製作済みのかごに入れてしまう。ひとつずつ作るわけだし、たかだか「天ぷらそばにちくわ天トッピング」ということをたいていの人は覚えていられる。だが短期記憶が衰えていればそうはいかない。
まず、その注文がそばかうどんかを忘れてしまう。辛うじて覚えていて台となるそばなりうどんなりを作り始めても「天ぷら」「ちくわ天」が飛んでしまう。
当たり前のことなのだ。
それで自ら混乱したり、客に文句を言われたりしたことはあっただろう。
「自分は短期記憶が衰えている」という認識をせねばならない。認識して「だから仕事はできない」と後ろ向きになってもいけないし「だからしょうがないでしょ」と開き直ってもいけない。改善はできるはずなのだ。

引き続きこのうどんそばを例に考えれば、まずうどんかそばかを忘れない方法が必要だ。方法はいくつかある。一番簡単なのは券に都度「そば」「うどん」と書いておくことだ。「そ」「う」だけでいい。
だが、忙しい上に食品を扱っているのにいちいち筆記具をもつのは憚られる。憚られると判断する「とっさではない」判断力は失われないはずだ。
ならば、「うどんなら列の右側に置く」とか「うどんなら券の右側を折る」という方法もあろう。
とにかく、聞いたとたんに抜けるということを意識すればいいのである。
「ではその対策自体を覚えておけないのではないか」という考え方もあろうが、それは屁理屈である。その場の記憶力は衰えても、繰り返し繰り返し脳内で再生すればそれは恒久的な記憶になるのである。脳の仕組みとしてその辺は「海馬」(脳内にそういう部分がある)をキーワードに調べていただきたい。

次に注文内容を忘れてしまうことについてこれは簡単で、注文待ち食券の置き場と製作済み食券の置き場しかないのが問題なのだ。製作中食券の置き場を作ればいいのである。

段取りが悪いということについてはむつかしい。
家庭での料理もそうだが、段取りが悪い人は何年たっても悪い。料理がおおかた完成してから最後に振りかける海苔を探しているとか。これは年をとっているかいないかはあまり関係ないと思う。
並行して作業できることを考慮して作業の順番を考えることができないのである。
私はこれを「脳内シミュレーション能力」の欠如だと思う。これからやることを脳の中で駒を動かすかのごとくやるのである。シミュレーションしてみればコンロが二口しかないキッチンでシチューを煮込みながらパスタをゆでて肉を焼くことはできないなということがわかるのである。シチューは長めに煮込んでおいていったんコンロから下ろし、パスタをゆでる。パスタをゆでる湯は水からでは時間がかかるから電気ポットを満水にしておく。パスタがゆであがったらシチューをコンロに戻し、若干冷めたところを温めなおす。などなど。
これは訓練によってしか身につかない。
そして料理だけではない。仕事も家庭もすべての場面で必要とされる能力なのである。

無論いくつかの工夫によって改善することはできる。
当面の作業のゴールはなにかを決めること。たとえば夕食が整って家族で食べ始めることなど。それに必要なものはあらかじめ一通りそろえて目の前に置くことなど。

それでも「若いころから訓練しておけ」ということが一番だ。

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無論、失敗している老人を嘲笑いたいわけではない。今回もまあ微笑ましいというかそんな話だ。
ただ、自ら長い時間をかけて経験を積み考えることができたはずなのに、それができていないということは尊敬に値するものではない。さらに一部の老人に見られる傲慢さ、無神経さについては批判する。軽蔑もする。

尊敬される愛される老人目指して努力したいものである。
posted by Mozzo at 21:01| Comment(0) | TrackBack(0) | まじめな正論! | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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