2015年05月31日

文化の保護者としての自覚はあるのか

注意すればいいのかという報道。ちょっと長いが引用する。

引用ここから====
文化財の門、釘足りないまま「完工」…引き渡し
2015年05月31日 10時35分

 昨年、解体修理が終了した茨城県指定文化財「石岡の陣屋門」(石岡市総社)で、請負業者が施工不備のまま完工したことにして、石岡市教委に引き渡していたことが30日、分かった。

 同市は昨年11月の検査で見逃していたが、今月に入り、市民からの指摘で発覚した。市教委は業者に対し、早急に適切な対処を行うよう指示した。

 陣屋は江戸時代の役所。「石岡の陣屋門」は、陣屋にいくつかあった門のうちの表門で、1828年(文政11年)に建築されたものとされる。

 廃藩置県により陣屋が機能を失っても取り壊されることなく、市民らに親しまれてきた。屋根にシャチホコが載っているのが特徴の一つ。現在のシャチホコは推定で4代目。推定2代目と推定3代目も現存し、保管されている。

 交通事情などから1969年に近くに移築された。老朽化から市教委は解体修理を決め、2013年6月に着工した。

 着工を機に、市民から元の場所に戻すよう要望が多数寄せられた。市教委は交通事情を勘案の上、元の場所の数メートル南に昨年、再移築した。修理と移築の総工費は約5500万円だった。

 市教委によると、施工不備は、必要な箇所に「和釘」と呼ばれる江戸時代当時のものを再現した鉄製のくぎと、「しのび釘」と呼ばれる目立たないくぎが使われていなかったというもの。

 和釘は、袖塀外側の板を固定する部材の取り付けに10本必要だが、使われていなかったため部材がしっかり固定されていなかった。

 しのび釘は、切り妻屋根の両端の上部に「懸魚」と呼ばれる江戸時代に作られた木製の飾りを固定するために使用する必要があるが、使われずに鉄製のかすがいで仮留めされていた。

 市教委の追及に対し業者は、「和釘は他の箇所で使い切ってしまい足りなくなった。しのび釘は工事当時、手に入らなかった」と釈明。

 業者は、懸魚の固定を23日、しのび釘約20本を使って実施。和釘が必要な部分の対処は、和釘が手に入り次第行うとしている。

 市教委文化振興課は、「指摘を受けるまで施工不備に気付かなかったことは大変申し訳ない」と話している。
2015年05月31日 10時35分 Copyright コピーライトマーク The Yomiuri Shimbun
引用ここまで====

一義的にはチェックの甘い市教委文化振興課と材料が手に入らないことを理由にごまかした業者が悪いということになろう。だが、それで「みんなもっとちゃんとして」で済む話かと思う。

神社仏閣をはじめ古い建築の特徴と言えば鉄釘を使わないことである。木を巧みにかみ合わせるのを基本とし、釘を要する場所は木製や竹製の釘で止める。木製や竹製の釘は鉄製に比べ強度には劣るかもしれぬが見た目が美しく、さびない。釘を打った後からさび水が流れ出し、赤黒く変色しているのは美しくない。

その後時代が下ると記事にあるような鉄製の和釘も使われるようにはなった。これがまた手のかかるもので鍛冶屋が一本一本仕上げるものである。量産できるものでもされるものでもない。
忍び釘というのは一般的には釘の種類ではなく打ち方を指す用語であると思う。材を固定するとき、打つ場所を加工したうえで斜めに打ち込み頭が見えないようにする方法である。それむきの釘があるのだろう。これは私は知らないのだが、頭が見えにくい釘でかつ伝統的なものであればこれも量産できるものではないのだろう。

こうした仕事を請け負う業者であるから、普通の現代住宅を扱う業者とは違うだろう。記事からも無知で和釘や隠し釘を使わなかったわけではないとわかる。
これでは未完成だとわかっていて完成したと言ってしまったのは一義的に業者が悪い。だがこれはもっと根本的な問題があるのではないか。

竣工予定日というものがあり、それを守ることが前提で、下手をすればその納期を破ればペナルティがあったのかもしれぬ。それに迫られてのことではなかろうか。
普通の物品、たとえば役所なら文房具とか普通の庁舎の建物とか、そうしたものなら当然のことである。
だが、ものは伝統建築である。現代のそうした仕組みを押し通すばかりでいいのか。たとえるなら、芸術家に「名作と言われるものをいついつまでに作成してくれ」と発注するようなものである。時間がかかることだってある。

さらにすでに伝統の領域になってしまい、実用品としては廃れてしまった和釘が要件であるなら、それがボトルネックになって遅れることは当然発注する側がわからねばなるまい。たとえ事情を知っていても「できるって言って契約しましたよね」と冷笑する役人に姿が目に浮かぶ。

落語の「青菜」を思い出す。
主人公はご隠居の庭の手入れをする植木屋だ。じっと縁側に腰掛け腕組みをしている。そこへご隠居登場「ご精が出ますな」と声をかける。
凡人なら手も動かさず座っているのを見て「働けよ」と思ってしまうところだが、ご隠居はこの植木屋が芸術家としてこの庭をどう組み立てていこうか考えているということをよく理解していて「ご精が出ますな」と言ったのである。芸術家が仕事をしていることを理解する側がいてこそ成り立つのである。

文化振興課を名乗るのであれば、なにか思い違いをしていないのか点検する必要があるのではなかろうか。業者がごまかしをせねばならない文化振興課ってなんだ。

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もちろん、文化振興課がこれを見抜けなかったというのは大問題だ。
気を付けて点検しろとかいう精神論ですむ話ではない。

材料が手に入らなかったことには業者に大いに同情するし、それを考慮しない文化振興課の姿勢も批判するが、一義的にはこれはごまかしでありほめられたことではない。
見破る能力がなかったのだろうか。一般のおそらくそうした伝統文化に興味がある人にはわかるというのに。その能力がなくて文化振興課と名乗るのもおこがましい。
発注する以上それをチェックできる能力があるのが当然だ。どうやって見積額が政党であるのか評価する能力があるのか。
無論扱う領域は広いわけで時に建築、時に工芸品、時に絵画というわけでそれぞれの専門家をそろえるわけにもいくまい。だが付け焼刃程度でも勉強していなかったのかと言いたい。

付け焼刃程度の知識では対応できないこともあろう。だが、そうしたときに役立つのは体系的な対処だ。何をもって完了と判断するのかチェックリストはあったのか。それは誰が見ても判断できる明確かつ詳細なものであったのか。
「何となくできているからOK」であったように見える。
「XXXの部材は和釘をXX本使って固定されていること」というチェック項目と詳細な設計書があればだれでもチェックできる。
外部の人が気づいてくれたからよかったようなものの、これは税金の無駄遣いだけではなく、伝統建築を後世に伝えるという重大な責務が果たされないということになる。何十年か後に「安直にかすがいで止めてあるんだなぁ」と納得されたらどうする。

決してすべての芸術や文化が経済的に自立して成り立つわけではない。
だからそれらすべてが公の補助があっていいとも言わない。端的に言えば滅びてしまってもいいもの、海外にあるから日本で守る必要はないものもある。
だが守るべきものについては「文化の保護者」としての気概を持ってもらわねばいかん。たるんでいるのではないか。
posted by Mozzo at 14:21| Comment(0) | TrackBack(0) | まじめな正論! | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

大阪豊中 またも異常者による凄惨な事件が

またも悲惨な事件が起きてしまった。大阪豊中で女性が殺された事件である。1歳の長男の目前で殺されたという残忍な事件だ。しかも女性は妊娠中であったという。実質二人の命を奪った。残された男児にけがはなかったそうだが、たとえ幼児とはいえ精神的にはぬぐえない傷を残したことだろう。
犯人は同じマンションに住む上原亮宏容疑者(53)と報道されている。

報道によれば犯人は日頃周囲の人が起こす生活音に怒り怒鳴り込んだり、隣人が監視しているという妄想を膨らませたりしていたそうだ。同じエレベーターに乗り込んできた被害者親子を「監視している」と思い込んだようだ。

当たり前のことを言ってしまえばこの男は異常だ。
若いころは自意識過剰な人もいて、みんなが自分を見ているという妄想に陥ることもある。だがつまらない中年男性をいちいち監視するほど世の中暇じゃないということに気付かない年じゃあるまい。
また生活音もするものだ。神経質で隣人の音に耐えられないほど弱いならなぜマンションに住むのか。緩衝帯を充分に設けた一戸建てに住むかその金がなければテントを買って山奥でキャンプでもすればいいのだ。まぁ人の土地に定住するのは違法だが。
この妄想を育ててしまったということは異常者なのである。
異常が故に今後の裁判では弁護士は精神異常により責任能力がない、無罪だという主張をするだろう。こうしたことは以前からこのブログで批判しているがそれでいいのか。
あの淡路島の事件といい、異常者が社会にいるのに放置して、それで凄惨な事件を起こしても無罪なんてことが道理として通るのが許せない。

こんな事件がいくつも起きているというのに予防策は取れないのか。人が死なないと危険な奴を警察の管理下におけないのか。しかも弁護士は無罪だと主張するというのか。
いつもの主張であるが、この件については後手に回ったが異常者があぶりだされたわけで、社会から排除されるべきだとおもう。死刑にするか終身刑にするか。とにかく二度と社会に出てきてほしくない。怖い。
さらに事件を起こしかねない異常者をどうするのか、実効性のある手段を考えてもらいたいものだ。周囲に執拗かつ不合理なクレームを入れるやつなんて放っておいていいとは思えない。
「人権派」はそれを人権侵害と言うのだろうな。たとえ人が殺されようとも。

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それにしてもこの犯人の神経の細さがどうかと思う。
些細な音で神経がきりきりし、周りの他人が自分を監視していると思い込む。この神経で53年生きてこれたというほうがむしろ驚きかもしれぬ。
生活音に耐えられないというのはむしろ中高年に多いのではなかろうか。少なくとも報道される範囲では騒音に耐えられないと事件を起こすのは間違いなく中高年だ。耳の感度は衰えているのに、精神の耐久性が劣ってきているのだ。
近所の幼稚園の子供の歓声に怒り、斧をもって怒鳴り込んだ老人もいた。幼稚園は必要なものだし、夜中まで営業しているわけでもない。子供の歓声を微笑ましいと思えないその感覚はどこから生まれるのか。

人間が集まって暮らせばそれなりに音がする。その他いろいろ迷惑をかけたりかけられたりだ。人間が集まっているからこそ、高層マンションが生まれ、そのエレベーターは混雑し、その先の駅も混むのだ。
だが、人間が集まるからこその利便性や経済的利点があるから集まっているのだ。職があるからと都会に人が出てくるのもそのためだ。好きで都会に住んでそれで他人に耐えられないというのは不合理だ。

集合住宅の騒音問題というのは普遍的な問題でもある。子供の騒ぐ音がトラブルのもとにもなる。ネット上でも相談系の掲示板では定番の話題である。
そういったとき、子供ぐるみで交流があれば違うというアドバイスもこれまた定番だ。どこの誰ともわからぬ子供が騒ぎどしんどしんと床を踏めば腹も立つが、ナントカさんちのナントカちゃんがと思えばそうは腹も立たぬというものだ。元気に遊んでいるなと思うものだと。

それを考えるとこの犯人は地域社会と壁を作ってしまったのだろう。その壁の中で妄想と怨念を育てて育てて。それが愚かで劣った行為だということを知らせる方法があれば何かが違うはずだ。

つまり、病気にたとえれば治療法があるのではないかということだ。

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病気にたとえればと書いたが、そもそもこの犯人は病気である。精神の病である。
予防と発見と治療が必要なのではないか。
これを別の病気にたとえれば、生活は乱れ健康診断にも行かず症状が出始めても病院にも行かず生活も改めず。死んでしまってから「ああ死んでしまったね」と言っているようなものだ。個人で完結しているぶんだけこのほうがましだ。この犯人は自分が死ぬ代わりに他人を殺したのだ。
道理を無視しても個人に完結するなら無理に健診や治療を強制することはできまいが、病気でも伝染病など社会に迷惑をかけるものなら強制力をもって対処できる。
この犯人を強制力をもって治療する方法はないものだろうか。

無論内面の問題だから難しいのはわかる。だが、過去の事件と照らし合わせてみればこの手の事件は必ず地域の人や交際関係のある人とトラブルを起こしている。刃傷沙汰にならない小競り合い程度がエスカレートして破滅的な凶状に至る。
これを総合的にプロファイリングして危険な、注目すべき行動パターンを明確にし、発見次第公が介入する仕組みはできないものだろうか。決してそれは監視社会でもない。
なにもいきなり逮捕拘留せよというのではない。状況によってカウンセリングを受けさせるとか、被害者・証人保護プログラム(転居させ戸籍を作り直すところまで徹底的に別人になる)を適用するとかやりようはある。

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思うにこうした異常者を生み出しやすい社会になっていると思う。年を追うごとにだ。
個人尊重はいいことだが、それが故に個人の妄想も秘匿できるようになった。周囲と隔絶して妄想を育てる土壌が増えたように思う。
ネットだ監視カメラだというツールが一般化し、それは基本的に便利でよいものなのだが、その存在感に人間の精神がついていけないこともある。監視カメラが自分を見ているという妄想が生まれたら個人の力で消すことはできないのではなかろうか。

だから昔に戻せと単純な人はいうだろう。しかし現実としてそれは無理であるのだし、新しく生まれた技術や制度によって大きな恩恵も受けているのである。

世の中が変わったのだから、それに伴い生じる問題にも新たに対応せねばならないのは当然である。昔は「コンビニATMでのぞき見防止対策」とかなかったわけである。

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どうも公は腰が引けていると思う。
人が死ぬということに関しては、海外の伝染病が入ってこないようにする対策と同じく力を入れねばならないのではないか。高熱で痛い目には合うが死ぬことはめったにないデング熱対策にあれだけ力をいれるなら、人を殺すことも多々ある異常者対策に金を使わない道理はない。

人間の内面の問題、人権との兼ね合いでむつかしいのはわかる。だがそこに力を入れるという姿勢を持たねば安心な社会も生まれないし、そうした問題へ対処するプロフェッショナルも育たない。人材を育て法整備をしてと考えれば10年以上の時間がかかる。
どういう体制をとるのがベストなのかは私も専門家ではないから具体的なことはわからない。おそらく強制力を持つ警察かそれに似た組織とカウンセリングをおこなう専門家、さらに被害者(及びその可能性のある人)を守る行政関係の人が必要なんだろう。
まずはそれが必要だという方向性を政治家が認識すべきだと思う。
posted by Mozzo at 13:30| Comment(0) | TrackBack(0) | まじめな正論! | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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