2015年06月28日

台湾と国交正常化を!

台湾のイベント会場で火災というか爆発事故があったという。
プールでのイベントとかで色をつけた粉をかけあうものだったという。
日常他人に粉を吹き付けるなんてできないわけで非日常の行為は盛り上がることだろう。日本でも祭りで泥やら墨やら塗り付ける行事がありますな。あの手の祭の延長なんだろう。プールだから後始末も楽だ。

おそらくイベント開催側の知識に不足があったのだろう。これはたぶん粉塵爆発だ。
通常では燃えない物体であっても細かく粉末にすると空気に触れる面積が増え爆発するのである。石炭の粉(炭鉱事故の原因)、木材の粉、穀物の粉あたりは想像もつくかもしれない。だが金属の粉でも爆発するのである。通常の形態でわずかに空気と反応するもの、高熱で熱してやっと反応するものであっても細かい粉末にすれば爆発するのである。
まさに爆発であって場合によっては建物が崩壊するほどの威力がある。

かつて炭鉱やら工場で事故があったため、そうした生産現場では安全対策は進んでいる。たとえば木工所などでは細かい木屑が出る。のこぎりで切った程度ならまだしも紙やすりを掛けたら細かい粉塵が出る。そうしたものが空中に漂っていれば一定の濃度で粉じん爆発を招くしそもそも労働者の健康に悪い。そこで削りくずを空気の力で送ってフィルターで集める施設が作られる。細かい粉が山ほど集まるのである。

工業方面の人には常識でもイベント業界では知識が弱かったのだろう。日本のそうした業界の人も他山の石として安全対策怠りなく願いたいものだ。

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だが、この事故に着目したのは事故そのものではない。
海外で多人数が被害をうける大事故が起きれば日本人の被害者がいるかどうかが気になる。報道もされる。日本人だけかよという見方もできようが、報道として日本にいる関係者に日本人が巻き込まれているかどうかを知らせるのは決して間違っていない。

通常そうした場合は現地の大使館が情報を集約する。
ところがこれだけ経済交流があっても台湾とは国交がない。故に台湾に大使館がない。「交流協会」という民間団体が大使館の代わりを務めるのである。

かつて台湾に旅行をしたことがある。この話は書いた気がする(調べろ→自分)。
海外旅行でガイド付きというのは後にも先にもこれ一回でお気楽観光だったのだが、ガイドの張さんは明るく言った。「パスポートは命の次に大事です」と。
お金もクレジットカードもすべて奪われてもパスポートだけはというわけだ。
パスポートをなくすと出国が大変にむつかしくなる。国交がある国であれば日本大使館と連携して何らかの形で出国手続きができる。だが国交のない台湾ではむつかしいというのだ。
もちろん台湾は世界の平均からすれば安全な国だ。地区により違うのかもしれぬが台北は整備が進んだということで繁華街でも夜間に外出して何の不安もなかった。パスポートを奪うような強盗が現れるような感じはない。みんないい人だった。にこやかで親切で食べ物がおいしくて。日本基準で言うとちょっとタクシーの運転がレーサーのようで怖かったが(でもぼらないのだ)。

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これだけ経済交流があるのだ。なぜ台湾に大使館がないのだ。おかしいではないか。

まず台北に大使館を作れと思う。
国交がなければ大使館が作れないのか。大使館という名前でなくていい、政府高官を作れないものか。日本人の利便と安全を果たすために必要なのではあるまいか。民間団体に頼る状況はあまりに心もとない。

台湾との国交を失ったのはあの田中角栄が中国との国交正常化をしたからだ。
同時期国際的に中国大陸の正当な統治者として共産中国を認めさせることに成功したわけである。歴史を見れば戦勝国として国連(連合国)の常任理事国には中華民国つまり台湾が収まるべきなのに共産中国がおさまっった。そして中華民国は国連から脱退した、というよりは追い出されたと言っていいと思う。

中華民国と共産中国が対立しているのは彼らの問題であって、国際的にはどちらとも付き合うべきだと思う。中華民国を国として発言すると共産中国は怒り狂う。この文章も誰も読まない個人のブログだからスルーされているだけで、私がそれなりの要人なら共産中国は怒り狂うだろう。
そんなことは知ったことか。隣人と仲良く付き合い、なにか事故があった時政府と連携する。当たり前のことだ。
台湾に大使館を作り法人にサービスを提供する。当たり前のことだ。

なにもそれは共産中国との断交を意味するものではない。なぜどちらの国も互いに相手の国を認めた国と断交するのか。どちらとも仲良くしますという国をみとめられないのか。経済ではどちらの国とも仲良くしているというのに。

来るものは拒まず、去る者は追わず。去る者の狭量さは責める。それでいいのではないか。

台湾と国交を。台北に大使館を。切に願うのである。
共産中国との断交は望んでいない。
posted by Mozzo at 22:00| Comment(0) | TrackBack(0) | まじめな正論! | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

うまい端っこ

あまり偉そうに言うことではないが食べ物の端っこに注目してしまう。
まぁそれを言う人は多い。

羊羹の端っこはちょっと砂糖が感じられてうまいとか、カステラの切り落としがうまいとか言うではないか。カップアイスの蓋を舐めたいというのも端っこではないかもしれないが同じグループだ(グループか?)。
ある程度長さのある食品には端っこがある。長手はこっちと思えるなら端っこはあるのだ。ここのファンは多いと思うのだ。

巻き寿司の端っこもうまい。寿司飯がきゅっと詰まって具と融合している中側が巻き寿司の本来のうまさなんだろうが、端っこは寿司飯が少し緩く具がなかったりはみ出したりしている。ことにサラダ巻きなんてのはレタスやらカニカマがはみ出して、そう「花のようにはみ出して」ことさらうまい。
寿司屋では巻物を一本頼むとこの部分をことさらに上に向けて「どうだ」と岩版ばかりの盛り付けにしてくれるところもある。これがいい。
逆に端っこが出てこないと「捨てているのか」とか「超長い海苔巻から切り出しているのか」と思うくらいだ。

豚カツも端っこがうまい。
最近は脂身が胃に堪えるので食べるとしてもヒレカツ、というか揚げ物は敬遠しがちなのであるが、豚カツ本来のうまさという意味では赤身と脂身が調和したロースかつだろう。
適度に脂身が縁取る豚カツで一番うまいのは中央部分と言われている。脂身と赤身のバランスが取れ筋も少なくジューシーで。なるほど王道のうまさである。
だが、端っこもうまいのである。場合によって(肉の形や切り方)脂身だけだったり筋だけだったりする。だがカリッとした衣がついて香ばしく、この部分がなんともうまい。ここだけまとめて出されると怒るかもしれないが、いいアクセントなのである。

前に書いたけれど食パンも端っこがうまい。つまり耳だ。
内側はふわふわであるけれど香りと食べ応えに欠ける。耳は香ばしく噛み心地がある。食パンを1本(3斤)焼いて得られる両側の全面耳は私にとってまさにとっておきの「いいところ」。マグロのトロだ(個人的には脂っこいから嫌いで赤身が好き。生産状況から考えてもはやマグロを食べていいとは思わないので食べないが、いいところという意味でマグロのトロって言うよね、ということ)。
両側の全面耳でサンドイッチを作りたい。と思っていたらニフティのデイリーポータルZ(毎日見てる)で馬場さんがやっておられた。スライスしないパンを一本買えば両端だけでなく、側面も同じく全面耳になるのだなと感心したがなんかうらやましくて悔しいのでリンクは載せない。見たい人は検索するように。
脱線するが馬場さんは食べ物の生地が多く実食する場面を写真に撮って掲載しているがいつも表情と背景が同じだ。(「美味しい」+「そうでもない」+「まずい」)×(「飲み物」+「食べ物」)で6枚写真を撮っておければこの先ずっと使いまわせるのにと思った。ごめんね。でもそこが面白いのである。

素麺を作る時に出る素麺節というのもある。
素麺を作る時には伸ばした生地を二本の棒に8の字に掛け、さらに伸ばして干すのである。すると棒にかかった部分が曲がり太くなる。本体の麺を切りそろえるとかんざしというかU型というか、そういうきれっぱしが残る。これも形以外は素麺の生地と同じで美味しく食べられる。素麺節とかかんざしと呼んでまとめて売られていることがある。汁物に入れると美味しい。
太さが均一の素麺に比べると細いところ太いところが入り混じりこの食感の差がいいのである。しこしことにょろにょろの共演である。

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私は工場で製品が作られるドキュメンタリー映像を見るのが好きである。
自動機械が次々に製品を作っていくのが楽しい。
自動車や電気製品の工場も見ていて楽しいのだが、これが食べ物となるとより楽しい。自分でも作れるものを機械がより早く正確に大量に作るというところに親しみを感じるのである。

そして工場での生産は端っこがいろいろとあるのである。
なんなら製品本体より端っこが気になる。

たとえばパックの餅である。
パックの餅の製造方法についてはかつて書いた。
http://mozzo-expresso.seesaa.net/article/411778667.html
搗きたての餅を冷間圧延して平たい餠にしてカットするわけだが、その時切れ端がでる。細い餠。具たくさんの味噌汁の煮え端に入れたら雑煮とはまた違ううまさではなかろうか。うまそうだ。
果たしてその切れ端はどこに行くのか。ドキュメンタリー番組はそこをスルーしてなんにも説明しない。気になって仕方ない。

パスタの工場なんてのも似た部分がある。
スパゲティの製造では生地をダイス(固い金属に穴をあけた工具で、材料を絞り出したり、針金を細くしたりというもの)から線状に押し出す。それを一定の長さ(スパゲティ4本分+α)に切り、物干しざおのような棒に掛けて干す。
ドキュメンタリーを見ていたら二段階で端っこが発生することが分かった。

まず第一段階はこの棒に生地を掛けた直後である。どうしてもばらつきがあるもので、あまり長く垂れ下がってしまうとその後の工程に問題がある。一定の長さに切りそろえる。バリカンのお化けのような機械がばしばしと切りそろえていく。
この切り捨てられた生地はどこに行くのかと思ったら、ドキュメンタリーでは元のラインに戻されまた生地として再利用されるという。こういうのを聞くとホッとする。

次の端っこ発生は乾燥後である。パスタ4本分+αの長さが棒に垂れ下っているわけだ。棒に掛けた部分は先の素麺節のようにU字型に残る。長く伸びたU字型から4本のスパゲティを切り出してみれば、U字型部分と先端のまっすぐな部分が残る。8の字に棒に掛ける素麺とは違い、下側はまっすぐな切れ端になるためだ。
はてさて、乾いてしまえば生地にも戻せず、どのように利用されているのだろうか。気になる。私が見ていたドキュメンタリーではそこはスルーしていた。そこが見たいのに。完成したスパゲティを袋に詰めるところなんてどうでもいいのよ。
「スパゲティ節」として袋詰めにして売られていたらうれしいのに。なにかグラタン風にするとうまいような気がする。とはいえ一定太さにしてから棒に掛けるから素麺節のように太さの差が出ない。一定太さで短いパスタがほしければ普通に売られているスパゲティを折ればいいわけで。
工場の社員食堂で献立に使われているとか有効利用されていたらうれしい。
このご時世、単純にごみということはあるまいが、人間が食べるものの端っこ、資料というのも悲しい。また家畜視点でも人間が食べるものを安直に家畜の飼料にすることは望ましくない。栄養バランスってものがあるので。

その他平たい生地からパイを切り出せば残った生地が気になる。刻まれた玉ねぎがベルトコンベアで運ばれていけば、脇にこぼれた玉ねぎが気になる。マグロの解体風景を見ればざっくり切り落とされた頭部が気になる。マグロの頭部は八の字と言われる肉(人間ならクビを支える筋肉か)やら目玉やら、うまい部分があるのだ。捨てられるのか利用されるのか。番組はトロだ赤身だとそちらばかり着目していて頭は忘れ去っているのだが。

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なぜ端っこが気になるのかはわからない。パンの耳やマグロの頭のように純粋にうまいと思うものがある。私は甘いものを食べないので羊羹やカステラの端っこがうまいというのはわからないのだが、それでも端っこにこだわるのは感覚的にわかる。

たぶん出された料理が残せないという気持ちに通底するものがあるのだろう。
外食するとき量を見誤って食べきれないことがある。若干気持ち悪くなりそうでも食べきる。残せばごみ、食べればウンコ。大した差はないという考えもあろうが、これは本能的なこだわりなのだ。
自宅でも目論見が外れて用意した食材や料理を傷ませ捨てざるを得ないこともある。大変悲しい。心の中でごめんなさいと唱えて捨てる。
ま、わるいこっちゃない。これからも端っこにこだわるのだろう。本末転倒に真ん中が腐って捨てる羽目にならない程度にこだわりたい。
posted by Mozzo at 21:23| Comment(0) | TrackBack(0) | うまいものの話 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

JR北海道 廃線議論に見る地方

全国にここだけの問題ではないだろうが悩ましい報道。
道新さん(北海道新聞)の公開記事部分から引用する。

引用ここから====
JR北海道・留萌線、沿線住民「廃止困る」 高齢者に痛手大きく
06/28 07:00

 【留萌、深川】JR北海道が赤字続きの留萌線(深川―増毛間、66・8キロ)の廃止を検討していることが表面化した27日、沿線自治体では反発が上がる一方、乗客が少ない現状を踏まえ「存続は難しい」と冷静に受け止める声も漏れた。学生や高齢者らの足として長年親しまれ、観光資源でもありながら、客不足に悩む留萌線の行く末をめぐる地域の思いは複雑だ。

 留萌線は道内で乗客が3番目に少なく、この日の朝もJR留萌駅を利用する人は数えるほどだった。JRは同線のうち、特に平日は乗客が40人ほどしかない留萌―増毛間(16・7キロ)の廃止を先行させる方針だ。だが、地域にとって、鉄路は90年を超す歴史を持つ財産であるだけに、留萌管内増毛町の堀雅志町長は「(廃止論が)とうとう来てしまった。住民の利用が少なく廃止検討は仕方ない面があるが、観光には痛手だ」と顔をしかめた。

 JRは同日、北海道新聞の取材に対し、「沿線自治体と今後の地域交通のあり方を勉強、検討している」(広報部)として、廃止を検討中であることを認めた。留萌―増毛間にとどまらず、さらに全線廃止となれば、各地で駅が姿を消す。路線バス拡充など代替交通手段の検討が欠かせないが、留萌商工会議所の対馬健一会頭は「観光を考えると鉄道のニーズはまだまだある。何とか存続してほしい」と訴える。
引用ここまで====

昔懐かし、というか今もあるのか。SimCityというゲームがあった。ゲームはやらないので自分がプレイしたわけじゃない。反射神経を要するアクションゲームはダメだし、反射神経はいらぬともなにか時間がかかるもの、壮大なストーリーをたどるものもは苦手である。根気がないのだろうし興味が薄いのだろう。
その中で名前を憶えているだけでも私にしては大したものであるのだ。

当時見たSimCityは未開の原野に道路や鉄道を敷き、工場や住宅や公園を作り、それらを繁栄させるというものだった。
物を作れば持ち金が減る。だが繁栄すれば税収が増える。かといって税率を上げすぎれば衰退する。工場のやりたい放題を放置すれば公害が発生してこれまた衰退する。
こうしたパラメータによって都市の発展をシミュレートするもので、当時の貧弱なPCで(とはいえアポロ13のコンピュータの何万倍だか想像もつかないのだが)あれだけのことをやったのだから興味深かったのだ。

いきなり脱線からスタートなのだが(JR北海道だけに)話をもとに戻すとこれは悩ましい。
SimCity流に言えば鉄道を作らねば街は発展せんのだ。コストはかかってもそれを上回るリターンがあればいいのだ。
だがしかし。
一日数往復程度であろうが、運転士が一人だけということもあるまい。時間が長すぎる。
土地を確保し、保線し、車両を確保し整備し。動かせば電気も燃料も使う。
「平日は乗客が40人ほど」というのは一日で、ということなのだろう? 一編成当たりではなく。
16kmとはいえ1人1万円くらいいただかないとペイしないのではないか。
税収が上がるどころか赤字に赤字を重ねることになる。

ここに至るまでに減便があったことだろう。
地方の鉄道のダイヤがいかに閑散としているか。都会の端くれの端くれの隅っこで暮らす私としても想像を超えるものがある。
1時間に1本でもましだというから恐ろしい。私は15分に1本来なければ公共交通の看板を下ろせと思う。

減便してもコスト対策にはならない。

なぜなら、減便で減る要素が少ないからだ。
1時間に1本の電車を2時間に1本にしたらコストは半減するか? ありえない。
長大路線ならともかく、短距離なら1時間に1本を1編成で賄えるだろう。16kmの路線、各駅に止まりつつ折り返しの手間も入れても片道30分だ(幹線電車は時速90km以上もあるがローカル線は最大時速60km程度として)。1編成で往復で1時間のダイヤを組める。予備を入れても2編成だ。それを2時間に1本にしたところで1編成予備に1編成。変わらない。整備の手間も変わらない。走る距離とは関係なく最低限の整備はせねばならない。
人件費とて、待ち時間が増えるだけであって始発から終電まで運転士一人は無理があるし、車両と運転士でワンセットであれば結局減らない理屈だ。
線路や駅の土地代も変わらない。
せいぜい電気代や燃料代が減るだけだ。

その燃料代というのも大した額じゃない。
ローカル線といえばディーゼル車だろうか。
ディーゼル車両の燃費はよくわからないのだが、割と省エネのバスで1リットル当たり3km程度であるという。何十キロも走るエコカーと比べるとなんだと思うがあの巨体だ。何十人と乗るのだ。
バスより大きく重く、だが平滑で渋滞もない線路を走ることを考えるとはてさて。
省エネエンジンがなくとも1リットル当たり同じく3kmくらいは走るのだろうか。つまり16kmの路線で片道5リットル強。アイドリングやらなんやらで往復20リットルとしてだ。軽油で高々二千円程度だ。
このコストをカットしたがためにどれだけ売り上げを失うか。

つまり減便した時点で実質上廃線なのである。実際の廃線までの時間稼ぎと状況づくりに過ぎない。ここまで閑散としているのだからダメでしょうという雰囲気づくりだ。
次の電車まで30分待ちますとわかった時点で自動車を選ぶだろうに。終電が20時台なら自動車で出かけるだろうに。公共交通機関は合計の人数だけでは評価できないのだ。
いっそのこと大きな車両を動かすのはやめてモーター付きトロッコのようなものを用意して、客があり次第いつでも発車、24時間対応OKにしたほうが客が戻るよ。お年寄りも喜ぶ。駕籠かきよろしく駅で運転士が待っているのである。せいぜい6人程度乗れるトロッコがあって、客が来たら発車。ちょっと遅れてくる間の悪い客もいようが、短い区間なら待ち時間もそれなりだ。オンデマンドでいいのではないか。

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路線を維持して電車をばんばん走らせれば地域は発展するのだと、単純なことを言いたいわけではない。そもそもそれが正しければ日本中が同じことをしているだろう。それが成り立たないのは交通需要のパイは限定されているからである。

冷たいようだが、街を放棄して付近の中核都市に集約するというのも重要な選択肢であろうと思う。広がりきったインフラを縮小することはメンテナンスのコストにもつながる。
広大な郊外に住んでいる人が百人そこそこ。そこに上下水道電気道路の生活インフラを整備し維持することを考えたらどうだろうか。都市部からの支援がなくて生活が成り立つのか。

たとえ閑散とした地域であっても、観光や農業で広域的に利益になっているというならいい。だが、それがないなら集約もあっていい。まぁ火中の栗に手を突っ込む勇気ある政治家はいないだろうがね。ワタシならやるが出馬する金も人脈もないしなぁ。だれか金を出してくれぬか。選挙公約「わが町消滅」。当選せんわな。だが日本全体でこれでいいのか。

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まぁ閑散としていても地域を維持するのか、切りをつけて近在の中核都市に統合されるのか、選択するのは自治体である。それを支える民意である。
民意というのはある意味身勝手気まぐれなもので、自分の生活や感情を優先しがちである(それが間違っているとは言わないが完全でもない)。啓蒙活動も必要だ。
で、結論として赤字鉄道を残して地域の維持に賭けるということになったとしよう。
ではそのコストはだれが負うのか。
国でも県でもあるまい。単に生活の便を言うならその街だけだろう。市レベルで利益がある保証すらない。「あそこに鉄道通すなら市民税下げろよ 水道料金下げろよ」と思う人は多いだろう。農業生産など広域で利益があるとしてもせいぜい市のれべるだ。JRにお金を出して電車を走らせてくれと言うべきだ。施設を買い取って業務委託契約を結ぶのが筋だろう。
それだけのコストがかかるということを突き付けられれば、「観光を考えると鉄道のニーズはまだまだある。何とか存続してほしい」などとコストを他人が持つべきだという甘い発想はなくなるだろう。

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これは都会人の発想だと批判する人もいよう。地方の生活は違うのだ、生活を奪う幾か、故郷を奪う気かと。
まぁ私は都会の端くれの端くれの隅っこではあるが、まぁ隅っこからやっと駅についてみれば電車を30分を待つことはない生活ではある。地方の生活をどうのこうの言う資格はないといえばないかもしれん。無論、発言したものの立ち位置によって論が通る通らないがあってはいかんと思うが、環境によって論がゆがんでいる可能性は否定できない。

だがだからこそ、そのコストをだれが負うのかペイするのかを明確に議論してほしいものだ。単純に補助金がとか薄っぺらな話をしたいわけではない。そこに人が住む意味、価値を明確にするのは決して簡単なことではない。観光や農業というのはまだまだ分かりやすい話だ。

閑散とした土地とはいえ、そこに人が住み自然を適度に利用することで野生動物と人間世界の境界線が健全に保たれるかもしれない。
貴重な伝統工芸を維持できるのかもしれない。有能な工芸士はその土地でしか実力を発揮できないかもしれないし、我々には理解できない希少な材料がその土地でしか手に入らないかもしれない。
重要な水源を健全に守ることになるかもしれない。自然に戻せばいいというものでもない場合がある。健全な森は人の手が必要なのかもしれない(針葉樹林はダメよ)。

だが人が住まねば自然に還りかえっていいのかもしれない。

その評価は金額では測れないから難しいのである。
とはいえ、伸び切った生活インフラを維持するコストを上回る価値を見出すのは難しいだろうが。

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故に地元の政治家経済人には全体として何が利益かという視点で発言してほしいものだ。これは何事にもだ。
時に合理性を追求すれば(これは経済的合理性だけではなく環境保護の視点の合理性も含め)、地域を解体するという選択肢もあるという姿勢で思考し発言してほしい。
地元が地元がという視点を続ければいずれ国内で地域対立を招く。まさにEU対ギリシャのような構図になる。
生まれ育った故郷と言うノスタルジーもわからんわけではないがこのままで全体が破綻していいとはだれも思わないだろう。
posted by Mozzo at 14:25| Comment(0) | TrackBack(0) | まじめな正論! | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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