2015年06月06日

都会の生活にほんのわずかな言葉のやりとりを

ノスタルジーなのか。それとも多くの人が集まっている都会を斜に構えて批判し悦に入っているのか。
「田舎では(昔は)通学途中の子供たちが知らない人にも挨拶してお辞儀していたものだ。都会(現在の町)はみんな知らぬふり。都会(現在の町)は冷たい」
てなことを得意顔で言う人がいる。
こういう意見を聞くと脳内に?マークがいくつも浮かんでしまう。
こういう人は脳内で具体的に描写する能力がないのではなかろうか。

なるほど子供が元気に礼儀正しく挨拶するのは美しいとは言えよう。最近は子供を狙った犯罪も多く、知らない大人に気をつけなさいと言う時代ではあるが。

しかしだ、東京名古屋大阪あたりの大都市はもちろんちょっとした人通りの多い都市でこれをやったらどうなる。見かけた人にお辞儀して挨拶すれば、子供はくるくるばね仕掛けのように回り続けて学校につかないではないか。
人が増えれば人同士のつながりの濃淡がよりくっきりしてしまうのだ。つながりの薄い人(必然的に多い)にエネルギーを割く余力はない。

とはいえ、日々の暮らしが全く他人と挨拶も会話もしないというものであってもいかんのではなかろうか。
たとえば都会のオフィスに通う会社員なら上司同僚部下後輩には挨拶もし空き時間には雑談の一つもするだろう。それ常識。それができないコミュニケーション嫌いもいるのだが。
だが、それ以外は全員他人。故に全く無視というのも極端だ。

たとえば大きなオフィスビルに入っている会社なら、清掃や警備、管理事務所などで働く人がいるだろう。会社も違うしたまに通りかかって顔を見る程度。縁は薄いが全く無縁ではない。
顔を見たら朝夕の挨拶をするのは当然だし、ちょっと話す時間、たとえば一緒にエレベータを待つとか、そういう機械があったら天気の話でもすべきだ。
その他、出入りする宅配業者など名前まで知らないけど顔を知っている程度の人というのは身の回りにいる。そういう人たちと軽くコミュニケーションをとることはいいことだし、やるべきだろう。

もうちょっと縁の薄いが決して全くの他人でないという人もある。
スーパーやコンビニ、外食店などの店員さんは顔なじみになってしまえば当然挨拶の一つもするが、初対面でもサービスをする・受けるという関係が生まれたわけで「全くの他人」ではない。
レジで品物を差し出すとき「こんにちわ」くらいのことを言っても罰はあたらない。自分が和やかな雰囲気を出していれば周囲も同じようになり、結果自分が気持ちよくなるというものだ。
いままでコンビニのレジに無言で商品を差し出していた人、外食で献立名だけしか発しない人は一度もう一言を付け加えてみてはどうだろうか。

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この観点で町の様子を観察するとどうかと思う人がいる。
日本の販売店、ことに大企業が経営するチェイン店では丁寧な応対がされるということで世界的にも有名であるようだ。
中国ではお釣りを投げてよこすそうだし、アメリカではセブンイレブンもマクドナルドも横柄な応対だと伝え聞く。明るく挨拶、ありがとうございますと丁寧にお辞儀をする様子に「自分がVIPになった気分だ」とネットで発言する旅行者もいる。

これに対してぶっきらぼうな客ではつまらないではないか。マニュアルに沿って丁寧な対応をしている店員さんだって内心さみしいではないか。

コンビニで商品をどんと置き無言というのはどうにもさみしい光景だ。
煙草を買う人は「79番」などと番号を言うだけということも多い(煙草を吸わないのでよくわからないが煙草の種類は恐ろしいほど細分化されているらしい。ナントカセブンのナントカメンソールのナントカパッケージとか言っていたらきりがないので番号で指定するらしい。びっくりするほど大きな数字の番号がついているし、コンビニのレジの後ろは大きな棚に占められているのだ)。

もちろん無駄話をして忙しい店員さんの邪魔をしてもいかん。先にあげた知らない人に挨拶する子供の例と同じく、本来やるべきことを阻害するようではいかん。
だが、レジに近づきつつ「おはようございます」といいレジに商品をおいたら「これお願いします」といい、お金を渡してお釣りを受け取る間に「暑くなりそうですね」くらいのことを言っても何の邪魔にもならない。
これだけで雰囲気が明るくなるというものだ。相手も感情のある人間なのだ。敬意をもって接するべきだ。

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店員さんなど知り合いでもないけど全くの他人でもない人に対して、敬意をもって接しコミュニケーションをとることは、単なる礼儀でもないし実効性のないことでもない。
繰り返すが自分が和やかな雰囲気を出せば周りにも伝わり自分が気持ちよくなる。
さらにそこを一歩踏み込んで相手のやる気を引き出したりお店のいいところを伸ばし悪いところを改善させることだってできる。それは回りまわって自分のためだ。

先日外出しての昼食でパスタを食べた。別にパスタの名店ではない。時間もなくファミレスであわただしい食事だ。
混んでいる昼時でランチのパスタだ。ゆで置き作り置きのパスタが出ても仕方なかろうと期待していなかったがこれが予想を裏切るものだった。ファミレスといえど侮れない。
舌をやけどするほど熱くそれは出来立てだということ。そして麺がしっかりしていてそれは麺もゆで置きではないということ。味付けもよかった。
大変おいしかった。

こういう場合高級レストランであればテーブルにシェフあるいはヘッドウェイターを呼び寄せ、称賛したのちにチップをはずむものであるがここはファミレス。
そこでレジで会計をしてお金をやりとりするほんの数秒の間ではあるが、パスタが熱くて美味しかったと伝えた。レジに立つ店員さんは満面の笑みを浮かべて見送ってくれた。

なにも料理の感想を伝えて偉ぶりたいとか、若い店員さんの笑顔を見て喜びたいわけではない。
この感想が他の店員にも伝わればプラスになると思うのだ。
厨房はたとえ手間がかかっても丁寧に一つずつ作ることが評価されたらよりその精度を上げ無駄を減らし、美味しいものをより早く作ろうと思うだろう。作り置きでも作り立てでも反応がないなら楽に流れるものだ。
厨房がたとえ出来たてアツアツの料理を作ってもホール側がのんびりしていたら冷めてしまう(そういう店が多い)。人件費圧縮でごく高級な店以外はぎりぎりの人数だ。レジの会計、新しいオーダー、料理の配膳が同時にあったとき、どのように動くか。てきぱき動いてどの客もなるべく待たせないようにするのが腕の見せ所である。料理を素早く出すことも大事だということが感覚として伝わるだろう。
当然人間であるから、自分がやっていることが評価され褒められれば気持ちは上に向く。
「なんで客の私がそんなこと。その店の店長が考えればいいことだ」と思う人もいるだろう。それは間違っていないが、ほんの一言で若い人がやる気を出してくれていいサービスをしてくれるならいいことだ。お金は一円もかかっていない。
また若い人のやる気を出すこと、やる気を引き出して社会を少しでも活性化し住みやすくする方向にもっていくことは大人の責務である。
posted by Mozzo at 22:18| Comment(0) | TrackBack(0) | まじめな正論! | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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