2015年06月22日

自転車に乗るのもやっとというお年寄りがいるのだ

とある出先にわりと広い歩道がある。
広いがゆえに自転車が(たぶん通行OKなんだろう)すれ違っても余裕があるというほどの歩道である。
ところがこの歩道、ところどころに街路樹が植えられていてその部分だけ歩道が狭い。歩く人ならすれ違うことも可能であるが自転車同志はすれ違うのを躊躇する程度。

さてその歩道を歩いていたら遠く前方から自転車がきた。乗っているのはお年寄り。ゆっくりよたよたと走ってくる。もちろんこの人を邪魔してやろうなんて思うわけはないのだが、はてさて歩道が狭くなっている部分の手前で待ってやり過ごすべきか、狭くなっているところをこちらが先に通ってしまったほうがいいか。先に通って横によければそのお年寄りを邪魔することにはならない。
こうした間合いを測ることは日常生活上あることなのだが相手がよたよたと自転車に乗るお年寄りとなると難しい。

で、相手の位置と速度から考えて狭くなっている場所をさっと通り抜けて横によけるのがベストと判断した。
判断は間違いなく、そのお年寄りが狭いところに入る十数メートルも前の段階で私はその狭いところを通り抜け、横に避けた。

ところが、そのお年寄りはぐらりとぐらつき自転車を止めてしまった。私の行動が驚かせてしまったのだろうか。きょろきょろしている。自転車の操作がうまくいっていない。自転車を辛うじて止めたが、よたよたよたと止めようとしてから止まるまで数メートル。自転車の乗り降りもうまくいかないらしくなかなか再発進できない。
私が驚かせてしまったのだろうか。進路を直前でふさいだわけじゃない。10メートル以上の余裕をもっていたのだが。私の顔が怖かったのか。

ここに二つの問題がある。
一つは(お年寄りが私の行動にびっくりしたという理解が正しければだが)、お年寄りの感覚がわかっていなかった私の問題である。
ずっと何メートル前もから行動を起こしているとしてもお年寄りは反応速度が衰えている。かなり前から用意しないと反応できないとしたら私はその狭くなる場所の手前でそのお年寄りが通るように道を譲るべきだったのだろう。10メートルでの余裕では足りないということなのかもしれない。

もう一つはこの能力で路上に出ていいのかというこのお年寄りの問題。
まあ言っちゃ悪いが、自転車をさっと止める能力にも欠けている。自転車を止めて立っているだけでよろよろしている。これではだめなんではないか。
自転車はある程度の速度を出していなければ安定しないという特性がある。なぜ二輪の自転車が倒れず走れるのかといえば、走っているからなのである(説明になっていないがそうなのだ。必要とあらば細かく解説する。コメントを)。止まってしまえば綱渡りをするくらいのバランス能力を要する。

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さて具体的にどうあるべきだったのだろうか。

そのお年寄りが私に驚いたというのは私の推測ではあるが、驚かせてはいかんというのは一義的には正しい。
しかし、私がいくら気を付けても解決するだろうか。お年寄りが視界に入ったら身をひそめよというのも現実的ではない。物理的に邪魔したわけではなく、十メートルも前で避けたのだ。それでも驚くというのであれば「おばあちゃんの原宿」巣鴨では一歩たりとも歩けない。
だいたいお年寄り同士がすれ違うこともあるわけで何の実効性もない。

やはり、あるレベルまで体力判断力が落ちたら、それなりの移動手段に移行すべきなのではなかろうか。自転車はもう無理だという線があろう。
杖をつくとか、手押しのキャリーが椅子になる(あれはなんというのか)のもある。さらに衰えれば電動のカートもある。
今まで自転車に乗っていたからこれからもと思う気持ちはわかるが、どこかに線がある。これはバイクでも自動車でも同じだ。

まぁ私は後ろめたい気持ちを味わっただけで実害はない。このお年寄りもよろっとしただけで実害はなかた。だがこの先どうなるか。
これを正さねば死ぬのはお年寄りだ。暴走自転車にはねられて死ぬ事件が起きているがさすがにあのよろよろ自転車にはねられて死ぬというのは同じお年寄り以外にはそうはなかろうが、このままでは誰かに不幸が襲い掛かる。

お年寄りは自身のためにある程度衰えたら自動車、バイク、自転車に乗らないという判断を下してほしいものだ。

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とはいえ、これをお年寄りの自覚に求めるのは難しい。
一つは自身の衰えを客観的に受け入れられないという気持ちだ。自転車にも乗れないのかということを認めることはなかなかむつかしいのはわからんではない。
もう一つはただでさえ体力が衰えているというのに、移動手段が減ればさらに移動が困難になる。自転車なら買い物ができても、杖を突いて荷物を抱えてでは無理という人も多かろう。

事故が相次ぎ、やっと自動車については認知症の恐れがある場合、検査を義務付けたり免許を停止する仕組みが整いつつある。だがまだまだだ。ましてや免許のない自転車は野放しだ。
補助輪でよたよたとようやく自転車に乗れるようになった幼児をいきなり一人で遠出させないだろう。これと同じである。周囲と公で制限せねばならんのではなかろうか。

さて、単に制限するだけではお年寄りは困るばかりだし、実効性がありかつお年寄りを苦しめない方法はあるだろうか。
お年寄りが自由に外出できるようにタクシーを無料にすればいいのだろうか。
しかし、自転車でも杖を突いて出かけるでも、それなりの運動になる。タクシーをあてがえばいいというのは安直かもしれない。トータルとして老人福祉になっていない。
つまり、杖なり椅子にもなる押すカートに頼るなりで生活できる環境を作らねばならないのではなかろうか。
効率的に移動できるコンパクトな地方都市を作る。ある程度都市も役割分担で、生活環境を犠牲にしても24時間眠らない国際都市とか、子育てがしやすいとか、お年寄りが暮らしやすいとか、いろいろ必要だが、すべてを満たすのは難しいのではなかろうか。お年寄りが暮らしやすい、静かでゆっくりしていて移動が楽で医療と介護が充実している都市を作りそこに誘導する。
無論、生まれ育った土地で暮らしたいという人が多いのも知っているし、人生の終盤を生まれ育った土地にできればそれに越したことはなかろう。だが、それは経済的物理的に無理がある。妥協が必要だ。

すごく端的に言えば、よろよろと自転車に乗らねば外出がままならないお年寄りを放置していいのか、ということなのだ。
posted by Mozzo at 23:47| Comment(0) | TrackBack(0) | まじめな正論! | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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