2015年06月26日

常識を疑うのだ

ビジネス本とか自己啓発本で「常識を疑え」というフレーズがもはや常識となりつつある。常識を疑えって常識ジャンとか、常識を疑えってなんか陳腐よね〜みたいな。
ま、たしかに常識にとらわれているというのは事実なので常に疑ってみるのは間違っていない。

で、ビジネスだけでなく食の世界にも常識にとらわれていることは多々あるのではなかろうか、それで損をしているのではないかということを言いたい。

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たとえばざる蕎麦の薬味にネギとワサビ。店で食べると常識のようについてくる。
これは違うのではないか、と常々思っていたのであるがかの高名な美食漫画美味しんぼでも批判しておられたのでその通りだと納得したのである。

海原雄山の昼食に蕎麦を出した若手の子(良平くんだったか。岡星さんの弟)が薬味にネギとワサビをつけたから海原雄山が切れたという話だな。小皿を投げつけるというのは大人としてどうかと思うんだが、まそれは漫画の演出ということで。
「お前は私に何を食べさせようと思って」と海原雄山は問うていた。そうなんである。美味しい蕎麦。あの香り。微妙な香り。あの味。かすかな苦みというかなんというか表現する語彙がない自分がもどかしいのだが、ネギとワサビが全部殺してしまうではないか。あれでは蕎麦でも冷麦でも同じになってしまう。
ネギとワサビは蕎麦を食べ終わった後に汁にいれ、蕎麦湯とともに味わうのがいいのではなかろうか。さらに一口目の蕎麦湯はネギワサビ抜きで楽しみたい。途中で入れるのがいいのではないか。
理想を言うなら同じ空間に蕎麦とネギがあるのも避けたい。蕎麦だけを鮮烈に味わった後ネギとワサビと蕎麦湯を持ってきていただきたいものだ。煙草も香水もにおいのあるものはその空間にあってはならぬ。ま、個室の蕎麦屋でないとできない相談だが。

同じくざる蕎麦に海苔というのも納得できない。
ざる蕎麦ともり蕎麦を出す店は価格の差をつけている。本来、ざるともりの差は麺の質、汁の質があったのであるがいつしか形骸化し海苔がついているかいないかの差になっている店もある。それもおかしいとざるともりの区別がない店も増えた。同じにしてせいろと呼ぶ店も多い。
無論、いい海苔をのせておいしくなってということであるならそれにお金を払うのはいい。
だが、たいていの蕎麦屋で使っている切海苔というのは大した海苔ではないし、海苔をそばに乗せるというのはそもそもうまくない。海苔がしけてしまうではないか。蕎麦の肌理を損なうではないか。小麦粉の麺とはまた違う、つるつるでもなくざらざらでもない微妙な肌理が美味しいのに、しけった海苔がまとわりついているのでは何の意味もない。

さらにあの江戸風の汁にも疑問がある。あれは蕎麦をうまくするものであるのか。質の悪い蕎麦を濃い味でごまかしているのではないのか。
事実、蕎麦は江戸のファストフードであって、質もピンからキリまで様々だった。蕎麦粉の質で言えば、蕎麦の実の芯だけを使う更科系の麺が最上である。白くて上品である。一方で外側の部分が含まれていくと力強くなる傾向があり、藪系の麺として悪いものではないが程度というものがある。実の外側だけでさらに固い殻の部分も含まれているんじゃないかという質の悪い粉もあって、こうした質の悪い粉は麺帯としてなかなかまとまらない。古い蕎麦の本では場末の蕎麦職人はこうした質の低い蕎麦粉を麺帯にまとめ上げる実力を持っていると評している。
多くの庶民が食べるそれなりの蕎麦がそれなりの質であれば、つまり更科系ではなく藪を100倍ワイルドにしたような麺であるなら汁もそれなりに強くなければならない。
もちろん、よく関西人が批判する(というステレオタイプな常識が残っているが実際には違うと思う)醤油が濃すぎて食べられないというのは誤解だ。あれはせいぜい半分、できれば箸で持ち上げた麺の先をちょいとつけてずっとすすりこむことで塩味はちょうどいいことになるのである。通ぶっているようだがそういう道理であるのだ。
だが、汁が濃いというの塩味ではなくあの出汁、醤油の香り、甘さのことを言いたいのである。果たしてあそこまで鰹節や昆布の出汁を利かせる必要があるのか、醤油の香りや旨味は必要なのか、みりんの甘さは必要なのか。ちょっとは必要だけどあまりに過剰ではなかろうか。
現代の蕎麦は蕎麦屋はもちろんスーパーで売っている乾麺まで比較的いい粉を使っているのだと思う。この味わい深い麺にあの強い汁は合っているのだろうか。疑問だ。

水蕎麦という料理がある。その名の通り、水だけをつけてそばを味わうものだ。水につけっぱなしでは伸びるというか切れやすくなるだろうし、完全に水を切ってしまえばなめらかさが失われる。水をつけて食べるというのは蕎麦のうまさを味わうには合理的と言えよう。
だが、蕎麦自体のうまさは充分に味わえても料理として全体の評価はどうか。塩味、出汁味が欠けているのは食事としての満足感が足りないということにもなろう。
江戸風の汁から甘さを排して醤油と出汁だけならどうか。出汁と味噌ではどうか。トマトなど旨味のある野菜を刻んだものではどうか。白飯のように蕎麦は蕎麦だけで食べておかずをつけるのはどうか。
日本の料理は引き算の美学である。マイナス評価となる臭み、えぐみを極限まで抜くのは当然、一般にプラス評価になる甘味、旨味も抑え込んで食材の本来の味と香りを楽しむ方向性を持っている。
蕎麦粉から不要な雑味が消えたのだから汁からもなにかを引く必要があるように思う。

ま、ここで究極に美味しい蕎麦の食べ方を提案できるわけではないが、常識を疑ってこそ新しい食べ方が生まれるというものだ。

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ワサビといえば刺身に使うワサビも常識がある。
醤油に溶かずに刺身にのせて食べろというのが常識である。いわく醤油に溶くと香りが飛ぶ、醤油が甘くなるというのである。これは古くから作法とされているのだが、完全に常識として浸透していない面もあるらしい。醤油にワサビを溶く人はそれなりに多いらしく「本来の作法はこうです!」「醤油にワサビを溶くと美味しくないんです!」と説く記事を見かけることはある。最近は常識になったのか見かけなくなったような気がするが。まぁ浸透率7割程度なんだろうか。

さてこれも常識として疑ってみなければなるまい。
なるほど醤油に溶かず刺身に乗せて食べてみればつんといい具合に香りが効いておいしい。ワサビを生かすという言う意味では正しいと思う。
かの美味しんぼ(またか)でもワサビ農家の人の話で描いていた。娘の婚約者の父親と会食したが、この店はワサビを粗いおろし金でおろし、この父親が醤油に溶いた。これを見て激怒して婚約取り消しだとかいう話だ。これも人として極端だと思うんだがまぁ演出ということで。
ワサビはきめ細かくおろすために鮫皮で下ろし、醤油に溶かないというのがいいとされている。ワサビの辛み成分を最大限に発揮するためには確かに正しいとは思う。
だが、ワサビを溶いた醤油はうまいのだ。ワサビの真価を発揮しているとはいいがたいのだが、醤油に自然な甘さというか香りというか複雑なものを付け加えてくれる。
粗く下ろしたワサビ、何ならみじん切りのワサビもこれまた美味しいのである。香りや辛みは抑えられているのだがなんともうまい。
粗みじんのワサビに醤油を垂らしてみるといいつまみになるようにも思う。

美味しく食べるには、ワサビを溶いた醤油にワサビを乗せた刺身をつけて食べればいいのである。これ正解。
全部醤油に溶いてしまうのはダメ。刺身の種類によってワサビのきき方が違うからだ。さっぱりしたもの、たとえば茹蛸なんてのはワサビが利く。一方で脂ののったマグロのトロなんぞはワサビが利かない。乗せるほうのワサビで調整しなければ美味しく食べられないのである。
ワサビを無駄にしているという考え方もあろうが、国産のワサビをたっぷり食べると考えればいいのではないか。ワサビは清流で育つもの。ワサビの消費は清流を維持整備する原資にもなるのだ。
無論作法に反するのでちゃんとした席ではやらないが。

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薬味のワサビとは大事なんだがこじんまりとした話だったか。次は大きな話。
世界三大料理というのも疑ってみたい。

世界三大料理とはなんであるか。
なんでも仏国料理、トルコ料理、中華料理であるらしい。
これを疑っていこうというわけだ。

まず世界三大料理に取り上げる基準とはなんだ。それを決める機関があるわけでもなし。ギネスとかミシュランあたりが基準を設けてやれば盛り上がること必定である。

普遍性というものは必要だろう。うまいというなら私にとってどんな高級料理よりも納豆に生卵とネギと醤油少々、ぐりぐりとかき混ぜてアツアツごはんにたっぷりとかけてかっこむほうがうまい。だが納豆も生卵もダメというのが平均的で世界基準だろう。世界の平均が受け入れるものでなくてはなるまい。ことに生卵は日本通と自他ともに認める人でも受け入れないというケースが多いそうだ。

またたとえ卵納豆飯がいくらうまかろうが、万が一それが世界に受け入れられようが、それで日本料理が新・世界三大料理になるわけではない。一つの献立ではなく料理体系として味も普遍性も精神性も優れていなければなるまい。
トップがすごければいいのか、平均値を問うのかということもあろう。
ミシュラン三ツ星のレストランが一つあったからといって、その他の店がダメダメ、その国の人ももはや食べていないような料理であれば世界三大料理の名には値しない。普通の店、家庭料理のレベルも高くて初めてそういえるのではないか。層の厚さだ。

その意味で、日本料理を世界三大料理に推す気はない。日本人にとって大変に美味しく寿司など世界的に知名度が上がったものはあるがやはり普遍性に欠ける。生魚、生卵、海藻あたりは拒否感が強いようだし伝統的な和食はあっさりしすぎているという向きもあるようだ。料理体系が複雑かつしっかりしていることと、料理に対する精神性の高さ、庶民の家庭料理まで厚みのある文化であることはなかなか優れているとは思うが。

さて、仏国料理。
さすがにこれは世界一流の食文化と認めないわけにはいかない。なにも現地で食べたとか一流の店に行ったということではないのであるが、日本のちょっとした町にあるちょっとした仏国料理の店でも精神性とその技術を感じることができる。
名前を憶えていないのだが、とある料理人は仏国の材料を使うことが仏国料理ではない、仏国料理の技術と感性をもって現地の材料を調理すればそれは仏国料理であると断じたそうだ。納得である。
私がとある有名でもない小さな街の小さなレストランで食事をしたとき、地元の魚(当然日本産)を見事なポアレに仕上げていて感心したことがある。皮が軽やかにパリッとしていて身肉がしっとりしている。和食の焼き魚とはまたちがうみごとな焼き上がりであった。(ポアレとは何ぞやにはいろいろ議論もあるようだが)
レストランだけではない。仏国人が情熱を傾けるパン、チーズ、ワイン。他国にもうまいものはあるが、世界最高レベルといってまちがいない。あのばりっとしたパンにチーズをのせてほおばり、ワインを飲めば、高級レストランでの食事に負けない満足がそこにある。
チーズなど発酵食品は縁のない人には拒否感が生まれかねない食材ではあるが、その中では敷居が低い部類にはいるだろうし(まぁすごいチーズもあるけど)、パンやワインが気持ち悪くて食べられないという民族はそうはあるまい(宗教的に酒がだめはあろうが)。普遍性がある。

トルコ料理。
残念ながら日本では情報が少なすぎる。
一部にはケバブの屋台など庶民的な店もあるというし、それは欧州では珍しくないものであるらしいが、まだまだ日本ではマイナーだ。
ケバブとかドンドルマとかいかにもうまそうなものがあるのだが、まだ触れたことがない。東京に行けばあるのか。残念。
果たしてトルコ料理が浸透していないのは日本だけの特殊事情なのかどうか。欧州や米国では浸透しているとも聞くが。
私では判断はつかない。
情報がどんどん入ってくる日本でそれほど浸透していなけば世界三大料理とは言えないという見方もあろうかとは思う。だが断片的に伝わってくる話がうまそうで。判断はつかない。
歴史のある国なので宮廷向け料理から家庭料理まで料理の体系はあるだろう。はてさて。

さて、問題は中華料理である。
そもそも中華料理という料理はあるのか。
むしろ日本にはある。清や中華民国の時代に日本に入ってきて、ギョーザとかシューマイとか何となく中華っちゅーかなんちゅーかという形であいまいに入ってきて日本式に混合換骨奪胎された料理(うまいけど)は中華と呼ばれている。だがこれを日本国内で中華とよぶのはよくても世界に向けて中華と呼んだら中国人が怒るだろう。日本人もそんなことは考えてない。

中国は広い。
仏国料理とて地域によって差はあるはずだが、仏国料理独国料理英国料理....と欧州全体を合わせたくらいに地理的な差がある。そもそも今は中華人民共和国と一つの国のような態であるがもともとさまざまな民族が国を興し異なる文化を栄えさせ滅びということを繰り返して今に至るのである。
ざっくりと有名どころだけ挙げても北京料理、広東料理、四川料理、潮州料理、山東料理などなど。全然違う。

食は広州にありというそうな。広東料理はおいしいよといっているわけだ。広東料理の本場は香港である。香港における広東料理は英国の影響も受け普遍性のある誰しもが美味しいという料理に進化したとは言えるようだ。
ただ金満家が金に飽かせて食べる料理、珍奇な材料を珍重する料理に堕しているというきらいもある。庶民は何をたべているのか。
香港に観光で行ったことがあるが、食では満足できなかった。全体にくどいというのは私の主観かもしれない。だが高級レストランでは珍味先行。庶民的な食堂のレベルは低い。名物という粥は煮過ぎてただのペースト。油条とかいう揚げパンとピータンなどの具でごまかしているだけ。麺類もぼそぼそかぐちゃぐちゃ。点心もまずかった。有名店のはずなのに。
私がたまたまひどい店に当たっただけかもしれぬがあんな店が営業できているのがおかしいか私の味覚がおかしいのかどちらかだ。粥はでろでろなのがうまいのよーとかいうのか。蒸し餃子は皮が乾いてからがうまいのよ〜とでもいうのか。
ましてや高級ホテルの高級レストランかなんか知らんが、油に漬け込んだような料理(しかも冷めている)が出るのはなぜだ。私が行く程度の高級レストランではだめという批判はもっともだが、それでは香港の料理の平均レベルが低いということになってしまう。一般の仏国料理店の力を見よ。
レベルが高いと言われる香港でこれでは中国本土はもっとひどいだろう。思い出すのはタレントの松嶋尚美さん。中国のロケで本場であるはずのシューマイを食べ「3点(100点満点で)」と酷評していた(タレントとしては正直すぎるがそこがいいのだ、あの人は)。日本ではそういう店は生き残れない。平均レベルが低いのだろうか。

庶民の味のレベルが高いのは中華民国(台湾)だ。何を食べてもうまい。台湾ならコンビニの弁当ですらああ中華料理と思わせる何かがある。
中華料理は台湾にある。食在台湾である。
あるいは換骨奪胎した日本の中華料理のほうがうまくないか? 永谷園の麻婆春雨のほうがうまくないか。中華の高級料理とブラインドテストをしてみたら面白い結果が出るかも。

当然これは私の個人的な感想であるし、仮に日本人の多くが賛同したとしても、それが世界的に普遍性があるとは言えまい。中国人は脂っこい料理を好むという。だから伝統的和食は嫌いなのだそうだ。日本人とは違う。そのどちらに普遍性があるのか。

仮に普遍性がなくとも中華料理が世界三大料理に入っているというのはやたら世界に進出して中華街を作り、現地で料理屋を経営するからではないか。有名だからではないか。
だが、その内容やいかに。
最高レベルのレストランは知らんが通常の高級レストランでは安直さを感じる。
素材の種類×調理法の修理でメニュを決めていないか。それが合うかどうかも考えもせず、新たな調理法を考えるでもなく。本来は素材ごとに必然があって調理法は決まるのである。(肉・魚)×(炒める・揚げる・蒸す)みたいに順列組合せで決めているようにしか見えない。味付けも似たり寄ったりというかなんというか。八角入れてあんかけにすればいいと思っていないかと思うのだが。
また、やたら高級食材を追求する向きもどうかと思う。美味しいというより高いから珍重するのではなかろうか。ふかひれと言えば珍重するが、冷静に考えて葛きりとどちらがおいしいだろうか。言うほどの差があるか。

私の個人的な嗜好が入っている話だし、別にまずいものと貶める気はないが、世界三大料理となれば別の料理が入ってしかるべしだと思うのだ。客観性が必要だ。

まずインド料理。
全部カレー味だという人もいるが、それは日本料理が全部醤油か味噌だと批判するのと同じだ。決して中華のように味の組み立てが似たり寄ったりではないと思う。
宗教的にベジタリアンが多いとか、牛が神様なので乳製品の利用が盛んとか特徴がある。豆とか素朴な素材を美味しく仕上げる技術は素晴らしいものがある。スパイスを使い分け鮮烈な味に仕上げる。
宗教的に羊を食べるのはOKという人も多く(ベジタリアンも多い)、羊とほうれん草のカレーは日本でも割と浸透していると思う。このうまさはしびれるほどである。
チーズと豆のカレーもうまかった。
材料はこれと言った高級品ではなく、誰しも日常的に口にするものが大半だ。米、小麦粉、乳製品、何種類もの豆、野菜、鳥、羊、卵、多くのスパイス。インド料理で材料が高価だからすごい、というものがあるだろうか(少しはあるかもしれないが全然有名じゃない)。
材料に世界の誰しも受け入れる普遍性があるし鮮烈なスパイスの使い方を見ればこれぞ世界三大料理と言ってよいのではなかろうか。高級料理から家庭料理にシームレスに文化が連なっているのもいい。
インドも広いので都市によって習慣が異なるとは思うが、インド人の男性(外で働いている)の場合、外食を好まないという。食事は母親・妻・娘が作ったものでなければ口にしないとか聞いた。男女の役割分担という話はあろうが、家庭料理に生活の重きを置いているのであれば庶民の料理文化も分厚いものがあろう。
珍奇な材料に頼らず普通の材料を美味しく仕上げるインド料理が好きだ。

ベトナム料理ももっと評価されていい。
東南アジアの料理というと辛いというイメージを持つ人もいるかもしれない。
だが不思議なことにタイ料理をはじめとする辛い文化と、そうでない文化が国ごとにモザイクのようにちりばめられているのである。ベトナムは辛くない。
ただ香草を使う文化はある。
ベトナム料理と言えばなんといってもゴイクォンである。ベトナム風生春巻きである。それが高級というのではなく、親しまれていることを評価したい。
皮は米をすりつぶして発酵させた汁を煮て膜状にして乾かしたものである。いわゆるライスペーパー。これをさっと水で戻してつかう。
ゆでたエビなどと野菜、特にパクチーやニラなど香草も使う。生のモヤシも使う。素材自体は日本人におなじみのものだが食べ方が鮮烈である。ニラとモヤシを生で食べようなんて思わなかった。
これは高級な店でも出されるし、屋台や学生が集まって飯でも食おうやという場面でも出されるという。
その他フォーなど庶民的な料理は多々あり美味しいし、宮廷料理の伝統もある。味付けも様々でゆでただけ蒸しただけで素材のうまさで勝負する料理(つけだれがこれまたうまい)もあれは複雑な味付けのものもある。似たり寄ったりとは思えない。
ベトナムを旅行した日本人はだれしもが料理が口に合ったというらしい。まさに普遍性があるということではなかろうか。

鮮烈さ、文化の深さを言うならタイ料理も世界三大料理に相応しい。
世界三大スープ料理の一角を占めるトムヤムクンもタイ料理だ。
一部の料理があまりに辛いというところが普遍性に欠けるかもしれない。
以前ちょっと辛さに負けたことがあるのであまり語れることがない。。。。

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仏国料理は欧州だが、トルコと中華では距離は遠いがアジアが重なる。
バランスを考えれば他の地域からも選ぶべきではないか。

米州はどうか。北米中米南米と特徴的なものは多々あるが、世界三大に相応しい知名度とか洗練度というと分が悪い部分もある。
割と有名でうまそうな料理(一品)もあるにはあるが、ペルー料理とかアルゼンチン料理とか国名を冠した料理体系として知名度がない。メキシコ料理が割と有名であるというところか。いやこれは日本から遠いから知名度がないだけで、ベトナム料理もペルー料理も知名度では似たようなものなのか。はてさて。

ことに米国は「食の砂漠」とも言われ評判が悪い。曰く「量が多いだけ」「甘い料理に甘い菓子」「ファストフード・ジャンクフード」などなど批判する声が目立つ。
しかし、米国は広く多様な国だ。何もハンバーガーとフライドチキンだけが料理ではない(時々食べる分にはうまいんだが)。これから世界に冠たる料理になる可能性があるのだ。

なるほど、ニューヨークなどお金が集まる都市には美味しいものが集まるものだ。世界の美味しいレストランを挙げればすれば米国のレストランがいくつも上がることだろう。
とはいえ、いくらニューヨークにいいレストランがあっても多くは「米国料理」ではないだろう。多くは仏国料理・伊国料理であろう。米国風にアレンジされているとしても。
庶民には関係ない世界だがそういう世界で素地を鍛えてもらって、波及して庶民向けの領域が発展し、高級から日常まで連綿と続く体系が完成すればいいのだ。まだまだこれからだ。
米国はもともとWASPが支配する国であったが、アフリカ系、ヒスパニック系、アジア系が大きな勢力になっている。それぞれがそれぞれの文化を持ち込んでいる。それが融和して新しいものを生み出しているところに可能性がある。
すでにアメリカのタコスはメキシコのタコスと同じではないし、アメリカのピザはイタリアのピザではない。そういう食文化が生まれつつある。
それが新しいアメリカ料理として世界に広まる可能性がある。ルーツは中南米だったりアフリカだったりするがトータルとしては米国料理。体系化され洗練されればその多様性から考えて中華料理よりも優れていることになりそうだ。まだこれから。

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バランスで米州を取り上げるなら、その他も考慮せねばなるまい。
大陸ごとに考えてみよう。南極料理といってしまうと探検隊が食べる料理になってしまうので別。ユーラシアは大きいので西は欧州、東はアジアに分けるとして、南米と北米、中米は狭いのでそのどちらかに、豪州を中心としたオセアニア、そしてアフリカ。それがバランスというものか。そう分類して見れば世界6大料理にせねばならんのかもしれない。アフリカと豪州はどうなのか。

しかし、アフリカは日本から物理的に遠いし、人的交流も限られている。情報が少ない。アフリカで少しでもなじみがある国と言えば北アフリカの数か国に限られる。あるいはケニアと南アフリカくらいか。アフリカ大陸の白地図を出されて国名をきちんと記入できる日本人はどれだけいるやら。

しかし、断片的情報とてなにやらうまそうなものがある大陸なのである。

当然文化発祥の地としてエジプトは無視できない。
かのスフィンクスが見つめる先にはケンタッキーフライドチキンがあるとかいうがそういう問題ではないな(関係ない)。

コシャリというエジプト庶民の料理がある。
パスタと米飯、豆を盛り、揚げた玉ねぎとトマトソースをかけ、酢や唐辛子ソースで味付けしつつ食べるものだ。ま、現地で食べてなくレシピを見て自作しただけだがこれはうまい。炭水化物がっつりではあるがこれはうまい。
これを受け付けないという民族はそうはあるまい。普遍性がある。

簡単な料理と言えばそうだが、ここには別の意味もある。パスタの原料の小麦は冷涼な地域で生産され、米飯の原料である稲は湿潤温暖な地域で生産される。豆は各種あるからなんとも言えないが、大雑把にいうと若干乾燥した地域で生産されるように思う。トマトや唐辛子も乾燥地域の産物か。さらに言えばトマトも唐辛子もナス科の植物で南米原産だ。玉ねぎは中央アジア原産で米州に渡ったのは16世紀のことだそうだ。世界規模に人が行き来した結果成り立つ料理だ。
まぁ言ってみれば「ご当地コシャリ」はそうそう成り立たないということだ。この原料がすべて生産できる地域なんてそうはないだろう。
古来物流が発達し、経済・文化が発達していたからこそのエジプト食文化。日本に伝わっていないだけで素晴らしいものがあるのではないかと想像できる。

また、ケニアだったか。小説に登場する料理であるのだがこのブログでもかつて触れた中島らも氏の「ガダラの豚」に登場する肉料理である。現地取材の上で執筆されてるというから実態とそうはずれていないはずだ。
主人公の教授がテレビ番組の企画で因縁のあるケニアと周辺の国に行く。家族と助手、タレントが同行する。教授と妻はアフリカに詳しいので夕食はホテルのレストランではなく庶民が行く店になる。テレビ的にOK。
ここの描写がいいのである。肉の種類を選んで焼いてもらうだけ。牛か羊か。それにウガリ(穀物を熱湯で練ったものらしい)とスクマ(ほうれん草のような野菜)を付け合せ、岩塩で味付けして食べるというのだ。
凝った料理ではない。洗練されているわけでもない。だが、牛なり羊なりを美味しく食べることを知り尽くしていなければこうはなるまい。
かの地では牧畜が盛んらしい。牛乳を生産し、牛の血液を(牛を殺さずに)飲むということもあるという。人間の食べられない草や木の葉を食料に変換する優れた方法といえよう。当然、肉は牛乳や血の生産の次にあるもので当地でも貴重品であろう。牛乳と血は再生産できるが肉にしてしまえば終わりだからだ。

ケニア料理というとまだまだ知名度が低く(日本だけ?)、体系的に完成されていないのかもしれないが今後発展する素地があるように思う。

ケニアに限らないが、アフリカの庶民的な穀物料理がうまそうでならない。
小説に出てきたウガリもうまそうなんだが、餅のようだと評されるフフもうまそうだ。細かく挽いた穀物を練って作るらしい。練り上げる労力は大変なものらしい。
その他名前もわからない、でもうまそうな料理がたくさんあるようだ。野菜と肉や魚を煮込んで、それを穀物で作った「うまそうななにか」と一緒に食べる。これはアフリカ以外でも多くの国で行われていることで日本とて同じことである。普遍性がある。体系化されPRがされればアフリカ大陸から世界に発信できる料理がいくつも生まれることだろう。

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オセアニアは文化についてはむつかしいものがある。

米州もオセアニアも古くから人間が住み着いた場所であると同時に中世以降欧州から進出した民族が支配的立場にあるという意味では似た歴史を持つ。
だがこれは偏見かもしれないが、米州が現地の先住民族あるいはその後に入ってきた民族と対立しながらも文化的に融合してきたことに比べると、オセアニアは違うように思う。主力である豪州やニュージーランドでは欧州人による欧州人だけの社会を作ってきたように思うのだ。白豪主義というものもあった。逆に豪州ニュージーランドの影響下にない島嶼国では欧州人の影響が少なかったりもする。戦中の歴史もあり日本の影響を受けている国もある。それが理想的なことかどうかは今後の歴史評価だろうが。

豪州とニュージーランドが独自文化として現地の文化と融合していない(融合する端緒にはあろうが)と評されるのであればそれは欧州文化のコピーであり、独自とは認められないのかもしれない。無論、現地の文化と融合せずとも欧州から切り離されて時間がたてば独自の文化に変化する可能性もある。だが実態はどうか。
少なくとも、これだけ日本と経済的な結びつきがあるのに、豪州料理、ニュージーランド料理と言って一つも浮かばないのは知名度普遍性がないと思われても仕方あるまい。もっと遠いブラジルでもブラジル料理と言えばフェジョアーダ、シュラスコくらいは浮かぶ。

まぁ世界三大料理なんてのは妄想遊びのようなものであるから目くじら立ててかんがえることでもないが。

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食の常識といえば、食育という言葉も疑ってみたい。

読み書きを子に教えるがごとく食についても教えるというのだろうが、果たしてどうなんだろうねこの考え方。
無論、子供に箸の使い方をはじめいろんなことを教える。それは食育なんぞと言う言葉が生まれるずっと前から、それこそ江戸時代どころか弥生時代か縄文時代かいやもっと前から食べ方を教えていたのである。人間どころか猿でも猫でも熊でも子に食べ方を教えるのではなかろうか。
親のやるようにやりなさいと。

食育はなにか親のやっていることとは別に「あるべき姿」があってそれに沿って教えるというにおいがプンプンとして気に入らない。
正しい箸の持ち方で、栄養学的に正しい献立で、にこやかな食卓でということは間違っているわけではない。だが親のあり方を無視してということでいいのかと思うのである。
親が箸の持ち方がめちゃくちゃなら子もめちゃくちゃでいいとは言わぬ。だが、子に箸の持ち方を教える前に親だろうし、親がその教育を受け付けないのであれば子に教えるとか言う資格もないし、子に教えても無駄だろう。
栄養学的な問題は子の健康にかかわることであるから、物理的にまともな食事を与えるのはある程度強制的でなければなるまい。親の食生活がめちゃくちゃ偏っていて、子供もそれでいいというのは虐待である。公が救わねばならないレベルである。
このレベルにある家庭に食育を説いても意味がないのは当然であるし、親を矯正せねばどうにもならないのは明らかである。

栄養学的にまあまあ問題がないのだが、食文化的なレベルについてはどうかという領域がある。
献立を組み立てるのも食文化である。
食文化としてまともな献立というのがある。
仮にトーストに卵納豆をのせて食べたらうまかった、としよう。やったことはないが卵納豆と穀物であるからまずいことはあるまい。だが他人前でやりなさんなということである。実は美味しいとか個人的には好きということはあろうが、食文化として枠がある。
新しいものを生み出す可能性もあろうが、これをそう簡単に崩してはいかんと思うのだ。無論、そうした枠を崩して新しい文化は生まれるのだがその枠がぐずぐずにやわらかかったいかん。精一杯反抗してやっと壊して新しい文化でなければいかんのではなかろうか。過半数、いや7割の人が「もうこれはありってことでいいのではないか」と言い出さない限り、それは新しい「まともな献立」にはならない。
寿司屋で牛乳を出してはいかんのではないのか。まぁそんなアバンギャルドな寿司屋はそうそうないと思うが、かつてあらゆる飲食店において、「コーラ・オレンジ」を献立表に書かせた愚挙を見逃してはいかん。食事にコーラもオレンジ(決してこれはジュースではないのだな)もいかん。そう言い切ることができる親でなければならん。
で、これは正論だとは思うのだが、果たして食育としてやれることか。
無論、親がその自覚があってきっちりやれるのなら何の問題もない。
あるべき姿を教える食育は親に対してであって、子供は親のやる通りやりなさいと教えればよいのではないか。

また、その「あるべき」もどこまで追求すればいいのかは何とも言えない。
文化として、マナーとして、栄養学としてダメな部分は親を矯正せねば子供がかわいそうだ。一部は人権侵害だ。

だが、「家族だんらんの食卓」ということを理想化するのはどうかと思う。
当然下世話な想像では夫婦仲が冷え切っていて夫婦はすれ違い、その食卓も冷え冷えとなんてことも実際にあろう。
ま、そういう家庭不和は別として、自営業で食堂や居酒屋をやっている家庭があるわけだ。夕飯は子供一人かもしれない。もし遅くまで営業する店なら、朝ご飯は店の残り物かもしれない。昼の弁当も。いや朝起きるのだって大変であって、閉店後の片付けのついてで子供の朝ご飯と弁当を作っておいて、子供は一人で食べて弁当をもって出かけるのかもしれない。
逆に朝食を提供する店であれば家族で朝食はやはり難しい。

もちろん、店の残り物が揚げ物ばかりで栄養が偏りっぱなしでもいかんが、そこそこ考えてあればいいのだ。完璧である必要なんてなし! 人間そこそこ食べていれば若干偏食でも死なない。最低限の脂肪糖質蛋白質と若干のビタミン・ミネラルがあればそうそう死なない。事実が証明している。

親に全く食生活の概念がなくてとんでもないものを食べさせて虐待しているのと、職業により偏ったり食卓がさみしかったりするのは本質的に違うのである。
毎食完璧にバランスが取れている食事を家族そろってにこやかに食べることに越したことはないが、人間食べるだけのために存在するわけではない。職業をはじめ生き方というものがある。
たとえさみしくとも「親はこのように働いて自分を育ててくれた」と思うことができるならそれは立派な教育だ。

なにか、「このやり方だけが正しい。あとはみんなだめ」と言っているような気がしてならないのだ。

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さて最後の常識は実用的な話を疑ってみたい。
これから食中毒の季節と言われる。温度もも高いし温度も高い。
お弁当を持つ人持たせる人は心配な時期である。
が、二つの常識を疑いたい。

まず本当に食中毒の季節なのだろうか。
お弁当に限ったとして考えてみたい。

まず湿度が高いか低いかはほぼ関係ない。いくら湿度が低かろうが、お弁当はカラカラではなかろうに。ついた菌は湿度では困らない。
関係あるとすれば、食器や調理器具についた菌が繁殖するケースだろうが、それは問題外である。湿度が高かろうが低かろうが、きちんと洗い乾燥させるのは基本である。きちんと洗わないとか、乾かないような保管をすれば、結局湿度が低くても菌は繁殖する。

温度が高いのは確かでこれは関係あるとは言える。
菌が繁殖しやすいのは種類にもよるが、たいてい20度C台後半から30度C台前半である。この程度の温度をキープすると菌は増える。
食品を放置すると気温が高ければこの温度帯を長く続けることになる。
炊き立てのご飯を弁当箱に盛り、おかずを盛り付けて50度C程度か。そこから徐々に冷めて30度C近辺を長く続けるのはよくない。

だが、その対策として、出来上がった弁当のふたを閉めずに冷めるまで放置するということが間違っている。
蓋を閉めれば若干冷めるのが早いかもしれぬが気温が25度を上回っていれば何時間放置しても「ばい菌やりたい放題」なのである。さらに蓋をあけていれば空気中を漂う細菌やカビがどんどん入り込む。
やるべきは「アツアツのうちに蓋をして、速やかに冷ます」ことである。菌をつけない増やさないが鉄則なのだ。
サンドイッチのパンのように冷やしても常温に戻れば食味が戻るものについては、冷蔵庫や冷凍庫に入れて、昼までに常温に戻れば普通に食べられる。
ご飯は難しくて、冷えすぎると澱粉がβ化してぼそぼそとしてまずくなる。15度Cくらいに急冷できればベストだと思う。蓋をしたまま全体をジップのついた袋に入れて冷水につけたらどうだろうか。

蓋をあけて放熱するなんて机上の空論に過ぎないのだが、私のこの意見もまた机上の空論である。対照実験をして菌の数を数えたわけではない。ただ、より理屈を通しただけだ。盲信されぬようご自身で考えられたい。

ちなみに本当の食中毒の季節は秋らしい。気温が低くなったからと気が緩むわけだが、菌が繁殖しないほど低温じゃない。

ま、当たり前と思っていることを疑ってみるのもまた楽しい、とありきたりな結音で終わる。
posted by Mozzo at 00:43| Comment(0) | TrackBack(0) | うまいものの話 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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