2015年07月20日

お前はいったい何を私に食べさせたいのだ by 海原雄山

うどんが好きだ餅が好きだコメが好きだと、このシリーズでは炭水化物に傾倒する好みを披露してきた。
その時の気持ちで食べたい炭水化物は変わるのだが、やっぱり米、白飯は安定して上位にランクインだ。無性に蕎麦ということもあるのだけど。

ご飯がおいしいことを売りにしている飲食店があるとつい足を向けてしまう。
曰く、有名銘柄米を使っています、いや契約農家から仕入れています、水は京都の湧き水です、いや高度処理したクラスターがイオンのどうのこうのの水ですなど材料にこだわる方向がある。
また、羽釜で炊いてます、土鍋で炊いてます、お櫃に入れますなどなど、調理法にこだわる方向もある。
みなうまそうである。事実うまい。

先日もこだわりの米・お櫃に入れて提供というのが売りの店を見つけてつい入ってしまった。
お櫃にご飯が入り、おかずが脇に付くか、ご飯の上に盛り付けられるかである。これで安くて千円から豪華なおかずだと二千円程度というところか。
むろん白飯に文句はない。上出来であった。

これが安いか高いかはわからぬが、真に客が食べたいものを出しているのかという疑問があった。
簡単に言えば、おかずが豪勢すぎるのである。
やれマグロだエビだと高級海鮮やらナントカ地鶏だとかとセットになっている。いちばん地味なおかずでも鰈の煮つけであった。
もちろんこういう献立も必要だ。美味しいおかずとセットで食べるおいしいご飯。これは当然美味しい食事。それなりにバランスもとれている。正しい。

だが、時に白飯に煩悩したいこともあるのだ。
だいたい、たっぷりのおかずではそれだけで満腹になってしまい、白飯はそれほど食べられないではないか。白飯をたっぷり食べたいのである。若い人ならいざ知らず、この定食のおかずを食べきったらご飯は一口でいい。中高年はそんなもんだ。
塩の効いたたらこ一片、焼鮭一片、海苔の佃煮、なめたけ、イカの塩辛、鰹の塩辛などなど。味が濃いものご飯に合うものを小皿にちょいとあればよい。それで白飯をたっぷりと食べたいのだ。
なんと「追加トッピング」としてそれらがメニュにある。なら白飯と「追加トッピングのみ」が私の望む今夜の食事だ。
たまにはそういう食事もしたいではないか。そんな煩悩を刺激するうまい白飯を出しておいてたっぷりのおかずを食わねばいかんというのは矛盾ではないか。
いや、おかずを食えと強制されているわけではないが、料理を残すという選択肢は私の中にない。

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店側の事情は分かるのである。客単価である。
これが持ち帰り店ならちがう。商品ごとに価格が高かろうが安かろうが粗利がそれなりに確保できていれば問題ない。白飯だけの客も歓迎だ。店員が注文を待っているのにうーんと悩んでいる客が迷惑だ。
しかし、外食店の場合客単価を上げねばならない。座席というものがあって、どんなメニュを頼もうとも一定時間占有するし、座席の数も上限があるのだ。固定費みたいなもので、粗利を上げるには客単価を上げねばならない。よって豪華な方向に傾いてしまう。むろん豪華すぎれば躊躇する客も多いのでそのさじ加減が企業の腕だ。

しかしだ。その店の売りである白飯を最高においしく食べたいと言っている客が望むものが食べられないというのはどうにも納得いかない。

これが全くの個人経営の店であれば、常連となって日常的には高いメニュを食べて、そのうえで「今日はわがまま言わせて」は通用するかもしれない。
また、企業経営の店でも柔軟な店であれば「煮魚定食の煮魚抜き、たらこ佃煮トッピング追加」なんてことができるかもしれない。煮魚とトッピング交換で定食と同じ値段ね、で通ればラッキー。煮魚定食+トッピングでより高い可能性あり。

ま、客の側からごり押しすれば食べられないものではなかろう。もちろん少なくとも安めのメニュと同じ値段は払う。
しかし、シンプルなおかずで白米をたっぷり食べるというスタイルを店の側から提案しないのはどうかと思う。
むろんちょっぴりのたらこやら佃煮やらで海鮮やら煮魚やらと同じ値段を取るのは体裁上むつかしいのかもしれない。
だがやればいいと思う。煮魚定食と同じ値段で。大きな煮魚ではなく小さな珍味の小鉢だけですが、これがご飯を楽しむ最高のプランなんです。と。こういうのお好きでしょと。
もう、飲食店は食材や調理の原価率で値段を決めるのをやめればいい。献立の魅力・鮮烈さで値段を決めればいいと思う。居酒屋で最高に高い料理は塩むすびでもいい。それを食べる金がない奴はマグロのトロを食べていなさいと。
考えてみればテキトーに盛り付けられたマグロのトロを自分で用意しようとするなら、スーパーに行けば買える(ランクというものはあるでしょうがね)。最高のコメと絶妙の炊き具合の白飯で、塩加減完璧の塩むすび、きりりと冷えた吟醸酒と一緒に。これを自分で用意するなら、時給も考えるとスーパーのマグロのトロを超えるかもよ。
たとえば塩むすび1〜2個分の白飯を炊くわけにはいくまい。最近の炊飯器は優れていて少ない米もうまく炊くというが、やはり美味しく炊ける量というものがある。
食材の値段やら手間やらは別にして、これを提供できるのはうちの店だけですぜ、それなりの代金払ってもらいますぜで道理は通っているように思う。

その点において、蕎麦屋の盛り、ざる、蒸篭といったシンプルなメニュを訴求するというのは理想である。店によっては素材の単価と比して割高メニュだ。これでずっとやってきているのだから白飯にできないはずがない。

豚カツをおかずに豚カツ定食と、梅干しにイカの塩辛をおかずに梅イカ(うめーか!?←ちょっとうまいダジャレを言ったつもり)定食と同じ値段でいいのである。
それはおかしいという人は豚カツ定食を食べればいいのである。

思えば客単価とか回転率とか市場占有率とか商売にはいろんな指標がある。理解できないようなむつかしい指標もある。
それは正しいんだろうけどもっと客がほしがっているものを出すという原点に立ち返ってみたらどうかとおもう。

とりあえず、炊き立てご飯に卵納豆ネギたっぷりが牛丼屋でしか食べられないというのは間違っていると思うのである豚カツ定食800円、納豆定食1000円でも私は納豆定食を選ぶね。

ちなみに吉野家では近年単品で納豆が頼めるようになった。時間帯は問わない。
顔なじみになったうえで、単品ごはんと納豆、トッピングネギ玉、トン汁、漬物で並の単価を大きく上回ればこういうわがままも許されるだろう。やったことがある。私はここに冷酒を追加するので単価はその辺の一般客とは違うよ!←自慢することか。

posted by Mozzo at 21:35| Comment(0) | TrackBack(0) | うまいものの話 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

100年前に完璧なインフラ計画は無理 だからこそ抜本的な改革を

大変な技術なんだけどなんだかな〜という記事。放っておいたらいつの記事だか悪れてしまうくらいだが。本当にいつの記事だったか。
産経新聞から引用する。

引用ここから====
これが北陸新幹線のフリーゲージだ 車輪幅変化、福井・敦賀駅で実験線公開

 JR西日本は12日、福井県敦賀市の敦賀駅構内で、北陸新幹線へ導入するフリーゲージトレイン(軌間可変電車)の実験線を公開した。

 実験線は全長約180メートルで、幅1435ミリの新幹線と1067ミリの在来線の線路をつなぎ、通過する間に電車の車輪幅が変わる仕組み。

 12日は牽引車(けんいんしゃ)につないだ模擬台車が時速約10キロで往復走行。わずかに車体を浮かせている間に車輪幅が変わり、最後にカチッと音を出してロックが掛かった。

 実験線責任者の有海幸徳敦賀派出所長は「まだ試験を始めたばかり。速度などの条件を変えてデータを取っている。安全第一でやりたい」と話した。

 北陸新幹線は来年3月、長野−金沢間が開業し、2025(平成37)年度までに敦賀まで延伸する予定。JR西はフリーゲージトレインで関西方面の在来線との直通運転をして、利便性を高めたい考え。

 14年度中にも製造する試験車で夜間を中心に走行試験を繰り返し、北陸地方の豪雪に対応できるかも検証する。
引用ここまで====

線路に幅の違いがあることは割と広く知られている。
記事中にある1425mmと1067mmは日本ではそれぞれ広軌、標準軌と呼ばれている。
しかし海外では1425mmが標準で1067mmは狭軌だ。
なんでも、明治時代に鉄道発祥の地たる英国から鉄道を導入した際、「日本は国に金もないしちっちゃい国なんだから狭くていいんじゃね? 材料も節約できるじゃん」ということで狭軌が標準となったと聞く。その英国は1425mmが標準であるそうだ。

「わざわざ新幹線を1425mmで作るからこういうことになるんじゃね? 1067mmで作ればいいんじゃね?」という考え方もある(カッコつきの部分はぜひ浜田ブリトニーさん風に読んでいただきたい←なんのために)。
東海道新幹線が計画された時にもそのような指摘があったそうだ。東海道新幹線は世界銀行から借金をして作った(今とは違うのだね)。1067mmで鉄道網ができている日本が別の規格の線路を引くのは無駄ではないのかという指摘だ。
だが、1067mmでは力不足、未来の鉄道にはなりえないと突っぱねたそうである。

東海道新幹線はすでに限界に達していた東海道線の輸送力を改善するためのものであった。
一本の線路に特急、急行、貨物列車が入り乱れ、通勤に使う普通電車がなかなか来ないとか、その電車が超絶的混雑であるとか、そういう時代である。
輸送力と高速性を実現するには1067mmでは力不足であったのだ。

鉄道というのは自動車に比べると不安定に見えないだろうか。
在来線の車両は幅が2.8m、高さが4m程度だそうだ。車両の種類によって高さにはいろいろあるらしいが、幅はそうそう変えられない。広ければホームやトンネルなどにぶつかるし、狭ければホームで隙間が空いて危ないと言ったらない。
2.8mの幅、4mの高さのものが1mの幅の線路で支えているとおもうと不安定に見えて仕方がない。巨体の相撲取りが平均台を歩いているような危うさを感じる。
自動車なら車幅めいっぱいにタイヤが踏ん張っている。タイヤの幅の4倍も高さがある自動車もそうはなかろう。あるとしてもゆーっくり移動する特殊作業車に違いない。
自動車は想定できないような傾斜・速度で走ることもあり、その点鉄道はきちんと制限が決められているから安全なのだろうが(当たり前だが)、線路の幅が車体の大きさや出しうる速度に影響するということは変わらない。

1067mmでは在来線より大きな車両は当然作れない。それどころか高速を出すためには今より車両を細くせねばならない。カーブで遠心力がかかると踏ん張らねばならないからである。おおきな図体では無理だ。無論、線路を傾けて(カントという)高速でもスムースに曲がれるようにするのであるが、高速であるからと言って無制限にカントを大きくすることはできない。もしカーブで停車したら内側にたおれてしまうからだ。
1067mmで新幹線を作れば乗れる人数は少なく、天井も低くということになろう。人数は25両編成とか長くすればカバーできるかもしれないが、編成が長くなれば駅も長くなければならなくなるし、折り返しに時間がかかるようになるため、今のような高密度運転はできない。
1425mmは絶対条件だったのだろう。

無論、既存の在来線と違う規格を採用した弊害もあった。
新幹線を通すということのハードルが高くなってしまっているのだ。
東海道新幹線は在来線が飽和していたため、新たに線路を敷くのは当然のことであった。そのため、別の規格でも問題はない。
だが、その他の新幹線はなにも在来線が飽和しているわけではない。
早く移動したいとかさらに素朴に「おらが町にも新幹線を」という動機で新幹線を通したいのである。速達性を無視すれば、容量の面でいらんといえばいらん。東京大阪間以外は在来線に余裕がある。まぁ価値観は別として、ニーズが少ないのであるから、簡単にペイするものではない。
ここでもし在来線が1425mmだったら、線路は在来線と共有で単に高速型の電車を通すだけでよい。事実欧州の高速鉄道は専用軌道だけでなく在来線と混在する区間が多々ある。とりあえず通して、それでニーズが伸びて一本で足りなくなった時点であたらしい線路を敷けばいいのだ。

無論、鉄道の規格は幅だけではなく、カーブが緩いことや駅やトンネルの大きさ(建築限界)というものが在来線と新幹線では異なることが考えられる。
それでもカーブがきつければそこだけ速度を落とせばいいし、建築限界についてはその場所だけ直せばいい。新たに線路を敷くことをかんがえればハードルは低いに決まっている。

規格が異なる日本では大変な工夫と労力が必要になる。
その一つが山形新幹線である。
山形新幹線は東京-福島間は東北新幹線の線路(新幹線専用)を通り、福島-新庄間は奥羽線(在来線共用)を通る。
奥羽線は1067mmであったから新幹線の車両は通れない。また、駅もトンネルも在来線仕様である。
そのため奥羽線は1425mmに線路を敷きなおした(改軌という)。そうなると在来線の電車や貨物列車が通れなくなるので、台車を取り換えた。そのため、その他の在来線から奥羽線に入れないという問題が生じた。
駅やトンネルが在来線仕様である問題については、山形新幹線の車両を小さく作った。そのため山形新幹線の車内は普通車で座席が左右二列ずつである。狭い。この車両が東北新幹線の区間を走ると小さいため、駅では隙間に落ちないようにステップがみーっとでてくるのである。本来であれば要らない装備だ。

今回引用した記事のフリーゲージトレインは山形新幹線のように改軌せずそのまま乗り入れることができるようにしようという技術である。
線路の幅が徐々に変わる専用の切り替え区間を通ることによって車輪の幅が変わるわけである。理屈はわかるのだが、どうしたらそのようなものが堅牢であるべき鉄道の台車でできるのか不思議ではある。

改軌するのは大がかりな話であるし他の列車に影響も出る。そのため、新幹線車両がそのまま乗り入れることができれば影響は小さくなる。
しかし、建築限界が在来線規格であることは変わらないので、山形新幹線と同じく小さく作らねばならない。輸送力のボトルネックになる。さらに、フリーゲージトレイン対応の台車はその機能を積むために重量が増え、性能が制限される。新幹線区間での走行に影響がゼロと言うことはあるまい。

こういう事態を見ると「最初に1067mmにしたやつ出てこい!」と言いたくなる。せめて全国に鉄道網が広がる前に切り替えることはできなかったのか。新しい路線は1425mmにして古い路線を改軌していけばよかったのではなかろうか。
時代が後になればなるほど巨大化して切り替えは難しくなる。小手先の対応では弊害も大きい。今更むりなのだろう。社会的損失は永遠に続くのだろうか。

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最初に安易に決めて後で変えられなくて大損、と言う例はこれだけではない。

たとえば電気の周波数。東が50Hz、西が60Hz。バラバラに電気事業を立ち上げたため、発電機を導入した輸出元の国により周波数が違ってしまったという。
もともと周波数を気にしない器具(白熱電球など)もあるし、周波数が違っても使える器具が大半とはなった。今では周波数に依存するのは電子レンジくらいか。一部の古い器具では蛍光灯、レコードプレイヤー、時計なども周波数に依存するがそれぞれ対応機種が出ている。
とはいえ、周波数フリーにするために余分なコストがかかっているわけである。
さらに、東日本大震災の際には東西で電気を融通しにくいという事態も広く知られた。周波数を変換する設備が必要で容量に限界があるためである。設備があっても変換ロスというものもあろう。

コンピュータの世界にも似た話がある。
かつての2000年問題を覚えているだろうか。
コンピュータの黎明期に開発されたソフトウェアでは年号を西暦の末尾2ケタで扱うシステムが多々あったのである。頭に決め打ちで1900年をつけるから、1999年の次は1900年になってしまうかもしれない(ならないかもしれない)システムがあるとされたのである。
当然、開発した時点ではコンピュータは性能も容量も低くたった二文字でも節約すべしと考えられていたし、1970年代など「2000年なんてすごい未来の話。そのころこのシステムが使われているはずがない」とあまく考えていたのも事実だ。
そのためかつてのわれわれの社会は小さくないコストを払うことになったのだが、2000年問題などまだまだ小さい。2038年問題と言うのが来る。
これがなぜ大きな問題かというと、コンピューターの根幹をなすOSの問題だからだ。
詳しくは調べてもらいたいが、簡単にたとえると2000年問題は道路に欠陥がある車が走っているかもしれないというレベル、2038年問題は道路そのものに欠陥があることがわかっているというレベル。新規格の道路に直して、そこをを走れる車に取り換えなければならないのだが。

IPV4とIPV6というのもそうだ。IPというのはインターネット上の住所のようなものである。IPV4では桁数が少なくて困ったことになっている。128.0.0.1なんて4つに区切られた数字で表すのを見たことがあると思う。それぞれが0-255の範囲ですべての番号を使い切っても255×255×255×255の組み合わせしかない(使えない番号があるので、実際にはもっと少なくなる)。感覚的にはトンデモなく大きい数字に感じるが、爆発的に増えたコンピュータの数を思うと全然足りない。住宅に例えれば一軒ごとに住所が一つだけしか割り当てられていないことに似ている。
住所の番号に限界はないので、ナントカ市ナントカ町1947592でも構わないと言えば構わない。だが覚えられない。しかし、例えば3桁と決めてしまえば1000世帯を超えたら番地が足りない。
そこでマンションには一つだけ住所を割り当てるのであとは内部で何とかしてくれという仕組みである。ナントカ市ナントカ町123の何号室で区別してくれと。
住所は昔からこうだからあまり悩まないがコンピュータとしては不便なのである。常に外の世界(郵便局が理解する番号)と内の世界(マンションだけで通じる番号)を翻訳せねばならない。
いいたとえだったと思ったのだが意外とわかりにくいなこれ。

そこで桁数が圧倒的に多いIPV6というのに移行している最中なのだが、根本的なものを切り替えるのはレールや電気の周波数のごとく大変なのである。
IPV6になればその辺の石ころにまでIPアドレスを振っても問題ないとか。

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鉄道に話を戻すと、駅のホームの長さや幅が足りないというのもある。

ホームの長さについて、大都市を通る路線で時々「○×駅では1・2号車のドアが開きません」なんてことがある。編成に比べて長さが足りないからだ。たいていその駅は大都市に比べるとマイナーな駅である。
おそらく「この町しょぼいし、各駅停車しか止まらない駅だし。各停って2両じゃん、増えても4両分の長さあれば足りんじゃね?」と安直に決めたのではなかろうか。その後大都市周辺は発展し、各駅停車でも6両、8両で駅のホームからはみ出す羽目に。しかし駅周辺も開発されてしまって住宅店舗が立ち並び今更伸ばせない。

ホームの幅が足りないというのは、鉄道がそれほど利用されない地域の人からは想像もつかないだろう。大都市周辺と言えどそういう駅ばかりでもない。
だが、急激に発展して乗降客が増えた駅ではもはやホームの幅が足りない。
電車を待つ客の行列がホームの反対側に達してしまいあふれてしまうのである。ホームを歩くのも大変だし、エスカレーターの降り口付近では人が詰まっていつ事故が起きてもおかしくない。
だからと言ってホームの拡幅は大変である。そのくらい混む駅ということは周辺も開発されているということである。幅を増やすには駅前再開発もセットでやらねばならず簡単なことではない。
事故が起きてからでは遅いのであるが。

とはいえ、駅ができたころ、古い駅なら明治時代にホームの長さは15両編成が止まれるように、ホームの幅は一つのドアに100人並んでも大丈夫なようになんて言ったら予算の無駄遣いと非難されたことであろう。現代から見れば全くの正解なのであるが。

鉄道や電気のほか、道路、公共の建物、などいわゆるインフラというものにこうした問題が起きやすい。なんでもっと広い道路にしなかったのか、広げるのにどれだけお金と手間がかかることやらともめているのはなにも大都市に限らない。
とはいえ、なんでも余裕をもって大きく作っておけと言いたいわけでもない。電気や鉄道のように規格統一の問題も大がかりに規格をそろえればいいというものでもない。初期コストが生きるケースばかりではないからだ。
道路も空港も「未来を見据えて」と大がかりなものを作るほど外すような気がしてならない。というよりたいていは無駄なんだろう。足りなくなるほど発展するのはごく一部なのだ。
規格をそろえると無駄はないが初期コストはかかる。合わせるために違う規格に乗った側にはコストが生じる。過去ベータとVHSの競争やレーザーディスクともう一つは何だったか忘れたがなんかビデオディスクの競争とかあって、統一せねば社会的損失だなんて言われたものだが、統一する前に全部すたれた(VHSは一時的に事実上の統一規格になったと評価してもいいのかもしれぬが)。今から考えればいずれも過渡期の技術でいずれすたれるのがわかっていたとはいえるのだが。

思えば社会インフラから個人の住宅まで、その先何年何十年を見据えつつ、目先のコストも考えねばならないのだなと思う。

はてさてこの先、こうした無駄を省くために何ができるのだろうか。

神様ではないから将来像を明確かつ確実に予想することはできない。
たとえば土地に余裕を持っておけば無駄だと責められ、商業的空白を生むと責められる。今発展して手狭になった場所でも最初からスペースを確保していれば発展しなかった可能性すらある。やっぱり賑わいが人を呼ぶ一面は否定できず、余白が閑散さをもたらすことは充分に考えられる。

やはり、よきところで「当面すごく予算が必要でも全部替える」という政治力とそのれを支える法律なんだろう。
鉄道で言えば幹線は全部広くするということをどこかでやらねばならんのではないか。ローカル線もそれに続けと。改軌すれば建築制限とかそういうものは少しずつ直していけるし、直ったところから在来線も新幹線も同じ線路で同じ車両が通る。定常的に新幹線は通せないけど臨時電車で(たとえば夏だけとか)新幹線がやってくるというダイヤが組める。

100年先を見据えてあらゆる分野で根本解決を狙ってほしい。それはコストがかかろうともゆっくりやれることであり、それがもたらす効率化、経済効果は大きい。
目先の1年単位の予算ではわからんのではなかろうか。
posted by Mozzo at 20:41| Comment(0) | TrackBack(0) | まじめな正論! | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

感電事故 未来に向けて何を直すべきなんだろうか

またも悲惨な事故が起きた。
獣害除けの電気柵の電線が切れて川に垂れ下っていて感電死したというものだ。

被害者の方に失礼になるとも思うのだが、意外な事故である。こういうことはサスペンス映画やアクション映画の中だけで起こることだと思っていた。
不思議なのである。電気に詳しくないが、電気は流れやすいほうに流れるということは聞いたことがある。

側撃雷というものがある。樹の下など高いものの横に立っていると樹に落ちた雷が人体にルートを変えるというものである。樹のてっぺんから樹の幹を通って人間の頭にルートを変え、それが足から地面に抜けるわけである。
樹と空気と比べると樹のほうが電気が通りやすいから樹に落ちる。
樹をそのまま地面に通っていくよりも、空気をまたいで人間の体を通った方が通りやすいということらしい。

ということは、電線が垂れ下っていたらその最短距離で電気が流れるのではなかろうか? 仮にどんなに水より人体が電気を通しやすいからといって、両極が1m離れて水につかっていて2m離れていたら水をまたいで人体に電気が流れるわけがないと思うのだが。理屈がわからないのである。
大きな動物も倒すという電気ウナギも離れたところから攻撃するのではなく体を巻き付けるようにしていた。
それとも垂れ下っていたのは1極だけでそこと地面(アース)に電気が流れるルートができているということなのだろうか。

感電したのは事実であるのだから、なぜそうなるのか、実感を伴う理解をしたい。だれか詳しい人が説明してくれたらいいのだが。

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というのも、実感がないからこういう事故がおきたのではないかと思うからだ。
電線が垂れ下った電気柵の施設は法令違反だったらしい。かかっている電圧によって漏電遮断装置(いわゆるブレイカー)を取り付けることが義務になるという。この施設にはなかった。
農家もそうだし、大工さんとか、電気のプロではないのだけど仕事で使ってそこそこ自分で設置したり直したりすることができる人がいる。
当然法律にまでは詳しくないし、専門的かつ体系的に学んだわけでもない。
30Vでプロが作った設備を見て100Vでも同じだと自分でやってしまうかもしれない。交流と直流の区別がついていないかもしれない。アースの必要性とか。
私が見た例で一番危険だったのはコンセントとプラグの向きが逆だった自作の装置である。工芸家の人が使っていた。
電源ケーブルというのは電気の入口と出口がはっきりしている。入口がプラグ(飛び出している)出口がコンセント(引っ込んでいる)である。
両方がコンセントというケーブルを使っていて装置に接続しているのだが、ということはケーブルのどちらかの端につながれているプラグは出口なのである。回路がつながれば使えるっちゃ使えるが危険極まりない。

最近は何でも堅牢かつ安全になってしまった。水に関しても濡らすどころか水に放り込んでも平気で使える製品がたくさんある。いいことなんであるがどこかで電気は危険という実感を薄れさせないだろうか。無論100Vに感電したら危険という知識はたいていの人にある。だが実感がないと注意が散漫になる。

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この先どうすべきなのだろうか。この悲惨な事故を教訓に同じことが繰り返されないようにするのが生きている我々の使命である。そのつもりはなかっただろうが、結果的に貴重な命を犠牲にして世間に危険を知らせてくれたことを無駄にしてはならぬ。

知識の啓蒙ということが正道ではあるのだろう。水に電極を入れたら感電するとか遮断装置がいるということをしらしめ、自律的に危険を回避するのが理想ではある。
だが、その策に実効性があるだろうか。
農家や職人など自営業の人、技術で食っている人は言っちゃ悪いがある意味自信家だ。しかもコスト競争にさらされている。
「なあに自分で作れるさ」と過信してしまう傾向は残念ながらある。安全対策の完璧な専門メーカー製を使うべきだと勧めてもコストがかかるから嫌だという。
そもそも自作が趣味という人も多い。よく名物おじさんとかで何でも作っちゃう人いますね。下町のエジソンとか言って。

結局公がチェックして、撤去勧告を飛び越して即時撤去を命令・強制できるようにすべきなんだろうか。なにか悲しいが。
パソコンやら書類やらで仕事が完結する商売の人には想像できないのだが実際にものを作る現場の人の周りには高圧の電気、飲んだら死ぬ毒、漏れたら環境破壊の油、死ぬほどの高温の熱源、手指どころか体真っ二つも可能な機械、落ちたら確実に死ぬ場所での作業、下敷きになったら確実に死ぬ重量物などなど危険が山のようにあるのだ。そして彼らは良くも悪くもそれに慣れてしまっている。
人間ゆるみというものはあるものだ。
大企業の工場ではそうした人間の特性がわかっていて、チェックや基本動作の徹底をしているが、それでも事故が起こる。ましてや零細・個人経営の現場では事故が起きないわけがない。

害と戦うには何らかの悪い物が必要である。
病気に薬。薬とは毒の別名である。
害獣に電気ショック、猟銃。
ゆえに間違えれば事故になる。プロに任せたほうがよい領域はある。電気設備はプロに任せて「害獣が来ない環境で農業をできる」ことは公が保障すべきなのかもしれない。
その論を突き詰めると「害虫が来ないことが前提」「病気にならないことが前提」とかなってしまってどこかで線を引かねばならぬが、害獣対策は個々の農家に任せることではないのかもしれぬ。

残念ながら理想的で実効性のある案が考え付かなかったが、この事件を教訓にしてということは強く訴えたい。
posted by Mozzo at 19:34| Comment(0) | TrackBack(0) | まじめな正論! | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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