2015年07月19日

年末年始旅 その10

みそか元旦を含め旅先で過ごしたわけであるが、昔のように特別な時間だという雰囲気は薄れたなと感じた。JRで移動できるということはその地方でそれなりに中核の場所であるわけで、ビジネスホテルがあるくらいには都市であるから余計そう感じたのだろう。
和服の晴れ着も見かけないし(私もそうなんだが)、ほとんどの商業施設は通常営業だ。営業していないのは公的施設と商業性の低い施設(たとえば有名大企業が経営しているとはいえ、儲けがないナントカ博物館とか)だけだ。商業性がないからニーズと乖離したことができるわけだ。もったいない。年末年始こそ営業すべきなのに。落ち着いて博物館を見学できるのは年末年始の長い休みだけという人もいように。

コンビニもファミレスも普通に営業しているし、なによりコンビニATMで普通に現金が下ろせるのが大きく違う。昔は大みそか(いや29日からだったか)と正月3が日(そこに日曜がかかればさらに長く)を過ぎるまでに使うお金を予測し、余裕を持たせて下ろしておいたものだ。そもそもコンビニどころか銀行にもATMはない時代。
だから年末の銀行は信じられないくらい混雑していたものだ。なにより手元にそれなりの現金を持つのは物騒でいけない。

昔は最低でも正月三が日はお店も営業していないのが常識、店によっては松の内は営業しない(松の内が1月7日までという地域と15日までという地域があるらしいがさすがに15日までということはなかろう)ということもあった。
年末になると締め切った店頭に「新年は1月8日からの営業です」などと張り紙がされていたものだ。食料を確保していないと食事にも困ることになるほど。

とはいえ昔がよかったなんて言うつもりはない。
まぁどれもこれも風物詩と言ってしまえばなにやら懐かしい感じもするが、現代のほうが便利で安全だ。

働く人の都合もある。家族経営でいつもはゆったり休めないというならたっぷりと休んでもらったほうがいいが、パートタイマー・アルバイトで休業が長いと死活問題という人もいる。働く場所が確保できるなら年中無休万歳だ。貧しい話だが。

私はあまりイベント(誕生日とかクリスマスとか)に頓着しないので、正月にもあまり特別な気持ちはない。心新たにするのは別に正月でなくとも自分の気持ちの区切りですればいいことだ。特定の宗教は信じていないが、万物に宿る神に感謝する気持ちはあり、それは別に年末年始だからということはない。
そもそも元旦というのが、妙な理由で決まっているわけである。現代のグレゴリオ暦(正確には閏秒の運用まである改良版と言えるが)そのベースのユリウス暦なんてのは古代の人の政治的な理由で恣意的に決まっているだけで天文学的に何の意味もない。ユリウス暦というのはユリウスカエサルのこと。英語的発音ではジュリアス。ジュリアスシーザーのことである。「10」月であるOctoberの「Oct-」は「8」であるのも、「ユリウスカエサルにちなんで7月がJulyになった」とか「アウグストゥス帝にちなんで8月がAugustになった」とかマコトにもってテキトー。
日本としては全く関係ないし、欧米としても科学的‘な意味はない。
春分夏至秋分冬至とか意味のある日を元旦にするならわかるのだが。
かなり脱線。鉄道旅がテーマで脱線はいかんな。

無論年末年始に関係する伝統的行事が多々あり、それが日本の伝統だということは否定しない。初詣(これは明治以降の観光業界が作り出したということらしいが、近所の氏神様に手を合わせるということはあっただろう)、お屠蘇、若水、おせち料理、餅つき、etcetc。
だが、一年に一度形をなぞるだけの伝統行事なら、むしろ実質的に自然と神に感謝する機会が月に一度合ったほうが精神的にゆたかではないかと思う。

しかしだ。私が自然とかその背景に感じる神様的なものに感謝する気持ちも結局は子供のころからのそうした行事に影響されて育まれたものではないのかという思いもある。形式的な行事よりも感謝と振り返りを重視すること自体は間違っていないとはおもうのだが、果たして入り口からそれではいかんのではないかという気持ちもある。
幼い子供の視点で想像がつかないほど年上の大人が敬虔な気持ちで迎える何かがあるからこそという面があるのではないか。

大げさに言えば何の節目もなくすべてが日常風景ということは日本人のメンタリティーを変えるのかもしれない。一番じーんと来る行事はクリスマスですなんてことになっているのだ。

正月とて一族が集まるというのもむつかしいかもしれぬが、元旦には家族一同きちんとした身なりで食卓に着き、まずは家長が訓示を垂れ一人ずつに言及するくらいのことはあっていいのかもしれぬ。

まぁそういう面倒(お年玉渡すとか挨拶するとか)から逃れるために旅に出た私が言うことじゃないのかもしれないが幼少期の教育として考えるべきなのかもしれぬ。
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年末年始旅 その9

今回は旅行とは直接関係ない話である。

この旅、思いのほかテレビを見ることになった。拙宅にテレビはないので見ないのだ。
地方の普通の町の夜は早いし、ましてや年末年始。地元の美味しい店で一杯とおもいきや休みだったりと。そこで地元の名産銘酒を買い込みつつホテルで一杯というわけだ。
自宅ならラジオかビデオなのだがホテルではテレビしかない。それで自然とテレビを見たわけだがこれがなんとも。

年末年始のテレビはくだらないとよくいう。
わからんではない。年末年始で通常の番組ではなく特別な番組をやろうという意気込みはいいのであるがそれが空回りなんではないか。ことにバラエティ番組は見続けられないほどだ。出演者は頑張って盛り上げようとしているのだが見れば見るほど白けていく。
レベルが低いということもあるかもしれぬがそれは判断できない。ただ私が日常テレビを見ないからつまらないのではなかろうかと思う。連続ドラマは当然として、バラエティ番組であっても毎週やっているようなものはその番組を見続けてきたという蓄積があって初めて理解できる部分があるように思う。番組のスタイルやルールというものがあって毎回それを説明するわけではない。。
初見で最初から心をぐっとつかむような番組なんてのはそうそう作れるものではあるまい。奇跡のようなものであって、毎シーズン傑作が出るなんてことはあり得ない。それが当たり前。
だから、蓄積のある番組を普段通りにやればいいのだが特別企画ではそれがない。
そこはプロのテレビマンもわかっているらしく、特別企画といえども歴史のある番組をスペシャルでやることになる。毎週やらないけど折につけ昔からやっている番組だ。あえて名前は挙げないが。
しかしそれもそろそろ限界ではなかろうかという気がする。
一つだけ名前を挙げるが、あのダウンタウンがやっている「笑ってはいけない」シリーズも年末の恒例となったがすでに限界。本人らが既にやめたがっているが商売上そうはいかないという芸能報道もあった。今回も最初は見てみたが途中で飽きた。当人が飽きているものを見ても仕方あるまい。

チャンネルをあちらこちらと切り替えて、目立ったのは日本エレキテル連合のお二人である。昨年大ブレイクの芸人さんであるのだが、この年末年始に見てみるとひどかった。
いや、お二人は全然悪くない。お笑いにひたむきで研究熱心、才能のある人たちだと思うのである。
ブレイク初期に見たことがあるのだが、毒のある設定と言いその表現と言い、人気が出て当然とも思った。しかし、年末年始の番組では短い登場場面でとりあえず決め台詞を言わねばならないという演出。面白さが伝わるわけもないのだが、もはや聴衆は決め台詞だけで笑う状況ができている。
彼女らにとって甘い毒を飲まされているようなことだ。

安直に笑いが取れるからと安直に使いつぶされているなと思い、痛々しくて見ていられなかった。本当に新しいスターを作りたいと思うならもっと準備時間も放送枠も確保して、念の入った芸を披露してもらったほうがいいのに。
私がプロデューサなら彼女らのスケジュールを1か月押さえイベントをやらせる。一か月は準備期間。最後の一日が本番。全部新ネタ、会場の選定からイベントのコンセプト、ゲストを呼ぶのか呼ばないのか全部企画させ、プレッシャーをかけダメ出しをし、その過程はドキュメンタリーで放送する。本番は放送せずDVDで売るね。

どうなることやら。かわいそうに。

=====
バラエティ番組は見て悲しくなるし、レコード大賞も歌合戦も興味はゼロ。芸能人のかくし芸大会も見る気はない。というかかくし芸大会なくなったのだっけ? そんな報道があったようななかったような。知らん。

で、自然とチャンネルはドキュメンタリーになった。
年末年始にかけて戦争に関する歴史ドキュメンタリーを連続でやっていたので見入ってしまった。ナチス台頭前の第一次世界大戦の欧州。そしてナチスの台頭。第二次世界大戦と戦後の世界、日本。歴史以外のドキュメンタリーも見た。

おかげで断片的には知っていたナチス、ヒトラーのことを立体的に知ることができた。
残虐な独裁者が現れてドイツをあらぬ方向に導いたなどという単純なものではなかったことがよくわかる。ヒトラー一人でできたことではないし、ドイツを迷走させた時代背景があるということもよくわかった。仮に今後日本があらぬ方向に進むことがあれば、国民の一人としてそれをただすようにせねばならないが、それが決して「わかりやすい独裁者」の顔をして現れるわけではないことを知らねばならないと思った。

なぜ、ドイツ国民はヒトラーに熱狂したのか。なぜそんなことが可能だったのか。ナチスもヒトラーも国民の支持の上に立っている。選挙制度の上に立っている。そこに捏造やらなんやら選挙制度をゆがめるような行動もあったとはいうが、大筋でドイツ国民がヒトラーを支持していたのは事実だと思われる。
だが、ドイツ人が独裁者を望む、ユダヤ人迫害を望む野蛮な民族性を持っているわけでもない。ドイツ人を追い込んだ第一次世界大戦後の状況と言うものがある。フランス軍の振る舞いもその要因とみられる。
といってフランス人が悪いとか、要するに「誰が悪者」ということを言う気はないし、そこに答えはないだろう。
えてして人は善悪を二面に分けて考えがちだが、絶対悪も絶対善もないことがよくわかった。

思えばナチスの政策でユダヤ人が迫害され大量虐殺されたのは事実だろうが、かといってユダヤ人が一方的な善であり弱者あというわけでもない。ドキュメンタリー番組ではそのような演出がされていたように感じるのが残念だ。
当然ユダヤ人はイスラエルでパレスチナ人を迫害していることを忘れてはいかん。またアメリカをはじめ各国で政治的・経済的に重要なポジションを占めて、その陰で泣かされているひともいる。
だからといってユダヤ人は狡猾で残虐だということもない。
なにごとも状況により多面性があるのだ。

まぁテーマという意味ではいい番組ではあったのだが、テレビ番組としてはなんというか出来が悪いと思った。最近のドキュメンタリーはおしなべてそうだ。
順序立てて精密に説明すれば30分で済む内容を1時間に延ばしているなという感じがするのだ。いや4倍に薄めているかもしれぬ。

ゴルゴ13なら「用件を聞こう」と話を遮るくらい前口上が長い。
仰々しくテーマ音楽が流れなにやら凝った映像が流れる。歌謡曲でいえば「一番」が終わったところでばーんと番組タイトルが表示され、本日の話題が要約されて説明される。この後1時間かけて説明する内容はこの説明で言い切ってしまっている。
説明が終わると歌謡曲で言うところの二番が始まってひとしきりテーマ音楽を聞かされる。
番組本編に入ってもまどろこしい演出でなかなか本題に入らない。
「我々取材班は当時の状況を知る人がまだいるという情報を得て古都ナントカに車を走らせた」とかなんとか、どうでもいい話が延々と続く。その当人がやっと登場して話すのだが素人で話がまとまるはずがない。その爺さんに延々と話させた内容はきちんと絵を描いて説明すれば30秒で済む話。これを5分10分とやっている。
お前らロケを口実に海外旅行をしただけじゃないのか。テキトーな映像を撮って帰ってきたのではないか。受信料でそれをやっていいのか。あ、NHKだってまるわかりだが。

さらに、別の番組ではナントカナビゲーターとか言ってベテラン俳優とか知性派タレントあたりを据えて現地でロケをする番組もある。いらないシーン満載である。「ここにご先祖様が暮らしていたのか、ああ」とその姿はさすがベテラン俳優ではあるのだが何の情報性もない。

その点、私が理想と思う番組スタイルのドキュメンタリーがある。
JST科学技術振興機構がネット配信するThe Makingというシリーズである。
http://sciencechannel.jst.go.jp/B980601/

身近な製品の製造現場を見せるもので、人気シリーズらしくそのサイトの人気ランキングに常に登場している。現在公開されている最新は「313話電車ができるまで」である。
シリーズものなのでテーマ曲はあるのだが、ジャジャーンと始まってタイトルが表示されて本編に入るまで20秒。その後くだらない演出は一切なく、現場の映像と解説のテロップで見せるべきものをきっちり見せて説明する。ナレーションなしがかえっていい。

14分の短い番組であるが、同じ情報量を持たせたらNHKなら30分番組にするんじゃないのか。いや1時間か。
若い女の子の生徒役とパペットの「ハカセ」でくだらないトークをしたりしてね。「毎日電車にのるじゃろ」「うん」「電車をどうやって作っているのか知っているかな」「う〜ん見たことないなぁ」「みたいじゃろ」「うん」「よしメイキングの現場にワープじゃ 3,2,1 わーぷ!」「ワープ!」びょーん「わぁ大きな工場!」なんて小芝居を入れてくるわけである。情報性ゼロ。

このご時世、民放なら広告費が削られ番組予算が減らされ、従来なら30分番組の予算で1時間番組を作れとか言われているのかもしれぬが、「テレビ税」を徴収するNHKにそんな事情はあるまい。最近では受信料を払わぬ人を積極的に提訴するほどのやりたい放題。ちょっとした小国の予算に匹敵する経済力を持っているのにこの体たらく。
もし番組制作の現場で予算が絞られているならくだらないことに金を使っている奴がいるのである。
だから私はテレビを持たない。テレビ税なんか払うわけがない。まぁビジネスホテルの宿泊料として間接的には払ったわけだが。

こんなところから因縁をつけるのもいかんが、テレビに限らず新聞、ラジオを眺めてみるに、どうにも「イデオロギーバカ」「利権バカ」が目立つように思えてならない。
そんなテレビを眺めつつ、苦い酒を飲んだ大みそかであったのだ。
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年末年始旅 その8

青春18きっぷというのはなかなかいい商売であると言える。
価格は5日(人)分で一万二千円弱。新幹線で言うと東京から名古屋に行くくらいのお金である。額面で言うと交通費として大きいが、その金額で5日間も普通車といえど乗り放題である。ニーズに合致すれば魅力的である。

一日あたりで計算すると2400円弱ということになる。東京発の東海道線主要駅で見てみると、沼津まで2270円・2時間強、静岡まで3350円・3時間てなところで、その間にちょうど元が取れる点があるのだろう(←調べろや私)。
東海道線だから時間がこんなものではあるが、ローカル線でも始発から終電までがっつり乗らずとも充分に元が取れると言えよう。
きままな旅、移動することに楽しみを見いだせるなら大変お得とは言えよう。

対してこれを提供する側はほとんどコストを要していない。
特別列車を仕立てるわけでもない。特定の路線が混むわけでもないから臨時列車を出す必要もない。青春18きっぷユーザーが集中しやすいところはあるとは思うが大したことはない。全国に分散するのだ。
つまり余裕のある普通電車のリソースを使って高額の切符を売るわけである。コストゼロで売れた分だけ儲けである。
青春18きっぷがなければ家で寝ているかもしれないし、地元で遊んでいるかもしれないし、私鉄に乗るのかもしれない。そこをJRに引っ張ってくるわけだから商売としてうまい。

私としても、結果としてこの旅に満足で青春18きっぷがなかろうと出かけていいと今なら思えるが、やはりこの切符がなければ出かけなかっただろうと思う。背中を押す効果がある。買ったからには乗るぞと思わせるものがある。
また、この経験を通して旅とはいいものだと改めて思った。青春18きっぷが使えない時期でも出かけていくかもしれぬ。間接的にも売り上げ拡大につながっているのではないか。

全国の鉄道網を押さえているJRだからできる芸当かもしれぬが、この「遊休リソースを生かす」「ニーズを掘り起こす」という考え方は当たり前のようでなかなかできていないのではなかろうか。
なにもJRのような大企業でなくともなにかヒントになるような気がする。

ぱっと目先の割引率とかに目を奪われたら成立する商売ではあるまい。今回もどの路線を乗ったのかというアンケートがくっついてきた。その情報をJRがどう使うのかはわからない。だが、アンケートに答えるのは長距離を乗ったコアな鉄道ファン、表面的には高い割引率を得た人ではなかろうか。私は自慢するほどの区間を乗っていないので回答していない。

もしかしたら回答を見て「もっときっぷの値段を上げてもいける」とか「ニーズがあるのだから通常料金で乗ってもらう方策を」とか近視眼的な判断をするのかもしれない。

今後切符の値上げや制約の追加がなければいいのにとは思うのだが。

しかしだ。気に入らないこともあった。

直接面と向かって言われたわけではないが、末端のJR従業員は青春18きっぷを快く思っていないのではないか。
切符を買った大きな駅の担当は対応がよかったが(自動券売機でも買えるのを知らなかったのだが丁寧に教えてくれた)、行く先々の窓口の雰囲気が悪い。
私はこのブログの別の記事で書いたとおり、コンビニの店員さんをはじめ「その場で初めて会った客と従業員とはいえ、全くの他人とは言えまい」と考え、挨拶もするし愛想もよくする。偽善者と批判したければすればよいが、別に悪いことでもなんでもない。改札で切符を差し出すときも「こんにちわー これお願いします〜」と愛想100%である。
ところが、このスマイル攻撃もJRの窓口に通用しないことが多々あるのだ。顎で「いってよし」と無言で対応されたことすらある。彼らの業務の基本は接客だということがわかっていない。旅の始まりだろうが終わりだろうが対応がこれではへこむ。
青春18きっぷは自動改札に対応していない。有人窓口でスタンプを押し、乗り降りのたびに確認を要する。これが面倒だと思っているのか。ブースで暇そうにしているのに。
あるいは彼らから見て割引切符で貧乏旅をする奴らと映っているのか。新幹線でゴージャスに行けよと思っているのか。それならそもそもJRなんて使わないよという層を顧客に取り込んだ商品コンセプトを理解していないのか。
もしかしたら青春18きっぷのユーザがマナー違反ばかりしていてうんざりしているのかもしれぬ。だが、目の前に現れた愛想のいい人に対してそこまで不愉快な表情で対応する理由になるのか。

国鉄からJRになって平均的にはレベルが上がったように思ったが、まさに国鉄をほうふつとさせる従業員が目についた。無論いい人もいたのだが印象としてだ。それが仮に10人に一人でも悪い度合いが突出すれば印象に残るというものだ。

まぁ日頃は新幹線で遠出するだけとか、電車に乗る時は自動券売機と自動改札でとか、従業員と相対する機会が少ない。青春18きっぷだから従業員と相対する。新幹線関連だとエース級だが、普通の駅の普通の従業員はそれなりでこうなるのかもしれぬ。
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年末年始旅 その7

先にスーツケースを転がしながらの旅は置き場所に困る、トイレも困るという話を書いた。
今回持って行ったのは短期で荷物が少ない旅行向きの小さなものである。2輪の小型で30リットル程度である。長期やビジネス・冠婚葬祭の旅だと衣装も増えてこんな小さなケースでは収まらない。4輪で100リットル超のものだってある。
そんなケースでは網棚に上げられない。いくら力があろうとも網棚が狭いから無理だ。クロスシートの通路に置くのも無理だ。
30リットルなら邪魔だと責められたら最悪膝の上に持つことができないでもないサイズである。100リットルではそうもいかない。

もし大きなスーツケースを持って移動するならどこに置けばいいだろうか。これは電車のタイプによる。
詳しい鉄道ファンなら事細かにタイプの違いを説明してくれるだろうけど、寝台車とか特別なものを除けば大雑把に二種類あると思う。一つは客室に出入り口がついているタイプ(わかりにくいな)、もう一つは出入り口から入るとデッキになっていてそこから客室に入るタイプ。
客室に出入り口がついているタイプとは、片側に3か所くらいドアがあって内部はロングシートだったり片側2列のクロスシートだったりする。ロングとクロスが混在しているのもある。近距離の電車に多いタイプ。
このタイプだと出入り口のわきのスペースならば大きなスーツケースを置いてもそれほど邪魔にはなるまい。ただ、そこは立つ人にとっても上等な席なので混雑時には競争率が高い。
ロングシートがある車両ならロングシートに座って自席の前にスーツケースを置く手もある。若干邪魔にはなるがロングシートは通路部分が広いので通れなくなるほどではない。

どちらにしてもスーツケースが転がっていかないように常に押さえておかねばならない。楽ではない。

問題は出入り口から入るとデッキになっているタイプである。
長距離の電車はこのタイプである。停車駅が少ないため乗り降りに時間がかかってもいいからである。新幹線はすべてこのタイプではなかろうか。
客室はすべてクロスシートである。脱線するけど帰省ラッシュで混雑する新幹線の自由席はロングシートにしてつり革をいっぱい用意しておけばいいのにとちょっとだけ思う。

話を戻すとクロスシートであるから通路にスーツケースを置くことはできない。
デッキも広ければいいが、そうでなければスーツケースを置くスペースはない。
スーツケースもある程度の大きさまでなら、車両最後部の席の後ろに若干のスペースがありそこに収まらないでもない。だが大きいものを置くとリクライニングできなくなる。自分の席が最後部ならいいが他人の席の後ろに置くのは迷惑であろうし、1両にたった二つしかスペースがない。
また座席を転回させて背中合わせにするとそこにも若干のスペースが生まれる。しかしこれもリクライニングの邪魔になるし、4人連れでないかぎり他人に迷惑というものである。後ろの席の人にしてみたら、前の席の背中を見ていると思ったらいきなり他人が向かい合わせになるわけだし、目の前にあった小さなテーブルが消えてなくなるわけだ。これは迷惑だ。

そうなると手は一つである。
デッキに置く。そして駅に停車するたびにドアが開くのと反対側に移動させるのである。しかし目の届かないところに置くのも不用心であるし、停車ごとにデッキに行くのも面倒である。仮に何駅も開くドアが変わらなかったとしても、反対側には開いたドア。ひょいと持ち出されやすい場所なのである。日本の現状を見るに荷物目当ての盗難よりもいたずらで外に放り出す阿呆が必ず出る。そしてそれを動画に収めて公開するのであるな。停車直前には荷物を確認しに行かねばならないだろう。

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大きなスーツケースに限定して考えてみたが、ちょっと大きめの鞄、あるいは買い物の包みをいくつも抱えた人にとっても難儀であるのが現状だ。

買い物の包みをいくつもぶら下げて歩くのはあまり品のよいものではない。あらかじめ大きな鞄を用意してまとめるとか、若い人の一人も連れてきて荷物持ちをさせるくらいのことは考えねばなるまい。無計画に衝動買いして荷物を持て余している人というのは見苦しいとは思う。
それはさておき。

小さな鞄や買い物の包み一つであれば膝の上に置いておけばよろしい。
だが、大きな鞄や包みがいくつもあれば膝の上に置いておくのも短時間だ。長時間その姿勢ではつらいものがある。
そんなときは網棚に上げれば済むのであるがそうもいかない場合があることに今回気づいた。

今回の旅は各所を転々とし、首都圏の普通グリーン車にも乗った。自由席なのでグリーン券を買えば青春18きっぷで乗れるのだ。
網棚がなかった。
グリーン車は二階建て車両であった。車両の高さが限られている中で二階を確保せねばならないのと、いまどきのグリーン車はICカードで管理するため席の上にセンサーがある(タッチすれば検札なし)ので網棚がないようなのだ。

グリーン車といえば昔の一等車ではないのか。スーツケースどころか大きな手荷物すら持ち込めない。

前にも書いたが以前東海道沿線の大船に住んでいたことがあって、ごくまれに東海道線の通勤電車に乗る機会があり、せっかくだからとグリーン車にしたこともあった。
当時グリーン車は定期券では乗れなかった(今は乗れる)。普通の乗車券を買った上に千円弱だと思うがグリーン券が必要だった。にも関わらず15両のうち2両あるグリーン車は満席であり、立っている人もいる(立っていてもグリーン券はいる。指定席ではないので)。みな会社員風であり、旅行者ではないようだ。
つまり普通車両があまりに混んでいるので、グリーン定期を買ったり、定期を使わず乗車する会社員が多々いるということである。おそろしい。
そのためニーズがかなりあり、一人でも多く着席できるようにぎりぎりまでスペース節約で設計されているようだ。

今回グリーン車に乗ってみれば荷物が置けないどころか狭く急な階段があったりと移動困難者にはつらいものということがよくわかった。移動困難者であるからこそお金を出してでもいい車両に乗りたいと思ってこれだ。

電車に乗るのは通勤用の小さな鞄を持った身軽な人ばかりではない。
荷物が多い人、ベビーカーを使う人、車いすや松葉づえに頼る人、足が悪い人、太った人、何らかの意味で移動に困難がある人が乗ることもある。
車いすの場合「事前に」申し入れてあれば駅員が帯同して乗り降り用のスロープを架設してくれるなどあるらしいが、到底「気ままな移動」はできない。乗る駅に申し入れて降りる駅に連絡を入れてもらうのである。どの列車の何号車の何番ドアだと連絡をするようなのだ。気ままにはならない。

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都会は過密で移動困難者に配慮するだけのスペースが不足しているし、郊外は逆に路線を維持するのにも青息吐息でこれまた移動困難者に配慮する設備がおいつかない。
郊外では大きめの駅にエレベータがなんとかいきわたったというところであろうか。それも近年のことである。少し前まではエレベーターがない駅も普通にあった。
たとえば車いすの人を階段を使って移動させるには人力に頼っていたのである。
かなり力があって慣れている人でも2人がかり、そうでなければ4人でなければ運べない。車いすには持って力をかけると壊れたり外れたりする部品もあるのでそれなりの知識が必要である。
ローカル駅に4人も駅員が常駐しているはずもなく、事前に手配するか周囲の人(いればね)の善意に頼るほかはない。

そんな状況で運ばれる側も心穏やかであるはずがなく、外出に消極的になるのもわかる。
それでも移動が可能ならまだしも、ローカル線の多くが無人駅でエレベーターどころか屋根すらない、単なる「台」みたいな駅も世に多数あるのである。

それでも車いすに頼る人の場合、問題が決定的であるため世に訴える力もまた大きい。その声がやっと届き現在各駅に辛うじてエレベータがいきわたったともいえよう。
だが移動困難者は車いすだけではない。

松葉づえに頼る人はもちろんのこと、ベビーカーの人、大きな荷物を持つ人、お年寄り、妊婦、怪我その他で(歩けるけれど)足が痛む人(私だ)などは物理的な移動困難者だ。
また視覚や聴覚に問題がある人も移動困難者と言えて、また別の配慮を要する。

そのうち障碍に関係することはそれなりに説得力があるのだが、大きな荷物を持っているとかベビーカーを持つ人、妊婦など「病気でも怪我でもない」人の場合理解が得られにくい。ことにベビーカーの場合昨今話題ともなり、執拗に批判する人もいるので厄介だ(この話は別途書きたい)。

こうした人が容易に移動できないようで豊かな社会といえようか。
過密すぎる都会もお金のない地方も異常だ。何かが間違っているとしか思えない。
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年末年始旅 その6

きままな旅といって思い出すのがタレントの松嶋尚美さんである。なんで、と思われてしまうかもしれない。
一般に旅のイメージがある人とは思えないのだが、彼女が人気番組の世界の果てまでイッテQでロケに出ていたのを思い出すのである。ずっと前にたまたまホテルで見た(拙宅にテレビはないので)。
あの番組はいろんなタレントを世界のいろんなところに送り込む番組である。彼女はあの奔放なキャラクターらしく愚痴を言いつつ、とはいえ企画を完遂しようと頑張る姿がよかった。ひたむきと奔放が同居するお人柄が人気の理由なんだと思う。マカオの世界遺産の広場を見て「こんなん恵比寿にもあんで」というところが秀逸である。そりゃそうなんだがそれを言っちゃ。。というこの面白さ。私はこの人が大好きである。

あれはインドのロケであった。
まだ薄暗い早朝から喧噪のインドの街頭でチャイの屋台の取材。チャイを買い求めて一服するシーンである。そこで彼女は「悪いけどゆっくりさせてもらうで」という。道のわきで座っていたかどうだったか。チャイを飲んで一息つく。もしかすると日程のつまったテレビのロケというものは、撮影で一口飲んだチャイを打ち捨てて次に向かうなんてことが常識なのかもしれぬ。それは知らんが。
いいシーンだった。
ホテルでも車中でも彼女はゆっくりすることを大事にする。それは怠惰だからではない。ゆっくりとすることがその非日常の空間を味わう最高の方法であることを知っているからだ。その土地の人にとっては日常で忙しく駆け抜けてしまうシーンを旅人だから見られるのかもしれない。
全編通じて時間に追われるロケだったらしいが彼女は言う。「(急ぐのも大事だが)それも旅じゃないやん」。
企画とはいえ貧乏旅。そこに喜びを見出す彼女の姿がよかった。名声を得た現在も、無名の時代も本質変わらずやってきたのだろうなとおもう一言であった。

これが今回の私のテーマでもあった。街眺めて一服しようや、電車の時間もあるけどそれも旅じゃないやん。と何度心の中で思ったか。最悪宿にたどり着きさえすればいいではないか。いやたどり着かなくてキャンセル料払う羽目になったところで殺されるわけでもあるまいし(寒いとおもうけど)。ゆっくりすればええやんと心の中の松嶋さんがささやくのである。
筋金入りの青春18きっぷユーザーなら始発から終電まで駆使して乗り継ぎを研究して距離を稼ぐのだろうが、朝はゆっくり、夕方には宿に入るスケジュール。しかも、4〜5時間で着く行程のはずが8時間くらいかけて移動している。途中のんびりしているからである。
これがいい。

で、日本の町中にはチャイの屋台はないのであるがコンビニがある。最近のコンビニは自動のコーヒーメーカーで淹れたてのコーヒーを安く買える。このコーヒーで松嶋尚美を気取るわけである。ま、ええやんと。
今回は出先にたまたまセブンイレブンとサークルKが多くあってこのコーヒーを何杯飲んだか。

セブンイレブンは昨今のコンビニコーヒーの嚆矢だと記憶している。これまでも淹れ置きのコーヒーを出す店はなくはなかったが淹れたてでこの手軽さは初めてではなかろうか。しかも安い。
最近ではさらに美味しくなったというCMをやっているがなるほどそう思う。この値段でこの味であれば文句は出まい。下手な喫茶店より美味しいし、コーヒー専門チェーンと比べても好みによってはセブンイレブンがいいという人も少なくはないと思う。
サークルKのは挽きたてではなく密封したカートリッジにコーヒーの粉が入っているのだと思う。そういうと悪いみたいだが豆をその場で挽くセブンイレブンとてその豆が完全密封されているわけではない。必ずしも挽きたてでなければ負けるというものでもなかろう。またカートリッジであるから有機栽培コーヒーとか種類が選べるのがいい(セブンイレブンはホットとアイスの二種類の豆しか機械に入らない)。有機栽培コーヒーは若干高め(とはいえ缶コーヒー並み)でありたいへん美味しかった。

このコーヒーを店先で飲みつつ、「まぁ電車は来たのに乗ればいいっか」とおもいつつ街を眺めるのである。これがいい。

これがきっちりと喫茶店に入って飲むのではハードルが高いし街も見えない。缶コーヒーではいくらなんでも悲しい。缶コーヒーも近年美味しくなったが冷たいのに限る。飲んでおいしいほど熱い缶コーヒーは手で持てないからだ。
値段は若干張る(それでも安いが)がコーヒー専門のチェーン店でも持ち帰りにすれば同じことができるしそれはそれで好きなのだが、コンビニほど数がない。到底スターバックスもドトールもなさそうなところでもコンビニはある。
美味しいレギュラーコーヒーを街角で飲める時代になったことに感謝である。これも旅の楽しみ。

旅の楽しみは食べることでもある。
なんだ、最初と言っていることが違うではないかと言われるかもしれぬ。確かに名所・名物を追い求める旅ではないのだが、その町で美味しいものは何だと聞いて訪ねていくこと自体は別に矛盾していないと思っている。移り住んだ街に美味しいものがあれば食べに行くだろう。

調べるでもなく安直にホテルのフロントで「この町で美味しいものって」と聞くだけなんであるが、今回とある街ではさらに安直にホテルの隣に名店があった。ホテルを出て15秒である。
この店が名店の誉れに恥じぬ素晴らしい店であって滞在中通うほどであった。昼食夕食と二回行った日もあった。
せっかくよその土地にいるのだからいろいろと食べないともったいないという考え方もあるのだが、この「せっかく」の思想がのんびり旅を破壊するのである。やりたいようにやればいい。せっかくだからとあれもこれもとおもうのがいかん。あとでほかの店があることを知ったならまたその町に行けばいいのである。

ただ、この店に何度も行ったのは美味しいからだけではない。
むろん味は最高ではあった。だが、通うかどうかはやっぱり人柄なんではなかろうか。

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今回の旅の訪問地のうち、一つは再訪した町である。以前所用で滞在し、ある店で食事をしたのだがそれが大変いい店だったのである。再度食べに行きたいというのが理由だ。ここだけは気ままでなく計画的。

この店はメインの料理もおいしいのだが、サイドのおつまみメニュがまたおいしかった。
牡蠣の燻製オイル漬けというのだが、燻製で水分が抜けて濃縮した牡蠣のうまみに燻製の香りがつき、オイルのコクが追いかける絶品であった。
ただ、うまいとはいえ小鉢に盛ったおつまみ。それだけで出かけていくのではない。

当時食べに行ったとき、これはどういうものかと店員さんに尋ねてみた。
学生アルバイトと思しき若い女性であったがこの回答がよかった。料理としては名前通りの説明だったのだが「これ美味しいんですよぉ。あ〜また食べたい」と明るく言うのである。そういわれたら食べたくなるし、そうした明るいやり取りというのはいいものである。
むろん、ずっとおしゃべりをしているわけではなく、適切に客とコミュニケーションをとりつつてきぱきと働く好ましい店員さんであった。
外食の満足の半分は有能で人柄のいい店員さんから生まれるものだと思う。いくら美味しくても無愛想な店では食べたくない。

今回再訪したところ店は健在であり、牡蠣の燻製オイル漬けも健在であった。メインの料理の味も落ちていないと感じた。
だが、フロアの店員がどうにも。気が利かない、愛想がない。会計時にこちらが「牡蠣の燻製オイル漬けを食べにはるばるやってきました」と話題を振っても「はぁ」という反応。面白くない。
まぁ話の相手をしてくれと言うのではないが、水をくれと言われても持ってこないとか、来店した客がいるのに客席を見ていない(ひまそうなのに)から注文するのに声をかけなければ気付かないとか、明らかに前述のアルバイト店員さんよりレベルが下がっていた。

こうなると料理がおいしくても満足は半分である。悲しい。
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年末年始旅 その5

拙宅はそこそこ都市圏で、とはいえ周辺の住宅地のそのまた周辺のはしっこに住んでいる。
微妙に田舎だが、電車に乗ればお作法は都会である。
ということも、他の地方に行ってみて気づいた。
日本という国は他国に比べて文化的に均質化が進んでいるといわれる。国土の広がりは東西南北に広いが、その距離に比べれば文化的な差が小さいというのだ。
なるほどそうだろうが、やはり違いはあるなと思った。方言のようにわかりやすく研究されやすいものではなく、ほんのちょっとした振る舞いが違うことに気付いた。

他人に対する距離感やお作法の差である。
あまり意識されないかもしれないが電車の混雑に対するお作法というものは歴然としてある。
要するに他人の邪魔にならずスペースを節約するお作法であるのだが、なにも立錐の余地がなくなるまでは構わなくていいものではない。その空間に複数の人がいれば守るべきお作法である。お作法は直接的に人に迷惑をかけずとも自らを律して、「私はこういう人間でござい」と表現するものであるからだ。
たとえば、電車やバスで空席が目立つほどであっても荷物で席を占有することは作法に反する。それは「よそ様より自分の荷物が優先の人間ですから」と宣言しているに等しいからだ。それが作法というものだ。無意味な形式主義ではない。そうして立ち居振る舞いを律する習慣をつけることでたとえ自分の気が抜けていても他人に迷惑をかけなくなるものなのだ。

自分の荷物で席を占有する。これは作法違反とされている。都会でも見かけないわけではないのだが、それをやるのは無神経なおじさんおばさんであると相場が決まっている。周囲も白眼視する。
ときに買い物袋がたくさんあって膝に乗せきれない場合もあるのだが、そもそもそんな買い物をすることも、そんな買い物をするなら対策をしないことも白眼視の対象である。みっともないからである。
まず荷物持ちに若い人を連れてくればすむことだし、それが無理でも大きな鞄なりなんなりを用意すればいいのである。自分の都合で荷物が多いから座席に置きましたと許されるはずがない。これが作法である。
それをあえてとがめだてする人もまたいないが、みっともないとおもわれているのは事実である。

ところが地方によっては当然のように荷物で座席を占領する。
席の座り方も緩い。電車の7人席に6人どころか、もっと緩い密度で座っても平気である。
むろん、周囲に立っている人がいないのであればそれもありなのかもしれない。そもそも立って乗る人が出るなんて珍しい路線であれば余裕をもって座るのが常識でもおかしくはない。
だが、立つ人がいてもお構いなしである。立つ側もそれが常識になっているのかなんなのか。

また、荷物の置き方というかなんというか、全体の振る舞いが「他人が近くに来るのは不愉快ですから」光線を発しすぎである。4人掛けのボックスシートに一人で座るのが当然。誰か来るなよ来たら不愉快だよという光線を発しているかのごとく感じる。
混雑に慣れていないからパーソナルスペースが広いのだろうか。

もっと混乱するのが乗り降りである。
降りるほうが先。常識である、と思っていた。降りる人が降りてくれねば乗る人も乗れず、電車は遅れ。回りまわって迷惑するのは自分である。
ところが今回、降りる人がいるのに押しのけて乗ってくる人をかなりの確率で見かけた。
混んでいるからこそ席を狙うのかもしれぬがあまりに不作法である。

一般的には地域による習慣の違いは違いであってそこに優劣を見出してはいかんとは思う。たいていの場合は。
だが、電車でのマナーなんてのは他人に不愉快を感じさせたり、実際に乗り降りに支障をきたしたりと決して習慣の違いで片付けてはいかんとおもうのだが。

考えてみれば、基本は車社会で混雑する電車バスも限定的な場面とすれば、混雑した場での振る舞いというものが洗練されないのも仕方あるまい。
しかしそのままでよいわけはなく、あえて明確に啓蒙し学習する必要があるのではなかろうかと思うのである。
いかに車社会の地方と言えど、この地方は作法がなっていないと思われたら悲しいではないか。今一度自分の地方の作法を見直してはどうか。それを自らの胸に収めるだけでなく、周囲の人との話題にしてみてはどうか。レベルが低いなんて思われたくないでしょう。
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年末年始旅 その4

青春18きっぷで長距離移動なんて酔狂なことをする人なんてごく一部なんだと思っていたがなかなかメジャーな趣味らしい。

通常は混まない列車が青春18きっぷ趣味にあっているということがあるようだ。おそらく鈍行でも長距離を行くとか、長距離の旅の乗り継ぎのかなめになるとか意味がある列車だと特異的に混むことがあるらしいのだ。
エレベーターで乗り合わせた(私もスーツケースを転がしているのでエレベータだ)おばあちゃんが連れに「こんな混むなんてな、あの、なんや青春なんとかとかいうあれでな、みんな乗るんや」とあきれていた。まぁ私もその一員なので押し黙るほかはない。

まぁいつも空いている電車が混んでいるのも迷惑と言えば迷惑かもしれぬが経済効果もあるやもしれぬ。青春18きっぷにかぎらず、何かイベントがあれば混むことはある。単に混むのは仕方ないと容認してもらいたいと思うのは身勝手だろうか。まぁご容赦願いたい。
ただそれを超えてあきらかな騒動はいかん。ある程度集中したら避けるくらいの見識が必要だ。なにせ乗り放題切符ではないか。なにがなんでもこの列車に乗るんだと血相を変えてはいかん。

どうも、一日でどれほど移動したかを競う鉄道ファン心理があるのかなんなのか、タイトな乗換を前提に旅程を組む人が多いらしいのだ。
都会ならともかくローカル線では乗換は基本的にタイトだ。外すと恐ろしく待つ。
数少ない長距離の普通電車を降りると次の長距離の電車までほんの数分。おそらく良かれと思ってそういうダイヤを組んだのだろう。本数が少ない分乗換に考慮されているのが多い。
あるいは乗換待ちで2時間とかだ。都会のようにすぐに次が来るわけじゃない。

私が乗った電車もそうだった。長々と乗ったあと5分もなく乗り継ぎ。
でも効率よく移動するだけが旅じゃないしと私は一本やり過ごして乗り換えることにした。青春18きっぷは駅の出入りが自由だ。せめて駅前だけでも知らない街を見たいし、ゆっくり休憩したい。地元の商店で買い物もしたい。
それで二時間ほどある乗り継ぎ時間を持て余すこともなく、次の列車を余裕をもって待った。
さすがは本数のないローカル線。目当ての列車は30分近く前にホームに入線する。乗り込んでみたものの車両は閑散としていた。周囲の写真を撮りつつお茶を飲みつつゆったりと過ごした。名所でもなんでもないホームからの風景も旅人にとってはまた珍しい。これもまたよし。

ところが、待ったところでこの列車にも「タイトに接続する次の列車」がある。私が乗ってきた列車の次が到着して接続するのだ。
間もなく発車という閑散とした車両にどどどと走ってくる一団が。階段を走り下って駆け込んでくる。
別に発車間際ではない。まだ数分はある。また座れないほど混んでいるわけでもない。よりよい席を奪おうと走ってくるのである。どうやら進行方向に向かって座れて、好みの側の窓際に座りたいらしいのである。席の奪い合いに負けた若者が、別の席に突進していく。何やら昔のバーゲンセールの光景のようである。表情は必死、他人を押しのけようとするその姿は見苦しい。
こちらは2時間前の列車で到着し、ゆったり座っているわけである。
どちらが豊かな旅かは考えていただきたい。

別に走らないと乗り継げないほどタイトなダイヤでもない。どうしてそこまで。
・効率よく乗り換えたい
・都合のいい(たぶん景色がいい)場所を取りたい
・席に座りたい
これらすべてを満たすために走って人を押しのけて必死の形相。割に合わない。当人は満足しても他人からあさましいと思われてまですることとは思えない。そうは思わないのだろうか。

私のように一本見送ればゆったりといい席に座れる。
いい角度で景色を見たいならドア近くに立てばいい。ドア近くに行けないほどには混んでいない。見たところみんな10代から20代の若者。たかだか2,3時間、立っていられない年でもなかろう。

まぁあさましいものを見ただけで直接的な迷惑をこうむっているわけではないのでどうでもいいが、せっかく若い時間を使っているのだ。豊かな時間にしたほうがいいのではなかろうか。
その分別がないというのが若いということなのだろうか。
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年末年始旅 その3

ただ車窓を眺めているだけで気づくことがいろいろある。
土地が足りない、人口過密だなんて言っているのはほんの一部の地域なのだということがよくわかる。山間部やら崖の迫った海岸部は住みづらいから閑散としていても当然だが、たいして利用されていない平地が多々ある。農地でもなく住宅もまばら。そんなところが多々ある。

ま、それは当然のことであり、全国津々浦々ぎっちり利用されていたらそれこそ変なのである。
ただ、その中に妙な貧しさがある。

駅前にがらんとした住宅地が広がっていた。新駅を作って開発したのか、住宅地ができたから新駅ができたのかというところか。新しいせいか駅も住宅地もがらんとしている。
土地がゆったりしているのだし、これから開発するのだから良質の住宅を建てればいいのに、妙にせせこましい住宅が数軒身を寄せ合うように建っていた。周りはがらんとしている。
地価の高い大都会周辺によく見られる、狭い敷地にぎりぎりに建てられた住宅。内部がどうなっているのか想像もつかない3階建て。
ぱっと見た目新しいが、あれではいかん。
狭苦しいのは住宅として貧しいし、防災上もいかん。
本当に土地が足りないのならばむしろ中層の共同住宅にすればいいのである。
むろん、そんなぽつんとしたところに中層の共同住宅を建てるほどのニーズはない。
そうなる理由はいかにローカル線周辺の土地とはいえ高いからだ。高いから広い土地は買えない。だから狭い土地を買ってそこにぎりぎりの家を建てる。
そこに貧しさがある。家を建てた人が貧しいというのではない。土地政策を中心とした日本のあり方が貧しいのである。
そもそもピカピカの3階建ての住宅を建てられるお金があるのにあんな狭い土地しか買えないのがおかしい。周りに使っていない「なんでもない土地」があるというのに。バランスを欠いている。

また、駅近くの一等地に(駅が超ローカルで店の一つもないのだが)大きな墓地が広がっていて、その周辺に住宅がちまちまと建っているという駅もあった。日当たりのいい平地を墓地が占め、少々悪いところに住宅がある。
おそらくもともと有力な寺院があって、所有する土地のうち周辺の「あまりよくない」ところだけを住宅用に売り出したのであろう。

墓地に日当たりのいい最高級の土地を当てる必要はないのではないか。人の考えはそれぞれだが生きている人間が大事だ。

土地を持っている人が好き勝手に儲かるように、気持ちいいように土地を使うことがあまりにまかり通りすぎではないのか。
土地の用途と価格をもっと制限してもいいのではないか。居住用住宅なら税金は安いが墓地なら高いとか値段を高くすると累進的に取引税が高くなるとか狭い宅地は認めないとかやりようはいくらでもある。そうすれば住宅着工も進むし、優良な不動産ストックも進むし、付帯する産業も栄える。土地を持っている人に慮る政策がいかんのではなかろうか。

むろん、土地のバブル的価値、つまり実効的なあるべき価値よりも帳簿上の価格が高いことが企業の資産になっている側面があり、地価を下げる政策は経済的インパクトは大きかろう。当初失われるものも大きい。だが、どこかで抜本的な改革をしないと土地が高くて動けない、土地を売ろうと思っても高く売れないから売らないと経済が徐々に閉塞する気がする。
弊害は承知の上で一度これは壊したほうがいいと思う。土地を使う経済的な利益と土地の値段がバランスを欠いている。土地の値段は都会も地方も1/3から1/4にしていい。地主階級が反発するし固都税が入らないから政府は絶対に何もしないだろうけど。

車窓の光景からそんなことも考える。
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年末年始旅 その2

前回席は狭いわスーツケースはおけないわ混んでいるわで駅弁が食べられなかったことを書いた。
まぁ駅弁はあきらめても、途中駅のレストランで食べることはできる。いや数日くらい食わずとも死なない(そんな我慢をするために旅に出るのでもないが)。
困るのはトイレだ。

スーツケースを引きずって個室に入れるものではない。
たいてい狭くてドアを閉められない。
しかも、古い駅に多いのだがトイレに入るのに階段を上らねばならないタイプがある。
配管の都合なのか古の慣わしなのかしらんが、数段の階段を上がったところにトイレの入り口があることが多い。そこで重いスーツケースを引きずりあげるのは苦難の業だ。
さらに、古い駅で改修されていないようなところでは便器は和式だ。
個人的な話だが私は現在膝が悪い。歩く分には問題はないがしゃがむのはつらい。
そういったわけでどうにも普通のトイレには入れず、身障者やおむつ交換に使う多目的トイレのお世話になった。ぱっと見た目歩けて子供も連れていないので奇異の目で見る人もいるかもしれぬが仕方ない。トイレの個室のドアを開け放ち立って用をするわけにはいかぬ。あまりに豪傑でファンが増えるかもしれぬが人間失格だ。

これは駅のトイレのことだが、車両のトイレはさらに深刻だ。数十分ならトイレがなくとも我慢できるが、青春18きっぷの旅、ときには乗車時間が3時間を超える。トイレがないと困る。
都市近郊を走る新型車両のトイレは改善されているようだが、地方を走る古い車両はひどいものだ。狭く、和式だ。そして臭い。

乗車中なので狭いとはいえスーツケースは席においておけばよい。貴重品だけ小さなバッグに入れていけばなんとかなる。それでも駅に停車中に用を足すのは心もとないが、スーツケースを置いて席を離れることができる日本の治安に感謝ではある。
しかし、和式の問題はどうにもならぬ。

駅弁を食わせろというのは個人のわがままとしても、トイレの問題は個人のわがままとは到底いえまい。
スーツケースがあって邪魔というのは一人旅だからかもしれぬが、一人旅は異常なことか。観光を一人でする人は少数派かもしれぬがビジネス旅行もあるだろうに。
ましてや足が痛いのはどうにもならない問題なのである。

ここで言っていることはほぼ車いすや松葉づえに頼る人の不便に通じる。曲がりなりにも自分の足で歩ける自分と同列に扱っては失礼というものだが、少なくとも私が不都合だと思うものは車いすや松葉づえに頼る人にとって不都合であるのは当然である。

大雑把な話として、古い駅や車両あるいは大都市から遠い地方にこうした問題が大きいと思う。

このままでいいのか?
これでお・も・て・な・しの国とはちゃんちゃらおかしい。日本のトイレは外国人旅行者には好評で清潔で使いやすいと言われている。だが日本が知られれば行き届いた都会以外にも目が向く。もう一頑張りだ。私ごときに突っ込まれるようなトイレではいかん。

何度も言うが人間一日や二日食わずとも生きていけるがトイレなしでは一日持たないのである。あるいはその辺に垂れ流し。
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年末年始旅 その1

こののんびり移動旅は一人旅でもある。
一人旅に抵抗はないが別に一人にこだわるわけでもない。ただ、周囲に賛同してくれる人がいないだけの話だ。みな「遠いなら飛行機か新幹線じゃなきゃいやだ」という。「普通の町に滞在? そんなことでわざわざ遠くに行く理由はない」という。どうも私だけずれているようだ。
それでスーツケースに荷物を詰め込んでごろごろ転がして一人出かけたのである。

やってみるとこのスーツケースの一人旅というのが思いのほか厳しい。

当初の計画では駅弁とお酒を買って景色を眺めつつと思ったのであるが甘かった。
やはりロングシート(進行方向に対して直角に向いて座る席)で弁当を広げるのははばかられる。コップを置く場所もない。クロスシート(進行方向に対して平行に向いて座る席)で、せめてコップを置くスペースがほしい。
※クロスとロングの説明で直角と平行が逆になったかのようであるが、椅子の長手方向つまり座ってみると横方向が椅子の向きということになっているのでこうなる。椅子の長手方向が進行方向と平行だとロングシートで、人間が座るのは進行方向と直角になる理屈だ。紛らわしい。

片側二列のクロスシートで窓側に座れば条件は満たす。車両のタイプは様々あれど、たいてい窓枠のところにコップを置ける程度のスペースがある。
ところがである。そこにすわるとスーツケースを置く場所がないのである。
網棚はあるが、重いスーツケースを上げることなんて到底できない。力持ちの人が手伝ってくれたとしても、下ろすときにいなかったらどうなるか。
かといって足の前に置けばいかに短い私の足とはいえどうにも座れない。通路側の席であれば幅の狭いスーツケース程度なら通路におけなくはない。だが、それではコップを置く場所がない。
これががらがらに空いている車両ならなんとかなる。自分は窓側に座り隣の席の足元にスーツケースを置けばいいのである。
しかし、車両は混んでいる。都会の通勤電車ほどじゃないけれど立っている人もちらほら見える。到底そんな真似はできない。それどころか電車はさらに混んできてわりとぎゅーぎゅー詰めになってきた。もはや弁当を食う雰囲気ですらない。飲み物だって顰蹙を買うというものだ。

結局駅弁はあきらめて乗換駅のホームのベンチで食べた。乗換駅でも駅はがらがら。
たいして利用客がいるわけでもないのになぜ電車がぎゅーぎゅーなのかといえば明らかで、車両の数少なく、本数も少ないからだ。3両編成で30分に1本かもっと少なく、それできゅうきゅうに混んでいるというのは間違っている。もうちょっとなんとかならんかとおもったのだが。

ローカル電車でのんびり駅弁なんてのはもはや幻想なのかもしれぬ。
荷物とコップをゆったり置けるような設備はなく、客がギューギューに詰まるほどに車両の数も本数も絞る。ゆったりさせてもお金にはならないからぎりぎりでいいという判断なのか。
もちろん、日本にはもっと空いている路線もあるんだろうけど、そうなれば廃線になったり、そこまでいかずとも駅弁なんて売ってなかったりということになるのだろう。

商売として正しいのかもしれぬ。駅弁を食えるような隙間を残すのは「非効率」なんだろう。それを要求するのはわがままなのかもしれぬ。徳川家康は百姓は生かさず殺さずと言ったらしいが(言い回しは違ったらしい)、JRは客は生かさず殺さずとでも言っているのか。
今やっている商売として効率的であろうとも、余裕から生まれる商売もあろうかと思うのに。これじゃ車に乗るよね。地方が車社会というのはわかる。

別に私はただでゆったりした座席をよこせ、駅弁食わせろと言いたいわけじゃない。なぜ、旅行者向けの一等車がないのだといいたい。そうした席は新幹線や特急にしかない。鈍行にもあってほしいのだが、商売としてなりたたないと考えられているのだろう。すべての列車とは言わない。限定でも一等車を連結すれば全国からファンが集まると思うのだが。

青春18きっぷを買ったが別にお金をケチりたいわけではない。
JRの普通車限定という枠を作ること、そして切符を買ったからには乗ってやろうという背中を押す気持ちがほしかったのである。お金じゃない。そういう人は多いのではなかろうか。だから、青春18きっぷにプラスして一等車のチケットを買えばという旅は受けると思うのだが。

JRは列車が単純な移動手段ではなく旅を楽しむための物だという宣伝をしているが、まさに単なる移動手段で、客があふれて乗り切れないことがなければ混雑しようが待たされようが文句を言うなという商売をやっている。
実質競争相手のない商売でやりたい放題なんだが、仮に私が株主だったらサービスを上げて売り上げを伸ばす戦略を支持するね。奴らは今の枠がキープできればいいし広げるのは俺の役目じゃないしと思っている。国鉄か!
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年末年始旅 序

全く持ってタイミングを逸した話題だが、先の年末年始は旅行をした。年末年始なんぞ自宅にいてもかえって煩わしい。旅行だと言い切ってしまえば気が楽だ。

私には微妙な鉄分が含まれている。ヘモグロビンが貧血がと言いたいわけじゃなくて、鉄道趣味のことである。
あまりにもほんのわずかの鉄分で、ちゃんとした(?)鉄道趣味とは到底言い難い。趣味というのもおこがましい。
鉄道は巨大なシステムであるため、装置や設備や運行システムやら趣味としての観点が広い。いろんな人がいる。100年以上に及ぶ歴史のあるものでもある。さまざまな分野に深いファンがいる。やたら車両の形式に詳しい人がいるし、物を集めている人もいるし、全国の路線をのりまくる人もいる。みんな熱い。
私にはその記憶力も熱意も足りないのである。
それでも単に電車に乗って早く移動したいのではなく、移動する過程をゆっくり楽しみたいという気持ちはある。のぞみに乗るよりこだま(できればグリーン車)。新幹線より在来線。特急より普通電車。
まぁタモリ倶楽部の鉄道をテーマにした回を面白くみられる程度の鉄分と思っていただけたらいい。

ま、そんなわけで今回はじめて青春18きっぷというのを買ったのである。
多くの人がご存じだと思うが期間を区切ってJRの在来線自由席が乗り放題になる切符である。
5日分あるいは5人分。一枚の切符に5個スタンプを押すようになっており、スタンプひとつで一人一日乗り放題である。同じコースで移動するなら最大5人で使うこともできる。
在来線自由席限定なので新幹線は自由席であっても乗れない。特急・急行は基本的に乗れないが、新幹線が通ったせいでJRの普通列車が通らなくなった(第三セクター化したのかな)区間は特急の自由席のみ乗れるとか。普通電車ならグリーン車自由席も券を買えば乗れる。指定席はだめ。と聞いた気がする。
買える期間も使える期間も限られているのでむつかしいのである。

ちなみにこのブログは情報の正確性に関してはダメダメなので信じないように。青春18きっぷがあるのはうそではないが、特急云々はうそのような気がしてきた。

まいいか。

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私は旅行は好きなのであるが、いわゆる観光地を巡るような忙しい観光旅行は嫌いだ。
観光名所神社仏閣など嫌いではないが人ごみに行きたくないのである。忙しい日常から離脱したいのに人ごみに行ってどうする。
かといって、山奥にこもりたいわけでもないし(アウトドア嫌い)、さびれた山村を訪ねてなんて旅がしたいわけでもない。だいたいどこに泊まるの。山村の見知らぬ家庭を訪ねて泊めてもらうなんて、コーディネータ会社に頼まないとできないのよ。そういうテレビ番組あるけどね。

普通の地方都市に長期滞在。これが理想である。
駅があって、駅前にマクドナルドがある程度に開けた普通の町。駅の反対方向に5分もあるけば住宅街。そんな町。ま、ビジネスホテルくらいないと滞在できないけどね。
普通の生活を知らない街でやる。スーパーのお惣菜の品ぞろえの違いに驚く。味噌汁の味が違うことに驚く。引っ越し直後みたいな感覚を楽しみに行きたいのである。

とはいえ一か所に滞在だけでは鉄道旅にならぬ。移動しては滞在を繰り返して青春18きっぷを使い切ってきた。
今回はそんなのんびり移動&滞在旅で考えたことを何の脈絡もなくつづっていこうという趣向である。いや、趣向なんてものではないんだが。あまり旅行と関係なくとも旅行の時に考えたことは何でも書く。はてさて何回続くか。
今回で終わるかもしれぬが。せめて1回目は書きたい。
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電車車内の安全はハードでは実現できないのかもしれない 車内検札を頻繁に

犯人が阿呆であることは否定できないがどうにも理解できないその場の雰囲気。

引用ここから====
女性のふくらはぎ45分つかみ続けた県職員停職
2015年07月17日 11時50分

 広島県は16日、JR山陽線の電車内で女性の脚を触ったとして県迷惑防止条例違反容疑で現行犯逮捕された、県北部総務事務所の男性職員(49)を停職3か月の懲戒処分にした。

 職員は同日付で辞職した。

 発表によると、男性職員は6月20日朝、走行中の電車内で隣に座っていた女性のふくらはぎを約45分間つかみ続けた。県の調査に対し「深酔い状態で意図的ではなかったが、やったことに間違いはない」と話したという。
2015年07月17日 11時50分 Copyright コピーライトマーク The Yomiuri Shimbun
引用ここまで====

10秒とかならわかる。わかるというのはこの犯人の行為を正当化するいみでの「わかる」ではなく、周囲の状況としてそういう事態に陥ったとしても無理はないという意味である。
10秒間なら周囲も「ん!?」と反応できなくともわかるという意味だ。

45分間。
ローカル線に乗る時間としては長い。果たして被害者の女性はどのような状況であったのか。自分が降りる駅の前だったのか、過ぎてしまったのか。逃げられないほど強くつかまれていたのか恥ずかしくて声を上げられなかったのか。
当然この女性に非はないし、過ぎたことだと放っておいてほしいとご本人が思っているかもしれない。だがこの辺のディテールを報じておくのは悪いことではない。今後のためだ。

被害者女性が嫌がっているそぶりを見せようが見せまいが、45分間他人のふくらはぎをつかんでいるという光景は異常だ。
周りは気付かなかったのであろうか。

周囲が気付いていながら見て見ぬふりをしたとしたら悲しい。誰しもが加害者49歳男性に対抗できるわけではあるまいが若い男性もいようし、仮にひ弱な人でも束になってかかれば対抗できる。加害者がターミネーターのように強かったわけでもあるまいに。
たとえ周囲に女性一人しかいなかったとしてもなにもできないわけじゃない。たいてい痴漢行為をするような連中は軟弱で妄想を育てたような奴であって、一人で弱そうな女性を狙うものだ。そこにか弱き女性とて一人加勢しただけで状況は逆転すると思う。
無論例外はあるわけで相手を見て行動せねばいかんとは思うが、即座に警察に連絡し、その場でできることはやること。それが人の道だと思う。

痴漢をするような男は大したマッチョでもあるまい。被害者が怒って殴り飛ばせば良かったのかもしれぬ。それをできる体力と精神力がある人はそうすればいいと思う。触られて殴ったら過剰防衛となるのかね。冤罪につながることはいかんので目撃者として第三者を巻き込むのが原則だと思うが周りに誰もいなかったら実力行使だ。
冤罪がありうるほど周囲に人がいれば目撃者に事欠かないわけだし、周囲に人がいなくて殴り返したなら殴られたほうにそれだけの理由があるだろうよと判断されるだろう。過激な意見だろうか。法律的にどうなんだろうか。法律はこうした状況の被害者を即座に救う能力を持っているのか。

とはいえ、すべての人に反撃する能力を求めるわけにはいかない。そもそも卑劣な痴漢は気の弱い人を狙うのだ。気が弱いあるいは気が弱いように見えるのは決して責められるべきでことではない。

広島のJR山陽線と言えば幹線とはいえローカルだ。
車両も人を詰め込むことより居住性を重視している可能性がある。ロングシートでなくクロスシートであるとすると、陰に隠れて女性のふくらはぎをつかんだら他人に見えないかもしれない。そして悲鳴を上げることすらできない被害者。
降りることすらできず45分間というのが真相ではなかろうか。

これは車内環境そのものを見直さなければならないのではないか。

とはいえ具体的には難しい。
全部ロングシートにしてしまえば異常行為も丸見えでいいかもしれぬが、座れない人が多々でる。クロスシートでも全部ボックス固定にすべきか? これも不便だ。飲み物一つ置くことができないから旅行者や仕事帰りに一服という人に不便だし、そもそもボックスではやはり死角が出る。

完璧な解決策は出ないのだがあらゆる状況にプラスなのは車掌が車内を頻繁に回ることだ。
最近は交通系のFelica(スイカとかイコカとか)が普及して車内検札がなくなった。仮に検札で車内精算が一件もなかったとしても意味があったのではなかろうか。
そして、車内検札に回れないほど混む列車の解消も促していることになる。

よく「不審なものを見かけたらお近くの乗務員に」とアナウンスされるが、乗務員近くにいませんから〜〜〜〜〜〜残念っ!!(いつのネタや)。
posted by Mozzo at 20:42| Comment(0) | TrackBack(0) | まじめな正論! | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

東京非在住 在勤の労働者に課税!? 石原老の老耄よ 

元東京都知事の老耄が激しいようだ。いやもともとこうだったかもしれない。
またも乱暴な放言だ。

あのマンコスタジアムの費用高騰を受けて国から都へ500億円の追加負担を求められた。まぁこれは撤回となったので旧聞である。マンコスタジアムとは何だと思われた方は過去の記事をみていただきたい。このブログではマンコスタジアムで通しているのだ。
さて、これに対して石原老は東京外在住かつ東京在勤の労働者に付きに1000円の税金を掛けようと言い出した。算盤ぱちぱちとはじいてみると一年で600億円とか。
完全に頭がおかしい。目の前に見えるものにぱっと飛びつくカエルの如し。思考というのがない。今回口悪いで。

政治家はどのように税をかけるかを決定できる特権的な立場にある。それは我々の代表だからだ。社会をどのように運営するかを託したので我々にどのような税をかけることを決めるかの権限がある。
代表なくして課税なし。
端的ではあるが現代民主主義を支える重大な概念である。課税を決められる立場だからこそ原則で縛らねばならないのである。

これは少数派に対して最大限配慮したうえで最終的に多数決に従うとか、選挙制度を持つとか、現代政治の大原則の一つであって、政党や政治家によって考え方が違っていいというものではない。国会に出るときには服を着るべしというぐらいの大原則だ。

石原老はここを全く理解していない。
目についたから、算盤が合うからと課税。失格である。

誰しも税金を余分に払うのはうれしくない。
だからこそ課税には根拠がなければならない。

税金には異なる目的が併存している。私が思うに三つある。
第一に当然ながら社会を運営する費用を公に拠出することである。
「政府とか関係ないし、おれの稼ぎを税金で持っていくなんておかしくね?」という阿呆もいる。アメリカに多いような気がする。偏見か。
だれしも道路・水道・医療などなど社会インフラ・社会サービスに依存して生きているのだからその費用は負担せねばならぬ。「おれは山奥で自給自足で暮らすから税金なんて払わねぇ」といったってその治水治山にも公費は使われているわけだ。また、その山奥とていざ山火事があれば消しに来てくれるわけだし、他国に侵略されないように大きく守ってくれていることに公費は使われているのである。国家あってのことなのである。だいたい山奥で自給自足するとかおめーの土地じゃねーだろと思うのだが、アメリカってのはそんなにさくっと原野山野を買えるのかね。

第二に富の移転である。
社会を運営する費用を負担すると言って富める者と貧しいものが同じ負担というのは平等を欠く。この辺なぜ平等でないのか、同額でいいではないかという主張が米国で強いような気がするが偏見か。
社会費用を分担する話に比べると富の移転は根拠が緩いと言えば緩い。金持ちの立場としてなんで?と思うのはわからんでもない。
だが、貧者を支えなければ社会は成り立たず、結果富者といえど苦しむことになるのだ。この辺米国は甘いような気がするが偏見か(しつこい)。
つまり、言い方は悪いが富者は貧者を搾取することによって成り立っている。富者はその富に適う労働をしているだろうか。金を持ち動かす権限を持っているから富者であって多くは具体的に何も生み出していない。手を動かして物を作るとか、荷物を運ぶとか売るとか、アイデアを実現して世に送り出すということをしていない。富者が富者でいるためにも貧者を支えねば社会は成り立たないのである、

さて、ここまでは当然の話。
第三の目的は経済のコントロールである。これを税金でやるべきか否かは異論があるが、現状他にかわる方法がない。
経済的に成り立ちにくいが発展してもらわねばならないという分野がある。
広い意味での補助金が支給される。
逆に経済的に成り立っちゃうんだけど伸びてもらうといろいろ困るという分野がある。煙草、酒など依存性のある商品、ギャンブルなど健全ではない消費生活などなど。
この辺を違法として禁止するほどでなければ課税するのは妥当だ。

無論これらはきっぱりと別れるわけではない。
石油製品に税が課されているが、使いすぎは環境に悪いから減らしたいという観点もあるし、石油をバンバン使えるような人には負担してもらうという観点もあるし、石油を使って交通渋滞やらなにやら引き起こすから対策費を負担してもらおうという観点もある。

だいぶ脱線したが、税をかけるとしたらこれらの観点から説明できなければいかんのだ。

なぜ都に通勤する人が税負担すべきなのかさっぱり理屈がわからない。

都の社会インフラに依存しているからか?
ならば、仕事をしている間は地元(神奈川県とか千葉県とか)のインフラに依存しないわけだからその分リターンがあってプラスマイナスゼロにせねばならない理屈だ。
周辺の県の議会にも住民にどのように税をかけるのかの権限があるわけで、それを侵害している。それを意識できない石原老は愚かだ。
地元と都の社会インフラを両方支えるというのは二重課税である。当然自治体ごとのアンバランスというのはある話で、それは地方交付税で解決しているというのが建前だ。故に東京にも地方交付税をよこせという議論であれば入り口としては正しい。

オリンピックは東京だけでなく周辺自治体にも恩恵がある(そんな恩恵いらんのだが)ゆえに恩恵を公に還元せよ(富の移転が根拠)という根拠なら、たとえば神奈川県の内側たとえば湘南あたりに住んでいて、川崎に勤める人と多摩川超えて蒲田に勤める人に差を設ける合理的な理由はなんだ。
だいたい、東京に勤めているからといって、月に何百万円も稼ぐ企業の役員やらコンサルタントもいれば、県内で仕事が得られず仕方なく都内の案件に飛びつかざるを得ない非正規雇用の人もいるわけだ。どう考えても富の移転ではない。

では第三の経済コントロールとして意味があるか。
当然これから東京で起業しようという人に圧力になる。なら埼玉でいいっかとか。
東京以外に拠点を持っている会社で、「東京本社って横浜に移したほうがいいかなぁ。実態横浜だしなぁ。でも東京に本社があるってのもブランドだし」なんて悩んでいるところの背中を押すことになる。数は少ないと思うが東京を衰退させるな。過密解消でいいのかもしれぬが。

まぁその他精密に考えたらいくらでも問題が出てくると思う。さらっと考えただけでこれだ。

税金は何でもダメダメという視野の狭い人もいるが、払えて払うべきものであれば反対しない。だが石原老の考えはダメだ。
現実問題として個人のことを言いたくないが、都内に勤めていない私にとってこの案が通れば個人的には得だ。都内在住の人と在勤の人で費用増加をかぶってくれるなら私の負担は増えない。国が負担するなら回りまわって私のところに来る。それでも原則から石原老の案は反対する。そういう話じゃないのだ。

すべからく課税は理屈を通すべし。それができない政治家・元政治家は失格なのである。
posted by Mozzo at 19:47| Comment(0) | TrackBack(0) | まじめな正論! | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

犬猫がかわいいならブリーダー規制を

このようなことが起きていることは知っていたが、すでに「多頭飼育崩壊」という用語があることは知らなかった。少々長いが引用する。

引用ここから====
ネコの「多頭飼育崩壊」防止へ届け出義務付けも
2015年07月18日 18時01分

 猫が繁殖して増えすぎ、飼い主が飼育を放棄する「多頭飼育崩壊」が後を絶たない。

 猫の健康問題に加え、悪臭や鳴き声など近隣への影響も出ている。多頭飼育をする飼い主に届け出を義務付け、指導・監督にあたる自治体も増えており、具体的な対策を取らない県に対し、愛護団体からは「神奈川でも届け出制を導入するべきだ」との声が上がっている。

 ■響く鳴き声

 「かわいくて手放せなくなった」。45匹の猫を飼う県内の50歳代の女性は涙をこぼした。部屋にはいくつものケージが置かれ、中には毛並みや皮膚がボロボロで、病気になっている猫も。助けを求めるような鳴き声が外まで響く。

 女性は約10年前、ブリーダーを始めようと雄雌の2匹を飼った。子猫が生まれ、愛着が湧き、一匹一匹に名前をつけた。だが、一部に不妊・去勢手術を受けさせず、数がみるみる増えた。

 女性の夫がボランティア団体に「SOS」を出したのは今年5月。猫たちは団体に引き取られた。女性は「私にとって家族でした。でも、ブリーダーはやるべきではなかった」と弱々しい声で語った。

 ■氷山の一角

 捨て猫を保護し、新たな飼い主に引き合わせる活動をしているボランティア団体「たんぽぽの里」(相模原市中央区)は、県内でこの2年間に約10件の多頭飼育崩壊を助けた。昨年6月に、鎌倉、藤沢市の2か所で飼われていた計90匹を引き取り、その後も小田原市で77匹、寒川町で36匹、相模原市で42匹……。ひどく臭う室内で、骨と皮だけになって衰弱した猫もいたという。

 石丸雅代代表(50)は「救助の依頼は、実際に引き取った件数の3倍ある」と話す。引き受けられなかった猫たちのその後は分からないといい、「こうなる前に、行政が指導できる仕組みがあれば」と訴える。

 ■行政関与で予防

 全国の自治体では、一定数以上の飼育を届け出制にする条例制定の動きが広がっている。

 埼玉県や千葉県は10匹以上の犬猫を飼う場合、飼育施設の住所や規模、不妊・去勢の有無などの届け出を義務付け、違反者には埼玉は3万円以下、千葉では5万円以下の過料を科す。埼玉県の担当者は「猫は室内で飼われていることが多く、事態が悪化してから発覚する。事前に行政が把握することは崩壊の予防に有効だ」と話す。条例で6匹以上の届け出を義務付けた佐賀県でも、家に定期的に巡回し、問題が起きる前に手術の指導などが可能になったという。

 一方、神奈川県は、猫の適正飼養ガイドラインで、「居住環境を踏まえ、その環境に合った最低限の数に」と記載するにとどまる。届け出制も検討したが、「義務化するほどの効果は見込めない」などの理由から見送ったという。

 県動物愛護協会の山田佐代子会長は「猫は繁殖のスピードが速く、飼い主の自覚が足りないと崩壊が起きやすい。行政機関が把握して状況をチェックすることが必要」と指摘している。(岩島佑希)
2015年07月18日 18時01分 Copyright コピーライトマーク The Yomiuri Shimbun
引用ここまで====

猫がかわいくて仕方ないのだが、愛着もわいてしまったのだが、それに対する対処能力はないというところが問題なのだろうか。それともその実情を認識できないことが問題なのだろうか。
私には対処能力がないと理解したところで、じゃ、猫は見殺しにという判断もできないということなのだろう。このケースに限定すればブリーダーを目指していたわけで専門知識が全然なかったわけではなかろう。
ブリーダーと言えばすべてに去勢手術を行うわけにはいかんが(それでは繁殖させられんので)、どの猫に手術をするのかという知識と判断力を必要とするのは明らかだ。

無論痩せ衰えて病気になった動物を生み出すのは虐待なのは論を待たない。こうした状況を改善せねばならない。
動物を屠って利用すること自体は否定しない。多くの印度人にとって神様である牛を他国で食べることを否定することはしない。でも牛はかわいい。ジャージー種最高。だけど牛肉は食べる。
ただ屠るまでの間は苦痛のないように暮らしてもらえればいいと思う。できれば人間に愛着を持ってもらえたらいいと思う。なついてくるジャージーやホルスタインはまことにかわいい。後で屠るとはいえ、人間に管理されている以上人間と交流して愛着を持つほうがその間は幸せだ。かりそめの欺瞞だと否定するひともいるだろうけど。

以前にも書いたのだが、捨てられたり安楽死させられたりする動物が問題になっていて、押しなべて飼い主の責任になっていることに納得いかない。
虐待されて困っている動物を救いだし、新たに飼い主を見つけてあげることは悪いことじゃない。美談とされる。だがそこで安楽な一生が送れる保証はない。
ぎりぎりの状態で無理なんだけどまぁ引き受けますと判断した人だっているだろう。猫可愛さ故に実情を無視して手を上げてしまう。思考回路はこの記事にある失敗ブリーダーと同じだ。実生活が破綻したら結局殺処分か捨て猫かということなのだろう。

私は生活上犬猫を飼うことができない環境にある。飼うなというルールはないが、無理やり飼っても犬猫を苦しめるだけだとわかっているからである。飼えるものなら飼いたいが責任を持てないことに手を挙げることは許されない。

前にも書いたが責めるべきは飼い主じゃなくてブリーダーなんではないか。
野良猫は不妊手術をしてこれ以上増やさない活動をしている。ならばブリーダーもむやみに増やさないように制限せねばならんのではないか。
一時的な薄っぺらな欲望で犬猫を買う人に付け込んで売りっぱなしではないか。それを泣く泣く殺処分にする公的施設の職員(とんでもないトラウマだと思う)、救わんとするNGO、NGOの要請にこたえて引き受ける人。これらに寄りかかってもうけを得ているだけではないか。
本来であれば、責任もって飼える人のみに受注生産で応える(引き合いがあってから親犬を見つけて繁殖させる)のが正しいのではなかろうか。ここを規制せねば悲劇は繰り返される。犬猫を飼いたいと思ったら、生産者と第三者を交えて時間をかけて対話し、飼育者として見識と意識があることを証明し、それから繁殖に取り掛かるくらいでいい。

個人の野放しブリーダーは禁止。売ることが目的でなくとも繁殖させる人は計画書を提出。すべて登録制。見込み繁殖(売り先が決まっていないのに繁殖させる)は原則禁止。全然売れなくては品種が途絶えてしまうので見込み繁殖をさせるなら計画書を提出させる。この先この犬猫を買う人が現れずとも死ぬまで面倒が見れると判断できる計画書だ。

犬猫がかわいいというならそこまでせねばいかんのではないか
posted by Mozzo at 17:46| Comment(0) | TrackBack(0) | まじめな正論! | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

はてさて電気飛行機の未来は

最近電気飛行機の話題がいくつか出ている。
ソーラー電池で溜めた電気で世界一周とか、ドーバー海峡横断はどっちが先かもめている話とか。

電気飛行機≠ソーラー飛行機ではある。ソーラーは太陽光のエネルギーで飛ぶのだろうが電気飛行機はそうとは限らない。原発だろうが火力だろうがとにかく充電できて飛べれば電気飛行機だ。

無論大変な技術であり、少なくとも飛行中は汚染物質を出さないというなら意義は大きい。
たとえば飛行機にジェットエンジン(たとえばターボファン)を取り付けた一般的な飛行機と比較しよう。地上に似た仕組みの発電所がある。ガスタービンとかまぁナントカタービンは高速の流れを回転に変えるわけだ。
燃料が燃えた力を直接飛ぶ力に変える飛行機と、一度発電してそれをバッテリーにため、それを使って飛ぶのでは損失が違いすぎる。充電しても同じ電流量を取り出せるわけではない。
だが、飛行機には重量の制限と排気をそのまま出すという制限がある。推力の一部は高速で排出される排気なのである。排気がきれいにならないのである。地上にあれば浄化装置は重量制限はない。
地上の装置なら速い排気からさらにエネルギーを段階的に取り出すこともできる。つまり、飛行機には積めないような長いタービンを使って、排気の運動エネルギーを回転に変えるのだ。最終的に運動エネルギーを失った排気はなんならフィルターを通したりで(ジェットエンジンではできない)微細な汚染物質を除くこともできる。

とはいえ、現状電気飛行機はよたよたとプロペラを回すだけでジェットエンジンでびゅーっととぶジェット機とは性能面で比較にはならぬ。だが適材適所といったもので、近距離人口稠密地には有効であろう。いくら高性能でも東京と大阪の間でF22ラプターを飛ばしたら不便で迷惑だ。スーパークルーズ(燃料をじゃぶじゃぶ使うアフターバーナーを使わずとも音速で巡航できる)ができるので東京大阪間を20分くらいで行けるし燃料も持つのだろうな。まぁ日本は持ってないけど。

====
報道で見るあれらの電気飛行機はまだまだなんとも頼りない。
世界一周を目指すと言えど、天候が悪くて中断で、日本に何日間も滞在する始末。
機体も重量制限があるし到底居住性がいいとは言えまい。まだまだ実用には遠い。

ライト兄弟が飛ばした飛行機を内燃式飛行機の原点、現代の最新鋭軍用機・旅客機を進化の最先端と考えると、電気はまだ進化の2%くらいのところに位置する性能と言ってよかろう。
ま、実用には遠いと言っていい。研究に費用と時間がかかる。

はてさて、未来はどうなるのだろうか。
いや未来はどうしたいのかを決めるべきではなかろうかと思うのである。
将来像が見えねば誰も投資も研究もしない。バッテリーでこれだけの速度、航続距離を実現したら都市間交通に使うよとか公が目標を示し、民間の力を呼び込むべきではなかろうか。
posted by Mozzo at 13:12| Comment(0) | TrackBack(0) | まじめな正論! | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

国立競技場の話題でまた首相を攻撃したい 狂った民主党 害悪だ

以下に野党と言えども日本にとって害悪でしかない民主党てな報道。
産経から引用する。

引用ここから====
民主「パフォーマンスだ」 首相を批判

 民主党は18日、安倍晋三首相が新国立競技場建設計画の白紙撤回を表明したことについて「都合のいいことだけのパフォーマンスだ」(安住淳国対委員長代理)と批判を強めた。国会などで追及する構えだ。

 岡田克也代表は仙台市で記者団に「(撤回は)遅すぎた。もっと早く決断するチャンスはあった」と強調。枝野幸男幹事長はさいたま市で「最終的に(撤回を)決断できたのだから、責任は首相にある」と指摘した。

 安住氏は仙台市での街頭演説で「首相は(安全保障関連法案と違い)数で押し通さず、内閣支持率を上げようと思って見直した」との見方を示した。岡田氏も「そういう面があるのは間違いない」と記者団に答えた。
引用ここまで====

反対するにしてもこれはない。
撤回するな、元のマンコスタジアムでいくべきともいえないのだな。調査結果では反対が大多数だったのだ。なおマンコスタジアムとは過去の記事をみていただきたい。この先この話題ではマンコスタジアムで通すぞ!
マンコスタジアムを早く撤回すべきだという持論で、首相の決断が遅すぎるというなら、それを主張をしてきたか。

要するに首相がやることは全部気に入らない。攻撃できればなんでもいい。自分たちに明確な考えはない。世論を探り探りというわけだ。それこそ都合のいいパフォーマンスだろうが。なんて腐った政党だろうか。自分たちの考えというものがない。

日本がやることにはすべて反発の韓国と思考回路が似ている。
理屈も自らの姿勢も関係ない。そういえば民主党の議員の多くが在日韓国人から寄付を受けていたと問題になった事件がいくつもあった。
なにか関連があるのか、道理が通じない連中は多いということなのか。。

日本を攻撃したいとか首相を攻撃したいとか目的があるとしても、こういう姿勢で恥ずかしくないか人間としての見識を疑う。
posted by Mozzo at 12:29| Comment(0) | TrackBack(0) | まじめな正論! | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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