2015年08月21日

児童ポルノ・児童性犯罪をテーマに法律を考える

今回は児童ポルノや児童買春を規制することについて考えたい。
とはいえ、児童ポルノや児童買春そのものを論じたいわけではない。法律で規制するということはなんぞやを考えるのによい題材だからである。

本題から先に言ってしまうと、倫理的価値・感情だけで法律を決めていいのかということである。
このあと、題材が題材だけに不愉快な表現と感じるかもしれない。そう思う方は読まないことをお勧めする。といって、その方面が好きな方が期待するような話も出てこないので妙な期待もしないでいただきたい。

ではよろしいかな。

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たとえば、嫌がる児童を無理やり連れてきてポルノに出演させる、あるいは嫌がる児童と性的な交渉を持つ。これはどうだろうか。
違法に決まっているではないか。多くの人がそういうと思う。私も感情的にはそう思う。
それでも「当たり前だ」を排除してそこにどんな理屈があるのかを考える、それが今回の本題だ。

これが成人だったら当たり前だが犯罪だ。
もちろん、法律で規定しているから犯罪だという論理は今回は封印する。法律でどう規定するのが妥当かを考えるのが本題だからだ。
ポルノに出演するあるいは性交渉自体は違法ではないし違法にすべきでもない。成人の意図に反して人格あるいは性的な事項に関する自己決定権を侵していることが問題なのだ。

さて、これをストレートに児童に当てはめていいものだろうか。
児童の自己決定権というものは大幅に制限されているし、親権者がオーバライドすることができる。これが常識である。
児童は判断力が未熟であるし、判断の結果起こることについて理解する力、想像する力が足りない。
たとえば、泣いて嫌がる子供を歯医者に連れて行って治療を受けさせる。これが違法だろうか。歯医者は怖くて痛い。ときに大人さえそう思う(私だ)。だが、治療を避けていたら健康にもっと悪い影響がある。ゆえに子供が嫌がって泣いても治療を受けさせる。これが正しい。

さてこの論理をポルノや性交渉に当てはめていいものだろうか。
ダメに決まっているだろうが、と誰もが言うだろうが考えよう。
性に関する考え方は人それぞれある。極端な人もいる。子供のうちに壁を取り外してしまった方がいいという考え方をする人もいるし、それは少なくとも表面的には理屈が通っている。児童がマスターベーションをすべきかせざるべきかの議論にも似ている。
私自身の考え方としても、性交渉はともかくとして、中高生になったら他人の裸体や性器、性交渉(ポルノであっても)を見ておくことはプラスだと思っている。あまり特別で嫌悪すべきことだと刷り込まないほうがいいと思う。
また、マスターベーションにも賛成だ。ただし大人に内緒でこっそりと。自身に目覚めつつある性的な意識や興味を客観的な視点で安定させる効果があると思う。どうせ、押さえつけても純粋培養はできないのだ。
ま、脱線した。

親が「子供のためになる」と信じ込んでポルノ出演や性交渉を勧めていたらどうなるのか。現実に宗教カルトの一部ではそういうことを本気で考えている。
親は子供の自己決定権をオーバライドできるのか。

子供が受ける傷ばかりでメリットがないという具体論はあるだろう。だが、その親は性に対してできた壁を破壊するのだとか、自分自身がそれで救われたとかの具体論で返してくるだろう。平行線だ。
ここに何人をも納得させる客観的論理があるのか。私にはわからない。

歯医者の例では医学的な見解というのが根拠になると思われる。医学は科学だ。
早い段階で歯医者に行かねばもっと痛くなるとか顎関節の生育に問題が出るとかいろいろあるだろう。
しかし、ポルノに出演して見せるだけなら体に傷を負うわけではなく、性交渉といっても擬似的なものであれば体に傷を負うものではない。いや、心に傷を負うのだというだろう。私もそう思う。だが、心の傷というのは主観的なものであって、「今はつらくとも後でいい思い出に」(そもそもそうなると信じているから嫌がる我が子に勧めるわけだし)とか観念論のぶつかり合いになるのではなかろうか。

親権者とその子の自己決定権という切り口はもっと議論されていいのだと思う。私にも結論はない。

ことに、現実に金のために児童ポルノに我が子を売る親がいるのは事実だ。そうした層が理論武装したらどうなる。金という目的を隠して妙な論理で正当化したら。客観性をもって否定できる論理が必要なんである。なぜ親がOKでもだめなのか。

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では次に、当人が納得ずくあるいは望んでいたとしたらどうなる。
小学生でも未熟ながら恋愛感情というものはあり、性的な意識もあり、好意を持った人との性交渉を自ら望むということはあろう。実際に起きていることである。私自身小学校も高学年となればそういうことは夢想しましたな。現実にできなかったけど。大好きな子とキスとかしたいでしょうに。

これも、先の自己決定権のオーバライドの話に近い。
親が反対だったらオーバライドできるか。できる、というのが世間の常識だとはいえよう。
では親が賛成だったらどうか。中学生くらいともなれば「いざという時のため」コンドームを持たせるという話も聞かないわけではない。「抑えきれることではないからせめてコンドームを」という消極的肯定派なのか、「今のうちに知っておいた方がいい」という積極的肯定派なのかはわからない。

本人OK 親OKなにがいかんのそのセックス。ということになってしまう。もちろん今の法律はそうはなっていない。それを気に食わない人がいるからなんだが、何を根拠に。
つまりきわめて個人的な主観的問題を公が強制することができるということを示している。

私も結論として中学生が親公認で好き勝手にセックスるとかポルノに出演するってのは間違っていると思う。それを認める親は虐待だと思う。だが、それに介入する論理がなにかがわからない。公は個人の性生活に介入できるのか。セックスがいけないならマスターベーションも禁止できるのか。

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ではぐっと犯罪度が下がって、水着姿の写真なんてのはどうか。
競泳用なんてのはぴっちりとしていて体の線が出る。ヌードは違法でも水着ならいいとかいやそれも児童ポルノだとかグレーゾーンを巡るしけた争いがある。ポルノとしてのニーズがあるから争いになっているんだろうに。

だが、これは物自体が違法かどうかというより見る側の姿勢だなと思うのである。
競泳用水着の写真、同じ写真があったとして、両親がわが子の県大会優勝シーンを映していたら心温まる写真になる。
もし両親に不幸があって親代わりの叔父叔母がその写真を持っていたらもっとジーンとくる話だろう。天国の兄ちゃん、姉ちゃん見てる、マリコが優勝したんだよ。仏壇に写真を掲げてね。。。。うううって勝手にストーリー作ってうるうるしている。

写真を持っているのが、小さいころからかわいがっていたいとこの兄ちゃん。。。ん!?
近所のおじさんが。。。。。ん!?
大きなカメラ抱えたどこぞの兄ちゃんが。。。。。んんん??

感覚的に親が持っていても違法じゃないけど(それが違法だったら競泳自体がポルノ撮影会場だ)縁もゆかりもないやつが持っていたらポルノだろう。
だが見る人によって違うというのは法律で抑え込むのが大変にむつかしいのである。
こいつが誰だということは大変に主観的だからだ。
仮に叔父伯母でもいとこでもそれをポルノとして見ていないとは限らないし、近所のおじさんでも親同様に守り育ててきた大人なのかもしれない。機械的に判断できんのだ。

果たしてどういう論理で制限するのかしないのか。

当然そこにあるのは、物理的に被害は受けていないにせよ、自らのイメージを性的にもてあそばれたくはないという当たり前の気持ちだ。
水着の露出度を下げればいいとかそういう表面的な問題ではないのだ。
性的妄想というのは限りがないのであって、たとえセーターを着ていようが性的な視線で見ればポルノになる。はたして当人のアイデンティティを傷つけないか。
これは最近問題になっている盗撮に論点が似ている。スマホをはじめ高性能なカメラが身近になった。DPEに出さなくてもよくなった。盗撮する人には都合のいい状況になった。スカートの下にカメラを差し入れるというのは通常見えない、見せたくないものを撮ろうというのであって完全アウトだ。しかし世の中いろんな人がいて、例えば女性の臀部を撮影する輩がいるそうな。普通に見えている部分を性的視点で見て撮影する。見えるものを撮って何が悪いと開き直っているようだが、そのいやらしい目線が嫌なのだ。

いやちょっと待て、そうしたらアイドル歌手のグラビアもポルノか?という疑問もあろう。そういう視線で見ている人もいれば歌手が表現したい美しさをめでているだけの人もいるわけでグレイと言えばグレイ。まぁ成人なら何を表現しようがどう見ようが勝手なんであるが。

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さらに犯罪度を下げて絵はどうか。漫画とか。
現実の児童を傷つけてはいない。だが児童を性的な視点で見ている。
全部気に入らないキーってアグネス・チャンのように怒ることは簡単だ。気に入らないと言ったら気に入らないんだもんって。
だけどそれをどういう論理で否定するのかが理性的な立ち位置というものなのだ。気に入らないという理由で否定することができるのであれば、否定してはいけないものも否定できてしまうよ。日本の近くには気に入らないことはすべて間違っている真実ではないと言い切っちゃえる国がありますがね。

漫画の児童ポルノ作品があったとして、具体的に個人を傷つけてはいない。
だが気に食わないという人がいるのは事実。もちろんそんなものを電車の吊り広告とか極めて公共性の高い場には出さないのは大前提として、普通のポルノと何が違う。
ポルノというのはある意味ファンタジーの世界ではある。現実の性生活でこんなことされてうれしい人はいないよということが展開されている。あんなに両脚を広げるセックスを日常している人はいないだろうに、あんな無理なポーズでピストン運動してたら腰傷めますよというもので。あれはファンタジーを見せる芸なのである。

児童ポルノが実写ではいかん。具体的な個人の心身を傷つけている。だが漫画だとしたらどうなのだ。子供がセックスをするのもファンタジーなんじゃないのか。あり得ないけどファンタジー。

それに対して「漫画に触発されて実際に児童に対する性犯罪に走るものが現れる」という反論がなされる。だが、児童を性的な視点で見る人間は当然いるわけで、「漫画で満足してくれたら性犯罪を未然に防げる」という論を否定することはできない。

児童を性的な視点で見るのは別に児童ポルノに触発されたからじゃない。性的アイデンティティを形成するうえでありうるありようなのである。
オスの立場から言えば、処女性(ほかのオスの子供を育てさせられる危険を回避)を追求する志向性があり、これは人間のみならず類人猿が持つ志向という。まだ生殖能力を持たないメスを「押さえておく」ということをするそうだ。
メスの立場から言えば、御しやすい性という観点があろう。メスと違ってオスの生殖能力は精子が作れたら成り立つ。体ができていなくても成り立つ。出産に耐えるメスとは違う。であれば、時に暴力的な成年のオスよりも御しやすい若いオスが望ましいという志向があってもおかしくない。

自然発生的に児童を性的に見る傾向が現れるのであれば、ポルノの存在は付随的(要求があるから生まれる)であって、ポルノの存在が児童を性的に見る傾向を作り出すのではない。

児童ポルノを憎むべきものと考えている人にとって、漫画であろうと児童を性的な視点で見るものは不愉快なのはわかる。だがどんな論理で否定するのか。気に食わないで否定することが許されたらもっと怖いことが起こるように思う。私に漫画で表現される児童ポルノを否定する論理はない。奨励したいわけじゃないが、お好きな方がお好きな世界でやっていることに踏み込んで否定する論理がないのだ。
否定することが結果として必要でも丁寧な議論が求められるのではないか。

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さらに犯罪度が下がったと言っていいのかわからんが、「語ってしまう」というのはどうなんだろう。
児童を性的対象に見てますよ、何にもしないけど見てるだけ。と公言してしまうことはどうなんだろう。子供を裸にしていじくりまわしたいねぇ実際には何にもしないけどと言う。
不愉快なのは当然。年頃の子供を持つ親ならば、何もしないと言ってもわが子にそんな輩が近づくだけで嫌だろう。
先に挙げた水着の例と同じくそういう目で見るなやということである。

しかし、高速道路で300q/hだしたいねぇ、やらんけど。というのと同じと言えば同じ。
子供とセックスしたいねぇ、やらんけど。同じでいいのかと言えば納得いかないが理屈は同じだ。
まぁそんなことを公言する奴は実際にはいないだろうが、論理的可能性として。

法律など社会と折り合いをつけることを前提に、自分の性的嗜好を出すことが違法であるとするのは無理がある。無論公表すれば周囲から人は引いていくだろうが、違法にすることは難しいのではなかろうか。アグネス・チャンは怒りそうだが。

しかし何もできないというのもなんとも。
児童を性的に見ていると公言する人物が何もしないけど小学校の校庭を眺めていたら。
それは法律で制限すべきことなのかせざるべきことなのか。

この答えも私はもちえない。
ただこれが制限できる社会は怖いとも思う。

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さらに犯罪度を下げて、妄想するというのはどうか。
行動にも出さない、口にも出さない。ただ心の中で児童に対して性的な妄想を繰り広げる。

「そんなもん取り締まれるわけないじゃん」と思うだろう。
だが、それもどうだか。脳波から思考を取り出す試みがされていて、すでに簡単な図形なら考えたことが表示できるようになっている。「はい、あなたは児童に対して性的な妄想をしてますね」と判定できるのもそんなに先ではないかもしれない。
できようができまいが、それは関係ないのである。技術論はどうでもいい。内心の問題を取り締まることは許されるのかどうかだ。

内心の自由と言ってしまうと取り締まるのは当然だめでしょうということになるかと思う。
だが、角度を変えて問うてみるとそれもどうだか。
内心を推しはかる断片的なことを組み立てて「異常な精神」と非難することは可能であるのだ。
たとえば表現の自由に敏感で、子供が出場する競泳大会をにこにこして見ていて、子供が出場するバレエの発表会も見にいっていた。こいつは児童ポルノが好きだ、というレッテルを貼ることも可能なのである。
何でも可能になってしまう。

だからこそ、内心を推し量ってはいかんという原則を言うべきではなかろうか。
まぁ下品なスキャンダル追及には無力なんだが。


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さて、ここからいつものスタイルで報道を引用。
なにか矛盾というか限界というか割り切れないものも感じる裁判。
産経新聞から引用する。

引用ここから====
2015.8.19 16:45更新

小5女児監禁の50歳無職男に懲役10年求刑 検察「根強い少女性愛の傾向」

 岡山県倉敷市で昨年7月、当時小学5年生の女児を下校中に連れ去ったとして、わいせつ目的略取や逮捕監禁致傷などの罪に問われた無職、藤原武被告(50)の論告求刑公判が19日、岡山地裁(中田幹人裁判長)で開かれ、検察側が懲役10年を求刑し結審した。判決は10月28日に言い渡される。

 検察側は論告で、自宅パソコンに残された児童ポルノの画像や自らの創作文書から「根強い少女性愛の傾向がある」と指摘。被害者が登下校する時間を調べたり、監禁用の部屋を自宅に作ったりしていたことから計画的犯行だったと主張した。

 弁護側は最終弁論で「わいせつ行為は一切なく、犯行も衝動的だった」と反論し、執行猶予付きの判決が相当だとした。被告は最終意見陳述で「被害者の苦痛を想像すると自分の償いだけでは済まない。大変申し訳ございませんでした」と謝罪した。

 起訴状などによると、藤原被告は昨年7月、倉敷市内で下校中だった女児にカッターナイフを突き付けて車に押し込み、自宅に連れ込んで約5日間監禁。脱出できない状態にして心的外傷後ストレス障害(PTSD)を負わせたとしている。
引用ここまで====

はてさて、この検札の求刑10年が軽いのか重いのか、弁護側の言う執行猶予が妥当なのか。
少なくとも拉致監禁は実行した。脅して監禁5日間。ほんの1時間でも重罪である。相手が幼い女児であったこと、PTSDが残ったことを考えればいくらなんでも執行猶予はあるまい。わいせつ行為が本当に未遂だったとして(これ被害者側は公にしたくないんではないか)、そんなことは「もっと重い罪にするか否か」の問題である。
余罪はなかったのか。

とはいえ強盗殺人とかその辺に比べれば10年が決して軽いとは言えないか。

しかし、それは罰の観点で物を考えている。
罪の大きさに合わせて刑期の長さを決めている。被害者感情として、重い罪には苦役とか苦痛とかそういうもので報いてやりたいと思うこともあろう。食事が出て医療サービスが受けられて(不充分だという指摘があるが)職業訓練が受けられてわずかでも賃金が出てである。エアコンがない独房は人権侵害とまで言われている。
なにか重い荷物を背負わせて倒れるまで歩かせればいいのにとか、後ろ手に縛って失神するまで吊り上げてやればいいのにと思う人がいても仕方ないというほどひどい残虐な事件もある。

まぁ処罰感情は今回のテーマからは脱線であるので元に戻すと、罪に対する罰、つまり謝罪としての罰と、反省させ構成させる期間を持つという罰がある。
つまり、この事件に話を戻せば、
1.犯した犯罪に見合う処罰として10年が妥当である
2.犯した犯罪を悔い改め更生するのに10年かかるというのが妥当である
という二つの観点を混同している。

法について考えるのが今回のテーマ。この段階も考えねばなるまい。

10年刑務所にぶち込んでおくと、この男の危険性は抜けて悔い改めるというのだろうか。悔い改めさせるメソッドを持っているのか。
いや、悔い改めるという言い方はいかんかった。
内面の問題に干渉してはいかんという話をしたばかりだ。

つまり、内面は変わらず小児性愛でギンギンであろうとなかろうと、それを表に出さず行動にもうつさないという状態になるのか、と言わねばならなかった。悔い改めるというのは内面の問題だった。

だがしかし。
10年で本当に危険じゃなくなるのか。性犯罪者、ことに小児に対する性犯罪については再犯率が高いとして、刑期を全うしても監視がつくとか、子供の集まる施設には近寄ってはいかんとかそうした制限を加える国も多い。

犯した罪の大きさに合わせて刑期を決めるというのも大事だが、それで牙が抜けたのかという観点で刑期を決めるのも大事ではないか。50歳の被告が10年で60歳。やる気ならまだまだやれる年代だ。

この問題、法律と児童性愛傾向を持つ人間との関係だけではなく、社会防衛の意味もある。
幼い子を持つ親の立場からすれば、実際の罪の大きさはともかく、せめて足腰絶たなくなるくらい歳をとるまで、できれば永遠に社会に出てきてほしくないと思うだろう。
小児性愛癖でなくとも、性愛は灰になるまでと言われている。寝たきりで息も絶え絶えのおじいさんも看護婦さんのお尻を触る。
ヨレヨレの爺さんになっても言葉巧みに悪いことをするんじゃないかと思っても無理はない。

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感覚だけで考えて、とにかく全部ダメダメとか、表現の自由とかわかりやすいキーワードに乗っかって制限ダメダメとか極論になりがちである。
冷静に論理的に考えねばなるまい。
子供が殺されず、傷つけられず、脅されず、さりとてあらぬ疑いで大人が社会的生命を失うこともなく、そのためにはどうしたらいいか。本質的な議論がしたい。
posted by Mozzo at 01:07| Comment(0) | TrackBack(0) | まじめな正論! | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年08月19日

エスカレータの片側空けって正しくない 悪癖だよ

正しいといえば正しいんだが若干腰の引けた記事。

引用ここから====
エスカレーター、片側歩行やめて…転倒相次ぐ
2015年08月13日 14時42分

 移動には便利だが、一歩間違えれば大事故につながりかねないエスカレーター。

 急ぐ人のために東京は右、大阪は左を空ける習慣が定着しているが、業界団体などが事故防止のため、「歩かない」「片側を空けない」と求めていることは意外と知られていない。旅行者が増える夏休み期間中、鉄道各社などもルールの徹底を改めて呼び掛けている。

 消費者庁によると、2011〜13年の3年間、東京都内だけで計3865人がエスカレーターの事故で緊急搬送され、その大半が転倒や転落によるけがだった。「歩いて上っていたところ、バランスを崩して転倒」「上ってきた人につえに接触されて転倒」といったケースもあり、同庁は「エスカレーターで歩くとバランスを崩すだけでなく、他の人に接触して事故になる恐れがある」としている。

 昇降機メーカーでつくる日本エレベーター協会によると、エスカレーターは歩かないことを前提に設計されており、「立ち止まって手すりにつかまる」が正しい乗り方。「片側を空ける必要はない。手が不自由で特定の側を空けるのが困難な人もいる」と説明する。
2015年08月13日 14時42分 Copyright コピーライトマーク The Yomiuri Shimbun
引用ここまで====

エスカレータは手軽に楽をさせてくれる設備であるが、エレベータに比べて利用者に求める「能力」に違いがある。また間違った使い方をすると事故を招いたり、多くの場合公共財である施設を壊したり寿命を縮めたりする。

啓蒙が足りていないと言えようが、エスカレータでは歩かない、しっかりと手すりをつかむのがルール。合理性のあるルールだ。ただ守らない奴が多いという状況だと思う。

急いでいるんだから歩かせろ、という意見にはだったら階段を駆け上がれ、というのが定番の意見の衝突である。
しかし、動いているエスカレータで歩くから楽に早いのであって、その楽を放棄しろといってもそうはいかないと思う人もいよう。
また、都会の一部の駅ではもはや階段とエスカレータを併設するスペースがなく、エスカレータに置き換わっているところも決して珍しくない。急いでいるんだ歩かせろというご意見。

甘えている。そんな考えが通用するか。
まず、自分がのんびりしていたからエスカレータをせかせか歩かねばならない状況を作ったわけで、だったら早く出てこいやということである。
急いでいたら車でスピード違反してもいいと言っているのと同じである。

そもそも混んでいて誰しも前に出たい状況に、急いでいるからと言ってエスカレータを歩いたり階段を駆け上がっていいわけがない。
街も道路も様々な人が混在している。早く移動できる人そうでない人。早く移動できる人は自分の好きなスピードで移動したいだろうが、そうは問屋が卸さない。限界がある。
無論、全員が杖を突いた人と同じ速度で移動する必要はないが、限界はある。人ごみで走るのはNGだ。
文句があるなら自家用ヘリで移動しなさい。それが無理なら早く家を出なさい。
遅く出てきて人を押しのけたり突き飛ばして移動していいわけがない。

その辺の論理がこの記事は甘い。

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「移動には便利だが、一歩間違えれば大事故につながりかねない」なんとも無難な表現。せっかく記事にするんならもっと具体的に指摘したほうがいいのではなかろうか。それこそ啓蒙。

エスカレータで乗る部分を「踏面」、エレベータで乗る部分を「かご」と呼ぶことにしよう。
エスカレータとエレベータを比較してみよう。

エレベータには行動力の限られている電動車いすや、移動が困難なストレッチャーでも利用できる。ストレッチャーが利用できるものは大きさが限られるが。
まぁエレベータのほうがより敷居が低いというのは誰しも思うだろう。
何となくではいかん。そこを具体的に分析する。

どちらも乗っている場所を速やかに動かして持ち上げてくれたり、そっと下ろしてくれたりで楽に移動させてくれる。だがそこがちがう。
エレベータはかごが垂直移動する。そして移動し停止する。つまり乗り降りするときは床面とかごは静止した連続した床であり(多少の凹凸はあれど)、ゆっくりと動き出し、ゆっくりと停止する。
エスカレータは踏面が空間上を斜めに移動する。そして定速運動する。つまり、乗る側が動きを合わせねばならない。斜め方向の力もかかる。そこに運動能力を必要とする。

まず、定速運動するものに合わせこんでいくのだからその速度に合わせる脚力がいる。
さらに、最初は地面から見て停止していたのに、地面から見ると斜め方向に移動しているがすっと合わせて踏面から見ると停止しているという状態に速やかに移らねば乗れない。降りるときはその逆だ。それほど意識しないが考えてみるとなかなか高度な技だ。

もう一つ考えねばならないのは機械であるゆえ緊急停止があることだ。

エレベータは垂直移動するものであり、緊急停止しても慣性の法則と重力が合わさって不自然な荷重がかかるだけだ。下降中に緊急停止すれば重力+慣性でぎゅーっとGがかかるし、上昇中には重力ー慣性だ。
最悪の事故、つまりロープが切れて、調速機(ガバナ)も効かず、レールをつかむブレーキも追いつかずというとき、かごが地面にどしんとぶつかるのだが、それでも衝撃を受け止める最後の守護神バッファがある。さすがにバッファに頼るような状況ではそれなりに衝撃も強く、打ち身の一つも負うかもしれぬが、それでもそう簡単には死なない。

事実、最近整備不良か設計ミスかエレベータ事故が起きているのではあるのだが、エレベータの原理的な問題のではなく付随的な問題、つまり開いてはいけないときに開くドア、動いてはいけないときに動くかごが問題であって、エレベータの本質ではない。
被害者の方にはそんなことはどうでもいいことだが。

その点エスカレータは原理的に危ない部分がある。
斜め上あるいは斜め下に移動しているものが突如止まるのである。鉛直方向には踏面を踏みしめれば支えられるが(中国製はその踏面が突如破壊されるのだが)、水平方向にはベルトを持った腕が頼りである。狭い踏面で踏ん張ったところでどれだけのことができるか。

つまり、エスカレータを歩いて安全だという人はあの狭い踏面の上で踏ん張って緊急停止の衝撃に耐えられると思っているということだ。歩いているということは手すりをつかんでいないということだ。
どんなに屈強かつ身軽な人でも無理ではないか。不意打ちを食らったらどうにもならない。というか屈強でもなく身軽でもない私なんか予告されて「はい止めますよ〜、3,2,1」とやられたって立っていられる自信はない。
踏面が広くて、止まった時に何歩かたたらが踏めるくらいのスペースがあれば別だが耐えきれず一歩踏み出すだけで踏面から外れる。下りなら転落だ。。

いや、手すりを持っていても万全ではない。
腕力の落ちた人、足腰の弱った人、子供を連れている人、荷物が多い人。手すりをつかんでいたからと言って耐えられるだろうか。自分が落ちれば下敷きになる人が出るわけなのだ。

そういう人は迷わずエレベータに乗るべきだ。

記事にある「手が不自由で特定の側を空けるのが困難な人もいる」もこれがなんともいい加減な言い方で。
それだってとらえ方は人それぞれ。

具体的な描写をして心苦しいのだが、仮に右側を空けることができないとしよう。
屈強な若者なんだが、左の手のひらに切り傷を負って左手で手すりがつかめない、なのかもしれぬ。
左半身不随で杖にすがってなんとか歩いているが、右の手で手すりをつかまないといけない。その間右手に持っている杖はどうするのですか。介助する人が持ってくれます。なのか。
残念ながらエスカレータはある程度の運動能力のある人が利用する手軽に移動する手段なのである。エレベータを使えば時間はかかれど移動する権利は失われない。都市を効率よく回すための区別だと思っていただきたい。いくらバリアフリーになってもハンディがなかったことにはならない。
ハンディがなくて効率よく動ける人間の効率を落としてまで悪平等を広めることもあるまい。ハンディがないなら自分の力でさっさと移動してもらえばハンディがある人が移動する余力も生まれるだろうさ。
posted by Mozzo at 23:21| Comment(0) | TrackBack(0) | まじめな正論! | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

行け輸送船こうのとり あと一息でISSにご飯!

まずは第一関門突破かという報道。
産経新聞から引用する。

引用ここから====
「こうのとり」打ち上げ成功 緊急物資などISSに輸送へ

 国際宇宙ステーション(ISS)への物資補給機「こうのとり」5号機を載せた国産大型ロケット「H2B」5号機が19日午後8時50分、鹿児島県の種子島宇宙センターから打ち上げられた。約15分後、予定軌道に投入され、打ち上げは成功した。

 ISSで使う実験機器や飛行士の食料など約5・5トンを搭載した。計画では24日にISSに到着し、長期滞在中の油井(ゆい)亀美也(きみや)さん(45)がロボットアームで捕捉。25日にドッキングする。

 米国の補給機打ち上げが6月に失敗したことを受け、米航空宇宙局(NASA)の要請で、ISSの米国棟で使う飲料水の再生装置の部品などの緊急物資を初めて搭載。補給機は米露で失敗が相次いでおり、日本の役割が増す中での打ち上げ成功となった。

 日本の機器では、宇宙最大の謎とされる「暗黒物質」の発見を目指す早稲田大などの宇宙線観測装置、流星を観測する千葉工業大の超小型衛星、小動物の飼育実験装置などを運ぶ。

 H2Bは主力機H2Aを増強した国内最大機種で、5回連続の成功となった。2年前に打ち上げ業務を宇宙航空研究開発機構(JAXA)から製造元の三菱重工業に移管した。
引用ここまで====

まずは一安心。今この文章を書いているこの時も、宇宙空間をISS目指して進んでいるのだろう。その膨大な距離を思うとなにか怖いような寂しいような気持になる。

まぁ日本のロケットがとかそんなことは二の次で、宇宙で物資を待っているのに、二度もロケットが失敗して、私のご飯〜〜〜と思っているだろう(いや冷静だから宇宙飛行士になるのだが)、宇宙飛行士に心の支えになればと思う。
宇宙船も飛行機も離発着が一番危険で、着陸のないコウノトリの場合、あとはISSにたどり着いてがっちりと油井飛行士がつかんでくれればミッションコンプリートである。油断は禁物だが山は越えたというところなんだろうか。

もちろんNASAをはじめとした世界の知恵を集めてやっているわけで、このミッションが万が一の万が一失敗しても次の手がないわけじゃあるまいが、3度の失敗はかなりきびしい。物質的に耐えても精神的に厳しい。私のご飯。

前にも書いたが、宇宙開発はある意味軍が関与せざるを得ない最先端、危険な領域である。
それがいいとも悪いとも言わないが、日本では軍が正面に出ることが好まれない。いくら自衛隊員が「私が宇宙に、いざとなれば命の覚悟は」と言っても通用しない歴史がある。
要するに、どうしたって危険がある最先端の宇宙開発において、研究者は各国から出ているが、前面に立っているのは米国と露国の軍人が中心なわけである。

軍というとどうもという拒否反応があるのもわかるが、そういう危険も甘受せねばならない場面はある。名誉と命を懸けてミッションに取り組む軍人さんを尊敬するのみである。
無論、日本が同じように自衛隊員を出すだけが道ではない。無論それを望む人もいようが、組織統制上という現実的な問題で、ある場面では米軍の軍人、ある場面では露軍の軍人のみでもそれがベストなら仕方ない。メンツで自衛隊員をだすのは意味がない。

ならば日本ができる貢献はなんだ、得意分野は何だと言えばこの無人補給機、リモート操作技術である。
むしろ「いざとなったら軍人が行けばいい」という諦念というか、決めつけというかそういう概念が入らない日本のほうが徹底して、無人・リモートに注力できるのではなかろうか。政治的雑音もないだろうし(こういうのをヒロイズムの発露の場と利用する政治家がいないわけじゃない)。
この先当面日本から有人宇宙船が飛ぶことはあるまい。乗り込むなら自衛隊員だろうがその世論形成が難しい。無人でリモート。そこを伸ばしていくのが国益なんだろう。

ああ、とりあえず何時間後か知らないが、ISSにご飯が届いていますように。
アジアの片隅から祈っています。
posted by Mozzo at 23:17| Comment(0) | TrackBack(0) | まじめな正論! | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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