2015年08月09日

御嶽山の捜索中止

ぎりぎりの心理的な葛藤がうかがえる話である。
長いが引用する。

引用ここから====
「長野に息子を置いていきます」…捜索打ち切り
2015年08月08日 16時05分

 捜索の打ち切りが決まった御嶽山では7日、活動にあたった警察と消防の部隊が撤収した。

 この日は朝から青空が広がり、行方不明者2家族は自衛隊ヘリで山頂部を見た。火山活動が続く標高3000メートルの高地で6日まで続いた捜索は常に危険と隣り合わせで、県災害対策本部は発見を待つ家族を前に苦渋の決断を迫られた。

 「長野に息子を置いていきます」。6日夜、不明者家族と面会した野池明登・長野県危機管理部長は、ある家族からこう告げられた。全力を尽くした捜索隊員への感謝と、戻らぬ家族へのやるせない思い。交錯する家族の気持ちを受け止めた。

 野池部長は7日朝、「家族にとっては納得できないだろう。だからこそ、徹底した捜索を行ったことを丁寧に説明した」と語った。

 昨年の捜索は、降雪や火山灰の凍結のため打ち切りとなった。県災対本部は今回、不明者の目撃情報や携帯電話の発信記録などを分析し、山頂付近の3エリアを重点捜索。7月31日にはエリア内の一ノ池斜面で山梨県甲斐市の猪岡哲也さん(当時45歳)を発見した。しかし、その後は硬い火山灰や急峻な斜面に阻まれた。

 今回は、高性能の金属探知機や小型無人機「ドローン」、磁気レーダーなども導入。5日にはエリア内での捜索を終え、6日は家族から要望のあったエリア外を捜索。「あらゆる方法をやり尽くした。それが6日というタイミングだった」と県幹部は明かす。

 御嶽山は今も火山活動が続く。噴火警戒レベルも「2(火口周辺規制)」のままで、火口から1キロ圏では噴石が飛ぶ可能性もある。捜索関係者の間では、当初から「隊員を長期間危険な場所に送り続けることはできない。1週間程度が限界だ」との声が上がっていた。

 昨年の捜索では、低体温症や高山病などにかかる隊員が相次いだ。このため、県警は捜索再開に向け高地でのトレーニングを実施。相沢病院(松本市)の山岳医も同行し、こまめな休息や給水を助言し、連日100人の捜索活動を支えた。

 6日夕、阿部知事は記者会見で「隊員の安全確保が大前提。新たな手がかりがない中でこれ以上続けることはできない」と述べた。不明者家族の思いや隊員の安全確保、いつ牙をむくか分からぬ活火山。捜索終結は、いくつもの要素が絡み合う中での決断だった。

 捜索打ち切りから一夜明けた7日、長野、岐阜の両県の捜索隊員約60人が自衛隊の大型ヘリで山頂に向かい、噴石に備えて設置した仮設シェルター4基を撤去した。

 一方、王滝村の現地指揮本部前では、13ある長野県内消防本部の約90人が解散式に臨んだ。大隊長として本部で指揮を執った長野市消防局の内山仁消防司令長は「行方不明者全員を家族の元へお返しする使命は完遂できなかったが、過酷な環境下でぎりぎりの場所まで行き、これ以上はないという捜索をした」と述べた。

 県警はこの日、6日までの捜索で見つかった遺留品のまとめを発表。全部で48点あり、うちデジタルカメラとタオルの2点は、不明者2人のものと分かり、それぞれ家族に返された。
2015年08月08日 16時05分 Copyright コピーライトマーク The Yomiuri Shimbun
====引用ここまで

昨冬に捜索を打ち切った時点で言っては失礼だが生存の望みは失われたと言っていい。
ものすごい偶然が重なって溶岩流に退路を断たれたもののその空間で生き残っていたひとがいなかったかと言えば否定することはできない。それが宝くじに10回連続で当選する確率としても。
捜索を打ち切れば火砕流で死なずとも飢えて乾いて死ぬことだろう。
それは家族もわかっていた。

せめて遺体だけでも、遺留品だけでも。その願いはあっただろう。
見つけるまで探してほしいという気持ちもあっただろう。
これが海難事故だと広い海のどこにいるやら見当もつかず、これはどうしようもないというあきらめがつくかもしれない。だが山だ。大きいとはいえ一望できるどこかに眠っているのである。なのに、とそれこそあきらめがつかない。

「長野に息子を置いていきます」
なんと強く苦痛に満ちた言葉だろうか。
せめて遺体でも息子に対面したい、せめて、せめてと。誰しもそう思う。
けれどもそれは「ほかの人の息子さんあるいは娘さん」を危険にさらすことにもなる。捜索をする多くは若く屈強な人たちだろう。愛する人は好きな場所に行って好きな場所で死んだ、そして好きな場所に眠っていると自らきっぱりと理解させ言い切った。この精神の強さに感服する。
この一言に涙が止まらない。

記事にある捜索終了の前面にたった野池明登氏も相当に思い悩んだだろう。
すべての被害者を見つけるまでとか単純で勇ましいことを言うのはある意味簡単なのだ。
永遠に見つからないとしたらどうするとか判断を先延ばしにして、受けのいい言葉を吐いても何の解決にもならないし現場を危険にさらすだけである。
この時点の判断は妥当であり、その心痛を察するにやりきれない思いだ。

御嶽山の危険を評価する見識は足りていたのか、それを伝え入山者を制限することができたのか、具体的には問題はいくつもある。そこはたださねばならない。
言っちゃ悪いが、私は山に登りたくなし近づきたくもない。究極のインドア派なのである。
正直装備が甘くて山で遭難という人は困ったもんだと思う。
だが今回は個人の責任ではない。

この悲劇を繰り返さないために何ができるのか。単純に火山には近づくなというのも乱暴な話だ。火山に関係するすべての人たち、商売で使う人やサービスを受ける人、登る人。みんなが考えてほしい。危険を見極める技術、いざというとき自分の利益よりも公を優先して引くこと、いざ事故に巻き込まれたとき命を守る技術と備え。
私のように火山と無縁な生活をしていると思っていても日本中にあるど火山が噴火しても何の被害も受けないという地域に住んでいる人は多くない。富士山が噴火すれば南関東から東海地方まで被害が及ぶ。

これを機に考えたいと思う。
posted by Mozzo at 12:46| Comment(0) | TrackBack(0) | まじめな正論! | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

原爆の日を迎えて思うこと

広島、長崎と原爆投下の日を迎え、核兵器について改めて考えてみたい。

核兵器に対してどのような姿勢をとるべきか。
これは大変にむつかしい、おそらく哲学的な思考を要する問題である。

核兵器は残虐な兵器だと言われる。
本当にそうか。

何を馬鹿をいうのだと思う人が多いかもしれない。だが冷静に論理的に考えてほしい。
一発で都市一つが壊滅するから残虐なのか。恐るべき高熱と放射線と衝撃波が残虐なのか。

当然ながら核兵器を使用すれば、そこに多くの人が住む都市ならば、それは多くの死者と多くの負傷者、その場では無事でも放射線被曝を受ける人が出る。
攻撃された側の視点で言えば大惨事である。
一発で何万、何十万の人が被害を受ければ残虐でしょうと思うかもしれない。

だが、では「通常兵器である1t爆弾で吹き飛ばされるのは残虐ではないのか」(近くで爆発したら体はバラバラですね)、「50口径小銃弾(いわゆるマシンガンで使う弾)で撃たれるのは残虐ではないのか」(体が真っ二つになるとか、頭なら形も残らないそうですな)、「38口径拳銃弾を頭に打ち込む程度なら残虐じゃないのか」(死にますね。ストレートに)とか比較の問題がある。

つまり、核兵器を残虐だという視点は安全なところから、あるいは危険を味わったとしても助かった視点から言っているわけである。なにか総体でものをみていて、本質を無視している気がする。
殺される当人にしてみればそれが核兵器であろうが38口径拳銃弾であろうが嫌なのだし、同じことなのだ。
現実的なことを言えば、38口径拳銃弾を頭に食らっても簡単に死ねるわけではない。大脳新皮質部分だけ貫通すれば即死はしない。大脳新皮質は人間らしい感情をつかさどる部分でありそこを拳銃弾が貫通すればどんな感じがするのか想像するのも恐ろしい。
脳を撃てば皆死ぬというのは間違いである。かつて米国で鉱山労働者が杭が脳を貫通した事故があった。死ななかった。だが彼はもとは温厚な労働者のリーダーだったのだが感情の歯止めのつかない怒りっぽい人格にかわった。
それは悲劇である。一思いに死んだほうがましかもしれない。
いずれにせよ死ぬなら、じわじわ苦しむより爆心地の中心で蒸発するように死んだほうが苦痛がなくていい。私はそう思う。

核兵器「だけ」を残虐なものだと否定する考え方はイルカを殺すのは残虐だという感情論に近いものを感じるのである。外から観察した結果だ。そんなの直視すると気持ち悪いんだもんもんもんと言っているに過ぎないように思う。

「被爆者に対してそんな失礼なことを言うのか」と言われるだろう。この閑散たるブログが仮にもうちょっと読まれるものであるならば。
もちろん苦労された被爆者の労苦を否定するわけじゃない。心身ともに苦しんでこられただろう。いっそ爆心地で一思いに死んでいればこんなことにとまで思われたかもしれない。
だが、それは核兵器だからなのか、毒物や鉄砲の弾で被害を受けても個人の立場では変わらないでしょうと言いたい。同じ目にあった人が多数いることが問題だとしても、個人としては関係ない。
被爆者という具体的なものを盾になにか自分の主張を通したい意図を感じるのである。

別に核兵器を礼賛したいわけじゃない。人を殺し苦しめることにおいて別の手段と何の変りもないということをいいたい。核兵器を持つこともアメリカ人やロシア人が大好きな大口径の銃も私にとっては同じことだ。というより安易に個人が暴走して使う銃のほうがよっぽど怖い。核兵器のボタンを酔っぱらって押すのはかつてのゴルバチョフくらいだし怒りに任せて押すのは中国と北朝鮮くらいだな。あ、プーチンがいたな。あいつは危ない。
核兵器も怖いが、50口径の小銃弾が使える銃を持ち歩いているアメリカ人ロシア人のほうがよっぽど怖い。

核兵器を否定するということはどういうことなのか。
核兵器は戦術的に大規模で壊滅的な被害を及ぼすことになる。そこだけ見たら悲惨だ。
だが戦略的に成し遂げたいことを核兵器を抜きに成し遂げたいならどうなるか。
結局核兵器が及ぼす大規模で壊滅的な被害を敵に及ぼさない限り戦略に沿わないわけで、逆にそこだけ見たら核であろうがなかろうがやることはやるのである。
核兵器一発なのか、1t爆弾が雨のように10日間降ってくるのかの違いである。

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つまり、核兵器といえども結局手段であって何をするのか目的が問われるということなのだ。

目的はなにか。その動機はなにか。

その意味で広島長崎の原爆について、日本人の多くは理性的な判断をしている。

核兵器は一気に被害を及ぼす強力な兵器だ。
それで苦しんだ人が多数いる。
これは妥当な理解だ。事実である。

だが、それをもって「アメリカは残虐な民族だ、土下座して謝れ」とか言ってない。一部では広島長崎に原爆を投下した関係者と日本の遺族との温かい交流が報じられることもある。
まことに理性的だ。

原爆という強力な兵器を開発した人も、それを使った人も、それで大きな被害を受けた人も、等しく戦争というパラダイムに組み込まれていたわけで、民族として残虐だなんだという概念を持ち込まないのが正しいし、日米の当事者はそれをしている。当然のことと言えばそうなのだが、個人的感情を超越している点で尊敬すべき態度と言えよう。
攻撃した側のアメリカの関係者が訪日したとしても、それに石を投げる人は日本にはいない。

どこぞの日本の「戦勝国でもない」国に見習ってほしいものだが。


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もっと大枠の話として、核軍縮はどうあるべきかということも考えたい(私は何様なんだ)。
「核兵器は残虐ですぅ〜 今すぐやめましょぉ〜 やめてくんなきゃいやんいやん」という幼稚な議論で片付く問題ではない。

ゴールとして核兵器がない世界が理想というのはわからんでもない。イメージとして。

だが、先に書いた話の通り、別の手段とのバランスが必要なんである。
たとえば北朝鮮は国力を省みない状況に核の恫喝をしている。馬鹿である。というより世界規模の覇権を持たない国が核の恫喝をすることは実効性として間違っている。意味がないのだ。核を使う=翌日は国がないであろうに。馬鹿である。
無論米英仏が核攻撃能力を持つことは恫喝ではなく抑止力であるのでこれには当てはまらない。
この区別は難しいのである。北朝鮮万歳の左側の人は北朝鮮が核兵器を持つのと英米仏が核兵器を持つのと何が違うというだろう。露中ももっているんだがそこは責めないんだね。関係ないけど。
核廃絶は究極的理想ではあろうけど、現状どうあるべきかを考えると米英仏が持つのは正しく少なくとも北朝鮮が持つのは間違っている。露中も本当はダメだ。

何が違うのかといえば、外交交渉で道理が通じるかどうかだ。国際的状況において不利なことも認めて是々非々で対応できる理性があるかどうかだ。北朝鮮は完全にくるっているし露中もほぼくるっている。

まあアジアの片隅でこんなことを言っても聴くような人々ではないのはわかっているのだが。中国の核が本当に嫌だ。理性の外にある。

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こういうことを書いてしまうのは、背景として「反核運動をしている思想団体が嫌いだ」というのもある。
その背景などいろいろあろうが、アメリカが原爆を落として、広島・長崎に住む人、関係する人が多大な被害を受けたのは事実だ。
先に述べたとおり。当人が死ぬという意味では原爆であろうが拳銃弾であろうが関係ないが、外から見た視点で多数の人が死傷したことは事実である。

その規模から考えて慰霊するというイベントが大きくなるのは当然だ。

死んだ当人にしてみれば原爆だろうが川でおぼれて死んだであろうが同じことだ。というかおぼれて死ぬほうが苦しいのかもしれぬ。
死んだ人を追悼する気持ちは規模とは関係ない。1人死んだとしても遺族はその死を悼むだろう。
だがそれが多数に束ねれば国家的な行事になるのは理解できる。

しかしそこに付け込んで政治宣伝に利用するのはどうなのか。

先に述べたとおり、広島長崎に原爆が落とされ人が多数死んだという事実に対して、その背景や動機には複雑なものがある。
被爆者は「原爆を落としたアメリカ! ばかばか〜! お前が全部悪い。死ね死ね〜」と言っているわけではない。多くは純粋に多くの命が失われたということに対峙しているのである。
なのに、核兵器嫌い嫌い、落としたアメリカ悪い悪い、アメリカに協力する安倍政権悪い悪い、日本の防衛悪い悪い、安倍政権死ね死ねと言う論法に陥っている連中はなんだ。
誰がやったにせよ、多くの人が犠牲になったという事実の前に鎮魂をしようと集まっている人の前で気に入らない政権を倒せという発想につながってしまう馬鹿ども。
自分たちの気に入らないことを攻撃するために被爆者を利用しているとしか思えない。

posted by Mozzo at 12:45| Comment(0) | TrackBack(0) | まじめな正論! | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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