2015年08月16日

LGBTのことをちょっとだけ考えてみた

LGBTという言葉も浸透しつつある。
レズビアン、ゲイ、バイセクシャル、トランスジェンダーの頭文字をつなげたものである。
ものすごくおおざっぱにいえば性的マイノリティを指す言葉ではある。LGBTに含まれていない性的マイノリティもいるし、LGBTについて性的マイノリティとくくっていいのか議論もある。

意味が安定した言葉ではない。レズビアンとかゲイの定義はなんぞやとか、一緒にするなとか、私たちも入れてくれとか議論があるのである。
おおらかに考えればいいのではないかとも思うが、彼らが言葉の定義一つとっても厳しいのは、自分が立つ場所が危ういという意識が強いからであろう。厳しい環境が育てた厳しい意識があるのだろう。

まぁ意見いろいろあるところだが、ここではLGBTという語を使い、LGBTは性的マイノリティであるが、性的マイノリティのすべてがLGBTではないということで書く。この定義に拘泥していると話が進まなくなる。拘泥せねばならんことなのはわかっているがそれはまた別の機会に。

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昔に比べればLGBTに対する理解も進み、受容されてきているように思ってしまう。表立ってLGBTに対して蔑んだり嘲笑する人はそうは見かけない。そんなことを公言すればとんでもないことになる。政治家役人などであれば社会的生命を失うかもしれぬ。
なんとなく自分の感覚で、もはや偏見もなくなって、人としての生き方であって理解されていると思ってしまう。だが、同性婚を巡る報道を見ても、同性愛を宗教的に否定するだけではなく法律として否定しようとする動きが世の中にあると思うとまだまだ世の中は変わっていない、古いまんまだと思い知らされる。
結局、LGBTの声が少しは通るようになったので、面と向かって言い返したり馬鹿にしたりという人がおとなしくなっただけで、認識は改まってないということか。悲しい。

男は男、女は女、その二つしかありえない、男は男らしく、女は女らしく、当たり前のことだろうが、それが違うというやつは「変態」なんだよ、と思っている奴が意外と多い。ことに国民、市民の権利を左右する議員や公務員に多いように思う。
あえて言う。馬鹿である。倫理観とか思想とかそれ以前に知性が足りていない。科学的知識と判断力がないのである。

男と女という概念はあるにはあるが、そのありようの広がりは連続的であり多面的なのである。決して単純に離散的ではない。
この説明で「はぁ?」と思った方、丁寧に説明するのでまぁ待ちなさい。

「男と女は性染色体で決まるんだよ。XXが女でXYが男。きっぱり分かれるだろ」と思ったあなた。物を知らない。
まず、XYとXXの二種類ではない。XXYとかXYYとか、受精時の偶然か通常とは違う組み合わせになることがある。当然それは当人の心身に影響する。
これを異常と呼ぶのか、珍しい個性と呼ぶのか、判断する見識を私は持たない。なんにせよ、XXとXYの二種類ではないことは事実だ。異常だろうが単に珍しいだけだろうがそういう人がいるのは現実だ。
仮にそれは珍しい例として除外したとしても、XXとXYできれいに分かれるんだと言い切ってしまっていいのだろうか。
もちろん、XXとXYということ自体はきれいに分かれる。
だが、それは「男にするつもり」「女のままにするつもり」という計画書みたいなものに過ぎない。結果がどうなるかは別なのである。

よく知られている通り、人間に限らずXY型の性染色体を持つ動物の場合、基本はメスになるように設計されている(XYだけでなくXOとかXnYnとかZWとかZOとか種によっていろいろある)。そこへ「男にしようや」という計画書(Y染色体)が入っていると「メスの体をオスに改造する」動きになる。
計画書はあっても体の各部でみんな無視するかもしれないし、一部無視するかもしれない。誤解するかもしれない。結果は千差万別である。オスになれと旗を振ってもどうなるかはわからない。

そういうあやふやなもんであるのだ。

そこに戸籍は男か女かはっきりせいやと無理を言ってくる。あやふやなのに。若干〜男かな〜くらいのことを書いたらいかんのか。いやそれはもうちょっと後で決めようやと言ったらいかんのか。

戸籍に登録する性別は出生時の外性器で決めているらしい。
昔はそうだったろうが、今は厳密な染色体検査とかあるのかなと思っていた。意外にも今も外性器の形らしい。当然新生児の外性器なんてあやふやなもので取り違えがあって当然。

どんな性別で生まれようと精神的な個性は人それぞれであろうし、誕生後の生活の違いだって性的アイデンティティを左右することは間違いなかろう。

当人の個性や内面を無視してもこれだけのあやふやさがある。

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性的アイデンティティというものはその名の通り、生物学的な違いというよりは人格のありようである。いまあるありようから、性的アイデンティティについての分析をするならいくつもの要素がある。
性染色体と戸籍というだけでもいかにあやふやなものであるか。

男性らしさ、女性らしさというものは何次元の要素を持つか想像もできないくらいのベクトルに分解しないと理解できないんだが、強引にスカラ値に換算して考えよう。ややこしい言い方だがいろんな要素を乱暴にまとめて、男らしさ女らしさで言うとXX点で女らしさ寄り!とか単純化できると仮定して考えよう。まさに単純化だ。
そう割り切ってみても、男らしい、女らしい、男らしくないけど女らしくもない、男らしくもあり女らしくもある。そういう人いるよね。ああどんどん複雑になっていく。そういうもんなのだ。
とりあえず、女性らしい男性らしいという謎の指標があるとしよう。きりがない。

まず、自分の気持ちだ。自分はどの程度男性らしいのか女性らしいのか、またどうありたいのか、その気持ちがある。
次にどのような外形をしているかだ。髪型だ化粧だ服装だと人工的なものを除外して生物としてどのようにあるのか。マッチョであるとかグラマラスであるとか、外見は性的な特徴を帯びるものである。
自分の気持ちと外見が一致しているとは限らない。気持ちは乙女、見た目はマッチョ。何が悪い。そこに個人の葛藤があるのだが。
どう見せたいのかというアイデンティティもある。つまり先に除外した人工的なもの、自分の意志でやることである。髪型メイク服装しぐさ話し方etcetc....
気持ちはマッチョで恰好はふわふわガーリーにしたいでも矛盾はないのだ。
ここが難しいところで人工的に外見をこうしたいとおもっても、生来の自分の姿がある。マッチョな外見なのにピンクハウスの服が着たい!と思ってもね。折り合いつけなきゃいけない苦しみはある。
当然、平均的な人であろうとも自分の生物としての外見と、こうありたいというありようには差があるもので、もっと身長があればいいのにとか、もっとスリムだったらいいのにとか。それがLGBTの場合はもっと大きくなる。

さらに、パートナーに求める性的嗜好もある。
つまり、ここまで述べてきた性染色体、戸籍、内面的アイデンティティ、外見について、相手にもこういう人がいいということを求めるのである。同じように相手が自分に対しても求めているわけである。ある程度妥協するにしてもそれが合致しないと恋愛は成り立たない。マイノリティにとって恋愛成就は難しい。

性染色体的には男で、戸籍は女で、内面的には可憐な乙女で、外見はマッチョで、カントリーガールのファッションが好きである自分。性染色体的に女で、戸籍は女で、内面的にはたくましい勇者で、外見は知的な学者風でビキニの水着が似合うという人と結ばれたいと思っていても、矛盾はない。だが現実に出会えるかどうかは難しいのが現実だ。
平均的な人が平均的な人を求めているなら相手も見つかるんだけどね。
そこに「ふつう」という言葉をあてはめると悲しくなる。
脱線するがきゃりーぱみゅぱみゅさんが「ふつうになんてなれないでしょ まともがまともを求めるの」と歌っておられた。大変痛い指摘だ。普通って、まともってなんだよと。私はこの一見ビートが効いて元気な曲を聴いて涙がとまらないこともある。まともって幻想にどんだけ苦しめられているのか。まともって。

でもね。あえてLGBTという語を使って、平均的な人とは違うという観点で話を進めてきたけど、ちがうんじゃないかなと我ながら思う。アイデンティティと実際のありよう、(求めるなら)パートナーに求めるありようは平均的な人でもある悩みであって、その悩みは連続的普遍的に存在する。「はいここからLGBT独自の悩みですね」なんて線はない。ありようは連続的なのである。

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自分と相性の合う人間と出会い、恋愛関係になり、家庭を築くこと。それを望むなら人生の大きな目標たりうる。だが今や平均的な多数派であってもむつかしいことになっている。婚活なんて言葉がクロースアップされるなんて。
平均的な異性愛のカップルにおいてパートナーと出会い家庭を築くということは生殖というある意味生々しい現実とリンクしている。大変に言葉が悪いし、言う場所を間違えれば大失言になる。だが、動物的にストレートな状態で生殖する、つまりセックスして子供を産んで育てるということが主流派でなければ大変にややこしいことになる。
無論家庭(を構成する人の生殖能力と切り離した形での)とは無縁の生殖もありうる、卵子提供、精子提供、受精卵移植、エトセトラ。それらに頼らねば子供をもてない人は大いに頼ればいいし、それが不自然と思うなら養子などで次世代の育成に参加できる。
だが、主流としてはセックスして産むが主流でなければ健康リスクとコストの面で成り立たない。リスクを取り、コストをかけるのはここぞというときでなければね。もちろん当事者になったら遠慮は無用だ。その時点でコストは公の問題になるべきだ。不妊治療にも手厚いサポートを。

性的マイノリティの個性に基づいて成立したカップルは単独では生殖能力を持たないケースが多いだろう。どんなに愛があっても同性愛では子供は生まれない。
だが、パートナーの片方の遺伝子でも残したいと人工授精にトライするとか、養子を育てるとか、決して次世代の繁栄に関係ない人たちじゃないのだ。
だからと言って生物学的に生殖能力を持つカップルが子供を持たないことを責める意図はない。別に絶滅寸前というわけじゃなし。さまざまなありようを吸収する余力がまだまだあると信じたい。
むしろ生殖の面で考えねばならないのは、生殖したくて生殖能力もあるのに社会的事情でできない人たちのサポートだ。

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話をLGBTに戻すと、LGBTの多くは直接的に生殖にはかかわらないケースが多い。
前述のとおり社会全体では平均値で異性愛の結果生殖能力のあるカップルになり子孫を残す人が多いから社会は継続していける。
だが、それではLGBTはその余力で社会に存在しているのか? 社会の継続に何の寄与もしないお荷物みたいな存在なのか?
違うだろう。

私が敬愛してやまぬ竹内久美子さんの著作からの受け売りである。
理系男子というキーワードで語っておられた。
ここでいう理系男子はいわゆる文系理系とはちょいと違う。
人類の黎明期において、狩りをする、猛獣から家族を守る、他部族から守るなどという能力は当然必要だ。肉体派というべきか。
一方で肉体的能力は劣っていても知的能力で勝負する人もいたことだろう。
過去の経験や見識によって自らの部族を平穏に治める能力もまた必要だ。原初的な社会においても長老という存在はあっただろう。肉体派はえてして互いに競争する。それを治める知恵もまた必要。
現代的な言い方をすれば文系か。動物的な能力は低くとも人間が社会を運営するためには必要な存在である。

これに対しての理系。
力もないし統治力もないのだが、狩りや農耕に使える便利な道具を考えることが得意な人もいただろう。害獣から集落を守る道具や楽に田畑を耕す道具。こういう人がいるからこそ、「昔通りではない」進歩した社会が作れる。肉体派と長老派だけでは社会の進歩はない。

むろん、肉体派に全く知性や統治能力がないわけではないし、統治能力に優れた人が肉体的能力にも優れていたことはあっただろう。改革に興味をもつ統治者もいただろう。肉体、経験、科学力。
そうしたさまざまに優れた一面を持つ人に魅かれるように人間は進化してきたというわけだ。肉体が強いことだけに魅かれてしまえば性淘汰の結果みんなスーパーサイヤ人みたいな民族になってしまう。かといってみんながみんな経験豊富な長老に魅せられてしまうようでは社会は終わる。

そうして、あまり肉体的に強くなく、異性の獲得競争にも積極的でない、だがその能力で集団に資することができる人の形質も子孫に受け継がれていくというわけだ。

話をLGBTに戻すと、理系男子とは異なり、生物学的な意味で直接子孫を残すことは難しい。
卵子や精子を借りたとしてもパートナーのいずれかの遺伝子しか残せない。

だが、その存在が社会全体に資する部分があると思うのだ。間接的に次世代のために役立っている。
かなり直接的な例で言えば身寄りのない子供、育児放棄された子供を引き取って養子として育てることは次世代を育てていることに他ならない。生殖能力こそ発揮しなかったが、産むことより育てることが大事だ。育てなければ育たない。

もっと広い視点で見れば、世の中にはいろんな価値観があることを教える先頭ランナーのような存在であることも有益だ。LGBTが先頭ランナーであること自体がまだまだ社会が未熟であることを表しているのだが。社会に厚みを増すことはみんなが生きやすい社会になることとイコールだ。
「違う人間もいるんだよ!」ということが大きな声で言えるから、「ちょっと違う」人も生きられる。旧弊な人間は男すべて企業戦士であるべき、女は結婚相手を見つけたら会社を辞めて貞淑な妻であるべしとまだまだ思っている。馬鹿である。
会社員だけみても、出産、育児、介護、病気といった家庭の事情もあるし、そもそも自己実現という基本的なものも人によって違う。企業戦士を否定するわけでもないし、専業主婦になって家庭を支えますというのを否定するわけでももない、それも生き方。だがそうでなくていいよという声が小さすぎた。私はこれをLGBTが後押ししてくれたと思っている。

社会の仕切り役。LGBTが果たしているのではなかろうか。

たとえば謎のタレントマツコ・デラックスさん。あ、すげー「まつこでらっくす」と打ったら自動的に中黒入れてくれた。さすがの知名度。
それはさておき。

彼というか彼女というべきか。まぁ彼として、彼の立ち位置はあんまり知らない。格好は女性っぽくしたい、しゃべり方もしかり。で、内面とかタレントとしての見せ方とあるべき自分との乖離とかあると言えばあるんだろうけど、見ているこっちとしてはしらん。マツコさんが女性を好きであろうと男性を好きであろうと知ったことではない。

彼は知性的でその見識には感服することが多々ある。時に正論、時に暴論。言うことには納得するんである。
だが、その見識は彼の外見がなくて社会に通じる言葉だっただろうか。あの外見だから人は耳を傾けああそうだと納得するのではなかろうか。
世の中に通じる言葉を発するとき、世の中に通じさせるためにときに飛び道具が必要なんである。こんなブログでいくら正論を吐いても誰も相手にしない。逆説的に証明している。
LGBTに直接関係しないことであっても世論をリードすることができる人たちであるのではなかろうか。
久米宏あたりがいくら言っても何にも浸透しないけどおすぎとピーコが言ったら通じるって部分がある。同じことを言っていても。
そこも含めて先頭ランナーなのである。

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LGBTの有名人の先駆けと言えばカルーセル麻紀さんだろうか。あれ!?一発で変換できなかったぞ。マツコ・デラックスは出たのに。

彼女は(ここは彼女でいいだろう)、とあるオーディションに女性として応募して合格してしまったというのがスタートしての一歩だったとか。
だが性別を偽って仕事を受けるのはどうかという葛藤があって発表に至ったそうだ。
それが話題も呼んだが、大変に美しく、魅力的な女性であったにもかかわらず、LGBTに理解がなかった当時厳しい非難も寄せられたという。ばかばかしいがそれが現実。

彼女ははるな愛さんなど後続のいわゆるおねえタレント(この言い方もどうだか)の面倒もよく見たという。逆に言えばLGBT同志助け合わねばたとえ芸能界と言えど厳しいということか。
彼女に引き続きさまざまな分野でLGBTのタレントが世間に出た。KABAちゃんとか仮屋崎省吾さん、山咲トオルさん、佐藤かよさん、ミッツさん、椿姫彩菜さん。えーとえーと名前が出てこない人もいる(調べろや自分)。決してLGBTを「売り」にしていない、売りになる才能を別に持っている人たちが堂々と世間に出ている。

LGBTを売りにしていないがそれを隠してもいない。それがなにか?という姿勢がいい。
LGBTへの偏見をなくすために素晴らしい仕事をしていると思う。
活動家の100の言葉より、彼ら彼女らの存在一つで人の気持ちは変わる。

別に特別な意識を持たなくてもいい。なんか活動家に賛同せんでもいい。LGBTそれがなにか?というくらいに自然にとらえればいいのだ。というより、自分に利害のない相手のありようにいちいち目くじらをたてないのは当たり前で、当たり前のことをすればいいのである。

自分が同性愛者だからといって相手に対して同性愛にせーというわけじゃない。日の丸旭日旗が嫌いだから日本人も日の丸旭日旗を否定しろやこらといっている連中とはレベルがちがうんである。

posted by Mozzo at 19:27| Comment(0) | TrackBack(0) | まじめな正論! | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

戦後70周年 反省? 反省!?

安倍首相が戦後70年の談話を発表した。
まぁ何を言おうと否定的にとらえる韓国、朝日新聞、中国につける薬はないので放っておこう。治らない病気なのだ。

キーワードは反省とお詫びである。
私は安倍首相が戦術的に懐柔するため安直にこの語を使ったと思っている。
全体を見れば安倍首相が言いたかったことも入っているとは思うのだが、だからこそ櫻井よしこあたりの右派の論客もそれなりに評価しているのだろうが、このキーワードはどうかと思う。

お詫びはあっていいと思うのだ。
目的動機はどうあれ、中華民国や朝鮮の人にいやな思いをさせたのはたしかだ。
日本にも事情があったとか、日本が出なければもっとひどいことになったとかは関係ない。日本がやったことで苦しんだからお詫びだ。それはおかしくない。韓国なんて今は先進国の一員みたいな顔をしているが、もし日本に併合されず、当時の支配層が望んでいたロシアによる併合になったらどんなことになっていたか。想像力がないのかと言いたいが、併合されてうれしい国はない。結果はどうあれ。

だが、反省はどうなんだろう。
本来こうすべきだったがあってこその反省だ。本来どうすべきだったのか。

韓国を併合せずしてロシアに対抗する壁を作れたのか。中国や南方に展開せずして列強に対抗することができたのか。資源を抑えられ軍事的プレゼンスにさらされ、外に打って出るか支配されるか。座して支配されることを選ぶ指導者は売国奴である。
万に一つの確率であってもそして他人を犠牲にしてでも国の独立を維持することを考えるのが為政者というものだ。

当時中華民国ははまさに草刈り場。国力が脆弱で広大な土地がひろがっていた。取り放題。香港マカオ。故に世界の列強の注目を集めつばぜり合いを招いた。ここに足場を築いてしまえば東アジアに影響を及ぼすことができる。当時日本は列強に入るか入らないか、いや到底及ばないというレベルであったが、地理的要因から東アジアににらみを利かせられる存在であった。
欧州からも米国からも距離的に遠い。ゆえに日本に有利だ。だが、列強の拠点が東アジアにできたら次は日本だということを考えてもおかしくない。

その状況にあって日本はどうすべきだったのか。それがなくして何の反省か。

打って出る以外の選択肢はあったのか。

結局国力の差か戦略の差か、無条件降伏に至ったわけだが、それが日本にとって良かったのかわからぬが、それよりベターな選択肢があったのか。
私が思うに日本は緒戦がよかったゆえにちょっと欲をだしすぎたのかなとは思う。南方を全部抑える国力はない。
せいぜい朝鮮満州と南方のごく一部を抑えるのが無難な策だったのだろう。列強が「まぁいいでしょ」と黙認するレベルを探るべきだったのだろう。中華民国のおいしいところは列強さんで分けてくださいと。
資源もなく国力もない朝鮮はロシアに対抗する意味しかなかった。お荷物でしかないのだが仕方なかったのか。なんとか影響力を維持したまま朝鮮を独立国にしてけば楽だったんだが。伊藤博文を殺害した安重根が馬鹿だったのだろう。あんなテロリストに乗っかった日本も未熟だった。


この談話によってまた一つ言質をとられたと思う。
安倍総理が目指すこととのぶれが彼の支持層を失望させたと思う。
言うべきは「事実に基づく検証」だったのではなかろうか。虚言や思い込みで語られた戦後史を誰しもが認めざるを得ない事実で見直していくことが唯一相互理解を実現するほうほうなのではないか。


まぁ事実なんてものは中国韓国にとってはどうでもいいことなんだろうが。気持ちいいことだけが真実という幼稚な国。どうか私のこの認識を覆してもらいたいものだが。
posted by Mozzo at 16:57| Comment(0) | TrackBack(0) | まじめな正論! | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

冷た〜〜いスープ

なにをいまさらという感じだがビシソワーズを初めて美味しいと思ったこの夏なのである。
ビシソワーズ(ヴィシソワーズだろとかいう愚劣な指摘は受け付けません)とはジャガイモを主材料にした冷たいスープである。
もともと日本にはなかったものであるが、ずっと以前に「おされ〜」な食べ物として入ってきた。その時食べたような気がするが、何の感慨もなかった。それ以来食べることもなく。

で、なんで今更なのであるが、なにもレストランできっちり食べたわけではい。一部コンビニなどでチルドの商品が売られているのを目にしたのがきっかけである。チルド商品はコーヒーやら乳飲料やらいろいろあるが、缶やペットボトルの商品に比べて日持ちしない代わりに素材が生きている感じがするのでその場で飲むならいいと思っている。

しかしだ、冷たいスープだぁ!? と思っていた。気持ち悪い。味噌汁もかけそばの汁もラーメンの汁もアツアツだからうまい。夏だろうがアツアツに決まっている。冷めていたらまずいでしょうにと思ったのである。
ではざるそばのつけ汁は何なんだ、ぶっかけうどんはどうなんだと理詰めで来られたらなるほど苦しい。だが、ジャガイモにブイヨンに、そこまではいいが生クリームだぁ!? 牛乳といるレシピもある。お前は料理なのかデザートなのか、いーーーーーっとなるので無視し続けていた。

で、その私がなぜ今年ビシソワーズを手に取ったか。
暑さがこたえている。以前は暑かろうが食欲は落ちなかったものだ。歳なんだね。欲はあるけれど胃が受け付けない。
そこに冷たいスープ。試してみようではないかと思ったのである。

コンビニの冷蔵ケースにプラスティックのカップ、アルミの蓋で売られている。買い求めれば蓋にプラスティックのストローをぐさりと差し込んで飲めとある。
まろやかなジャガイモの香りと風味、コンソメの旨味、絶妙な塩味、クリームなのか牛乳なのか知らんが乳製品のコク。引き締める香辛料。これはうまい。
食べず嫌いの数年間がもったいないと思うくらい。もっといいレストランで食べたらよりうまいだろうが、コンビニのでも充分にうまい。

考えてみれば大変に優れた食品だ。
暑ければ食欲は落ちる。胃の具合も悪くなる。そうではない人はわしわしと食べていただければいいが、もはや固形物をとる気にならないことだってある。
だからといって何も取らねば衰弱するし、下手をすれば夏バテで死ぬ人だっているのだ。
無理して食べたところで消化吸収する能力すら落ちているかもしれない。

塩分に糖質、タンパク質、脂質、さらにアミノ酸も含む。水分補給にもなる。ジャガイモならビタミンCも期待できる。それを無理なくすっと摂れるのであるから夏の食事にぴったりだ。
飲んでみるとじんわり沁みるような味わい。これは体が欲してるのであろう。

ビシソワーズの商品ラインナップをたどると、姉妹商品がこれまたうまそうである。
カボチャやコーンてのは定番と言っていい。なるほど定番でそれぞれの風味がいい。というよりカボチャやコーンがあってのジャガイモだろう。
えんどう豆なんてのもある。これがまた風味がプンプンとしていい。
これ、もっといろんな野菜でできるだろうなと思う。小松菜とかトマトとかアスパラとか大根とか。パクチー味もほしいな。

暑いのに健康重視で苦痛の食事をするなんて人生の意味がない。
美味しく健康に(たぶん)いいなら安直かもしれぬが液体飯もいいではないか。
いや弊害もあるのかもしれないが食べないよりいいはずだ。快楽と健康のはざまに。
posted by Mozzo at 09:31| Comment(0) | TrackBack(0) | うまいものの話 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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