2015年08月23日

大阪の中学生二人が殺害された事件

大阪市で中学一年生の男女が殺された事件。
最悪の結果を迎えてしまった。
その残虐な犯行に遺族や友人の方々の悲しみはいかばかりか。
ことに、少年の母親が悲嘆にくれる様は広く報道され、他人のこととはいえ涙を禁じ得なかった。
せめて冥府での幸福を。そう願わずにはいられない。幼馴染という二人、若い故のいろいろな悩みを語り合っただろう二人、冥府でも二人で語り合っていると願いたい。笑顔で。

容疑者が逮捕されたのがせめてもの慰めか。
山田浩二容疑者(45)。報道によればかなりの問題人物のようである。
かつて少年を拉致監禁し、後ろ手に縛って放置、金品を奪って逮捕されたという。
学生時代から素行が悪く、進学もしないどころか、親からくすねてきた金で周囲の歓心を買おうとしたり、いきなり鋏を振り回したりと精神的に危険な人物である。

たいていこういう事件では、
「真面目そうな人でこんなことをするなんて」
というコメントが出るのが普通だ。
実際そこまで真面目でなくともそんな奴を放置していたのかよという圧力を感じるから「まさか」というニュアンスを出すものだ。

だが、今回は
「あいつならやりかねない」「あいつだなと思った」
という声が報道されている。
どんだけ危険人物なのだ。

厳密な事実、例えば鋏を振り回したことがあるとか逮捕されたことがあるということ以外に、受ける感じ、印象と言うものがある。
こいつ絶対そのうちに犯罪を犯すよねと。それがあったのだろう。

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報道によれば現状少女の拉致監禁は認めているらしい。しかし、殺害したのは謎の同乗者と主張、少年に対する言及はない模様。まぁ逮捕前に容疑者を追跡して少年の死体遺棄現場に至ったわけであるし、あらゆる防犯カメラの映像には容疑者しか映っていないという。
事実を一つずつ積み重ねて容疑者の主張を崩し、全面自供で裁判に臨んでもらいたいものだ。
悔やまれるのは、逮捕に大きな貢献をしたのが防犯カメラであるのだが、犯行現場、つまり少年少女を拉致した現場が写っていないことだ。死角で犯行に及んだと推定され、土地勘があるがゆえとされる。
土地勘があるから防犯カメラを避けられたというのは直接的物証がない言い訳ではあるが裁判では弱い。
この事態を受けてか単に住民を安心させるためかはしらぬが、防犯カメラ40台を公費で増設するという決定がなされた。
いいことだ。
カメラも安くなったわけで、高性能なものをまばらに配置するより、個人でも買えるようなカメラをあらゆるところに仕掛けてもらいたいものだ。それは犯罪の抑止力になる

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この容疑者が「殺したのは同乗者」「同乗者の名前も年齢も言いたくない」としたのは全くの嘘とは断定できないがさまざまな報道を見るに単なるごまかしだろう。
少なくとも一人で粘着テープを買いに出たとかそうした客観的な事実から犯行の首謀者であるのは間違いのないところだろう。

「ほかのやつがやったんだもん」という精神構造。残念ながらこういうやつはいる。
何か別のやつに責任を押し付けたい。だがそんな奴はいない。でもいたんだというストーリーを作り上げて信じ込むタイプ。意外と多い。
あの和歌山毒物カレー事件にも同じ匂いを感じる。
もちろん、その架空の犯人が絶対に実在しないとう証明はできない。そもそも存在しないということの証明は論理的に不可能なのだ。演繹的に無理。
ゆえに帰納的論理で容疑者が犯人だと言い切るわけだが、「本当は違うのに」という言い訳の余地を残してしまう。

言い訳ができるゆえに、その言い訳を自らの記憶としてすり替えてしまう故に、反省を引き出すことはできない。
何度も同じことを書いている気がするが、罪の重さに対する罰と、犯罪を起こさない人間に更生させることは別である。この手の人間は反省しない。

この事件、たぶん死刑だろう。複数人を殺したという事実。その残虐な手口。未来ある少年少女、抵抗するすべを持たなかった少年少女をあやめたという不条理。動機は明らかではないが明らかに異常性を感じさせる状況。社会に与えた影響。
法が許すなら、遺族をはじめ犯人を憎む人すべてが「切れ味の悪いナイフ」をもって刺していくくらいの刑を課したい。

いつもの例で責任能力がなかったから無罪とか弁護士は言い出すんだろう。
自動車を運転できて隠蔽工作ができるじてんで責任能力100%だ。
いくら嘆いてももはや二人は帰らない。事実を明らかにし犯人に厳罰を下すことが残された人と社会の使命となろう。
posted by Mozzo at 04:58| Comment(0) | TrackBack(0) | まじめな正論! | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

てんかんへの偏見をなくそうというけど

基本間違っていないが公に求めるものを間違っていないかと言う報道。古い記事だが引用する。

引用ここから====
患者、周囲の理解求める

 運転手のてんかん発作が原因で小学生6人が死亡した事故などをきっかけに、昨年5月、持病が原因の交通事故を厳罰化する自動車運転死傷行為処罰法が施行されたが、てんかん患者の約6割が差別や偏見が強まったと感じていることが、日本てんかん協会(東京都豊島区、鶴井啓司会長)の調査でわかった。

 調査は昨年7〜8月、全国の20歳以上のてんかん患者や保護者らを対象に行われ、2022人が回答した。「差別や偏見が強まった」と答えた人は、「とても」(27%)と「やや」(30%)を合わせて57%だった。

 このうち34%が「(勤め先から)解雇されたり心ない言葉をかけられた」と回答。差別や偏見が強まったと感じる場面は「日常生活」が67%、「職場」が42%、「学校」が10%だった。

 持病による事故をなくすために必要なこととしては、「病気を正しく理解してくれる社会」や「運転不可でも就職で不利にならない保障」など、周囲の支援を挙げる声が多かった。

 同協会副会長で静岡てんかん・神経医療センターの久保田英幹・統括診療部長は「発作が出なくなったり、意識を失うほどの発作はなかったりする人が多いのに、病気の危険性だけが強調され、誤解につながっている。持病で運転ができなくなった人には、公共交通機関の交通費を割り引くなどの施策や、周囲が病気を正しく理解して患者が病気を隠さずに済む社会作りが必要だ」と話している。

(2015年2月18日 読売新聞)
引用ここまで====

てんかんの患者による悲惨な事故がいくつも起きて、偏見が高まっているというのはあるのだろう。それを正すために世にアピールするというのもあっていい。
だがやり方を間違えると偏見は高まる。

この記事が特別おかしいと言うつもりはないのだが端々に、ん?と引っかかるものがあるのだ。
この調査、日本てんかん協会が実施したわけだ。これ公正な調査だったのという気がしてしまう。身内が身内の窮状を訴えるための恣意的な、という色眼鏡で見られてしまう部分がないとは言えない。できれば公正さが期待できる第三者の調査ならよかったのだが。
調査結果をいじっているなどとあからさまな不正があったとまでは言わない。だがこの手の団体が「差別もなくなりました。我々の存在理由も薄れました。もうすぐ解散です〜」ってような結果を導くわけがない。もちろん当の患者だってそうだ。「偏見なくなりましたねぇ」なんていうのは「空気の読めない」ことじゃなかろうか。

イメージ戦略を誤るとこういう見方もされるということを言いたい。

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言っていることもどうだか。
文中にある「運転不可でも就職で不利にならない保障」「持病で運転ができなくなった人には、公共交通機関の交通費を割り引くなどの施策」というのもこれだけ見ればわからんではない。
だが冷静に考えてみてこれはどうか。
運転不可はなにもてんかん患者だけじゃない。私も運転不可だ。免許がない。返上した。
私が返上したのは運転の適性がないと自分でわかったからだ。いずれ事故を起こす絶対の自信があった。教習所で「操作は素晴らしくうまいが運転は下手だ」と的確なコメントを頂いたものだ。クランクやら坂道発進やらテクニックは合ったのだ。すすいのすいっってものだ。しかし、運転に必要な「まんべんなく必要なところに注意力を向ける」ということができない。一点集中でほかが見えなくなる。これはそうそう治るものではない。

で、運転免許の有無を採用の条件にするなというのは乱暴だ。
クロネコヤマトに免許なしで応募するとでもいうのか。地方の営業職をはじめ、車社会の地方では免許がなきゃ仕事にならない。車運転しませんが採用しろやというのは、裏返せばどうやって仕事するつもりですかということだ。
免許が関係ない職場でそれを理由に採用しないというのもいかんが、免許が必須という職場は多いのである。そこに「てんかんだから採用しろ」という圧力をかけるならそれは偏見を高めることになる。

しかも「不利にならない保障」とある。誰が保障するんですかね。誰の義務なのだ。誰に向けた言葉なのか。公か?
先に述べたとおり、免許を持たない人を採用する余力も意味もないという企業は多々ある。その枠組みをそのままに保障しろというのは「仕事ができようができまいが雇って金払え」と言っているのに等しい。企業がむりなら公費で賄えと言っている。
バランスがおかしくないか。

免許がなくても働いている人は多々いる。免許がなくても働ける枠組みは作れるのである。そこに着目して枠組みを変える働きかけをせずに「差別するな〜」と言っていると反感が増すばかりではないか。

「だって地元の職安に行っても全部免許ありが条件なんだもん」と言う人もいよう。その地方は車社会なんである。なんなら自家用車で通勤するほかないところに社屋を構えている会社もあろう。
だから「仕事ができなくても雇われて当然じゃん」というのは論理の飛躍だ。
不利は不利なのだ。仕事をするうえで必要なあらゆる能力において、個人ごとに優劣はある。それを企業は必要な能力があるかないかをみて採用する。その差を見てはいかんと言うのは乱暴だ。

なぜその車社会の地方から抜け出さないのか。免許がなくても働ける場所はいくらでもある。私だって働いている。
地元で働きたい? 甘えだ。自分に都合のいい条件をそろえてくれと言っているだけだ。条件は自分で整えるものだ。
都会に出るお金がない? 改善すべきはそこだろう。「ほかの人と対等にスタートできる条件」を公に求めるのは正しい。スタートラインを同じくしてあとは個人の能力と努力。都会に出る支援を求めるならまだしも(これも問題はあるんだが)。
しかし、「不利にならない保障」というのは一見スタートラインを同じにしようにみえるが、スタートしてからも私を有利にしてねと言っているのだ。就職したって仕事ができないんだから。

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「交通費を割り引け」というのも同じく乱暴な話だ。
自動車に乗らないんだからその費用が浮くでしょうに。それを交通費に充てればいいのであって、その他の自動車に乗れない人との平等はどうなる。免許がなかったら一律割り引くのか。
私のためにバス路線を作れと言っているのとロジックは同じなんである。
なぜ交通費が安く済む都会に引っ越さないのか。

話を大きくすると、自動車に頼るような閑散とした地方はコンパクトにまとめて効率のよい地方都市にすべきなのである。無秩序に広がった住宅や事業所をなくして、自然に戻したりまとまった農地にする。自動車が必要なのは広大な農地に出かける農家の人だけ。後の勤労者は都会でコンパクトに暮らす。
そう変えていかないと生活環境を支えるコストに社会が持たなくなる。限界集落に行くための道路や橋にも同じくメンテナンス費用がかかるのである。

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てんかんを抱えて生活に不安があるのはわからんではない。
社会に何かを求めるのも間違ってはいない。
だが、
「我々に都合のいい施策を」
というのと、
「誰もが暮らしやすい社会とはこういうものだ」
というのでは意味も違えば他者からの見え方が違うというものだ。

「交通費を俺にくれ」というのと「交通費が少なくて済むコンパクトな都市を作ろう」と言うのは違う。

てんかん協会自体がてんかん患者への偏見を増すことのないよう願いたい。
posted by Mozzo at 04:09| Comment(0) | TrackBack(0) | まじめな正論! | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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