2015年11月04日

原爆ドーム周辺は栄えてはいかんのか

価値観はそれぞれだと思うのだが。

引用ここから====
原爆ドーム近くでカキ船営業、イコモス会長懸念
2015年11月02日 09時15分

 世界遺産・原爆ドーム(広島市中区)近くの元安川にカキ料理を提供するカキ船が移転、営業を開始したことを受け、国連教育・科学・文化機関(ユネスコ)の諮問機関「国際記念物遺跡会議(ICOMOS=イコモス)」の幹部らが1日、現地を視察した。

 グスタボ・アローズ会長は「この場所は聖なる場所。飲食する場はその意味を破壊する」と懸念を表明した。

 移転を巡っては、市民らが「世界遺産としての価値を損なう」などと今年6月、河川の占用許可をカキ船の運営会社に出した国を相手に、許可の取り消しを求めて地裁に提訴している。

 10月末に福岡市で開かれた年次総会にあわせて来日した一行はこの日午前、平和記念公園や原爆ドーム、営業中のカキ船を視察し、関係者から説明を受けた。

 イコモスは2006年、原爆ドーム周辺で高層マンションの建設が始まったことを受け、規制を設けるよう勧告。カキ船の移転についても、日本イコモス国内委員会が今年1月に懸念表明を出している。

 アローズ会長は勧告などの措置を取ることについては言及しなかったが、「(飲食施設が)次々とできる可能性があり、何らかの形でストップされるべきだ。日本イコモス国内委員会と今後も連携したい」と述べた。
2015年11月02日 09時15分 Copyright c The Yomiuri Shimbun
引用ここまで====

核兵器はごく強力な兵器である。それはだれもが認めるところである。
だがそれが邪悪であるとか、それを使う人間、保有する人間も邪悪であるとか、核兵器で死んだ人間は神聖な被害者なのだとか、そこに好悪善悪の価値観を入れてしまうとそこは人それぞれとしか言いようがない。

どうにもそういう、「人それぞれ」の価値観がベースにあってのことのように見えて仕方がない。
核兵器による被害を神聖視すること自体がおかしいとは言わない。核兵器が邪悪だからずっと鎮魂鎮魂でああ美しいと思ってしまうのであれば、それ自体を否定はしない。だが、悲惨な被爆体験を超えてたくましくよみがえった広島市民をたたえることになるのだろうか、疑問なのだ。

被爆直後、放射能の影響で何十年と草一本生えないのではなかろうかと言われたものだ。ましてや人間が再度住むなんてと。

しかし、広島も長崎もたくましく復興した。広島長崎といえば被爆というマイナスイメージもあるが、広島の牡蛎をはじめ食べ物が放射性物質云々で忌避されることはない。
原爆ドームを保存して被爆という悲しい歴史を背負い記憶するとともに、その遠景に繁栄したくましく生きる市民の姿が浮かび上がるというのは、私は真の鎮魂につながると思っている。
原爆の威力をまざまざと感じつつ、ふと目をやればにぎやかな街、おいしそうな飲食店。なにがいかんのだろうとおもう。
原爆ドーム周辺とはいえ、死んだ町にしたいのか。

「聖なる場所」というのは便利な言い回しであって、他人を黙らせる機能がある。
だが、本当に被害を受けた人やその子孫を考えてのことか、自己満足の他人に何かを押し付けることなのか、冷静に考えてみてもらいたいものだ。

私は原爆ドームとその周辺だけが傷跡をつらい記憶として残し、あとは繁栄している姿を見たい。あえて反映している姿と重ねて見たい。
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2015年11月01日

いまさらハロウィンの話

最近ハロウィンなるものが定着し始めている。
当然私が子供だったころはその単語さえ知られていなかった。

ハロウィンが定着したといってもまだまだ知らない人も少なかろうから説明しよう。ざっくりと言って西洋の風習である。
ポイントはカボチャ。大きなカボチャをくりぬいて人の顔のように目鼻に穴をあけ提灯を作る。
ジャック・オ・ランタンという。
このカボチャに4本の棒を指して馬のようにする。玄関先に飾っておくと天国からご先祖様がこのカボチャに乗って帰ってくるのだ。
現世に帰ってきたご先祖様は家々を回り「悪い子はいねがー、泣く子はいねがー、トリックオアトリート〜」といいながら、いい子にはお菓子を、悪い子には石炭を靴下に入れるそうだ。
祭りが終わるとカボチャにろうそくをともして川に流す。
そして皆で「精霊流し」を歌ってもっともさだまさしに似ていた人をその年の氏神様として祀るというものだ。
まぁ地域においてディテールの差はあろうがこういう祭りだ(信じないように←こういうエクスキューズを入れないといかんのか)。

まぁそういう蛇足はさておきだ。

ハロウィンというのは純粋にキリスト教の行事でもないようだ。
もともとはケルト人の行事という。
欧州は時代によっていろんな民族が勢力を伸ばしたり縮小したりで日本人にはわかりづらいのであるが、ハロウィンに限って言えばケルト人の風習が徐々にカソリックの行事として取り入れられたたしい。よくわからぬが。現代でもキリスト教諸派においてハロウィンを是認したり、否定したりといろいろあるようである。
地域的にはスコットランドあたりにその起源(英国側から見て)があり、英国が世界を支配する時代にあってさまざまな形でカソリックとともに伝わったらしい。かのアメリカでももはや娯楽的なお祭りと言う形で伝わっていたようである。その点、イエスキリストの誕生日という本来の意味をのこすクリスマスとは若干異なる。

たとえば米国において娯楽的になっているが、それでも宗教的なベースを残しているという意識なのか、いやそもそもキリスト教の行事ではないということが忘れられているのかわからない。
私の大好きな映画、The nightmare before christmas.ではサンタクロースがHappy Halloweenと呼びかければジャックがMerry Christmas!と交歓していたな。
同列なのかどうなのか。
アメリカ国籍でゲルマン系でプロテスタントの自分から見るとこう思うとか、オーストラリア国籍でネグロイドでルーツはケニアでカソリックの自分はこう思うととかいう意見が聞きたいものだが。日本人が日本語で持ってる情報なんてのはあてにはならない。
なにかそうした文化が交錯した現場をそれぞれの立場で見てどう感じているのかというのを共有したら面白かろうと思うのである。

たとえば日本ではクリスマスを享楽的にとらえお祭りとして迎える。アメリカ人でもなくアメリカに行ったこともない自分には客観的にはとらえられない。
アメリカでも享楽的ではないのか、いや神の子が生まれた日として家族と神聖な日として迎える人もいよう。その平均像が知りたい。
アメリカ人から見ても日本のクリスマスは面白いだろうな。キリスト教徒は少数派なのに町中うクリスマス。商品もクリスマス。スーパーのお惣菜にもクリスマスのシールが。プレゼントに妙にフォーカスされているのはアメリカと同じなのか違うのかはわからん。
なぜかチキンを食べる、しかもKFCのチキンを食べるという風習は笑えるらしい。
当然クリスマスなら七面鳥でしょうにとアメリカ人は思うらしい。
奇妙な風習だと思うらしい。極東の国にはそんな習慣があるのかと。

ちなみにクリスマスにチキンを食べる習慣を作ったのは日本に駐留していた米兵らしい。七面鳥がないからチキン。それをみて商業的に盛り上げたのがKFC。

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それにしても日本では楽しそうと見るや遠い国のお祭りでもなんでも持ってくる。
浅草が有名だが各地でサンバカーニバルが毎年盛り上がるという。サンバカーニバルといえばブラジル・リオ。カソリックの謝肉祭をベースにした行事というが、きらびやかな衣装をまとって踊ってパレードする行事として広く受け入れられている。
たぶん「西洋阿波踊り」みたいな位置づけなのかもしれぬ。チームを組んで行列して覇を競う。
って阿波踊りも阿波というからには徳島発祥だろうが日本各地に広まっている。
よさこいだって元は高知なのだがこれまた全国に広まっている。

日頃は騒いだりしなくてもなにか非日常でみんなで盛り上がれるって口実があれば取り入れてしまうのであるな。
別に「サンバカーニバルは浅草が本家」とか言ってしまっているわけではない。遠い国のお祭りを日本でもやってみましたとみんながわかっている。平和だ。起源が遠い国遠い時代にあるのは知っていて自分たちも楽しむってのはいいことではないか。これで日本が本家とか本場だとか言い出したら怒るけどね。

逆パターンもないではない。
日本に駐留する米軍の兵士が基地で日本の盆踊りを知り地元に持ち帰ったという例もあるとか。輪を作ってみんなで踊るというのはなにか心くすぐるものがあったのだろう。
BONODORIとかいて「ぼのどりー」みたいに発音するそうな。

日本のサンバカーニバルはブラジルのそれとは違うだろう。すごく前にタレントのマルシアさんがサンバの基本ステップを披露していたのを見た。全然違う。おそらく日本人の2倍か4倍の解像度でステップを刻んでいるのだな。
ま、それでいいじゃん。それが日本のサンバ。おばーちゃんも踊りだすわいわい。

日本人としても盆踊りが外国で換骨だったりされて定着していたらうれしいじゃないかとおもう。
たとえば米国テキサス州でカウボーイ姿の男子が輪になって踊り、日本なら合いの手に手拍子するところを鞭をピシッと鳴らすでもいいではないか(ちょっとテキサス州にステレオタイプな誤解を持ってるな、私)。

いいではないか。世界中の楽しい祭りはどんどん取り入れたらいい。ただしそのルーツを忘れず、尊敬の気持ちも少しはもって。
別にクリスマスにキリストに祈る必要はない。キリスト教徒じゃないから。だけどキリストの生誕を祝う行事がルーツであって、それを真面目に考えて家族と過ごすということを大事にしている人もいるということを心に思い浮かべればいいのだと思う。

互いに相手の祭がこんな風に変形して伝わっているよというのは国際親善にならないだろうか。互いにうれしくないだろうか。

まぁ世界にはきつい祭りもあるが。牛追い祭り(最近牛をいじめるなとボールになったとか)、ロケット花火祭(かつて対立した教会とその地区がロケット花火を打ち合う。何万発も)なんてのは日本に来られてもこまるな。。。
posted by Mozzo at 17:02| Comment(0) | TrackBack(0) | まじめな正論! | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

杭打ち問題 現場が悪いのか

横浜のマンションで杭打ち工事の偽装があった事件。マンションが傾きだしたというのだからとんでもないことだ。この事件を発端に全国に偽装物件が見つかり、大騒ぎになっている。
当初は特定の担当者の不祥事という方向で片付けたかったようだが、その他の担当でも別の会社でも問題が発覚し、会社ぐるみ、業界ぐるみの様相を呈している。

もちろんルール通りやらなかったということは一義的には批判すべきことなのだろう。実際に傾きだした建物、あるいはそうなるかもしれないとされる建物を所有している人にしてみたら恨んでも恨み切れないだろう。
またその後の対応も後手後手というかなんというか。こういう時はすべてを早く公開し、大胆な対策を打ち出すのがよい。短いスパンで見ると対策コストが膨らむようにみえるが、結局企業イメージを守り、対策コストも小さくなるというものだ。しかし、頭ではわかっていてもいざそうなれば判断が狂うものなのだろう。
だが、そこに個人の不正、一企業の不正として片付けられない構造的な問題があると思うのだ。

元現場の職人へのインタビュー記事をみると杭打ちを正確にやってそのエビデンス(ちゃんとできたという証拠=この場合地面から戻ってきた波形らしい)を残すのはよく失敗することらしい。偽装は昔からあったという。
測定器のスイッチを入れ忘れたという人為ミスから、測定器が波形をつかまない、途中で大きな岩石にぶつかって杭が入っていかない、などなど。
きちんと杭を打ち込み、エビデンスを取る。これがルールだというのはわからんではない。だが現実的には無理があるのだ。一定の確率で失敗することは責められない。
無論ミスを減らす方法はあるだろう。人間が気を付けるなんてのは下の下だ。
測定器のスイッチが入ってなければ杭打機が動かないという仕組みがいるんだろう。波形をつかんでいるか確認するために軽く打ってみる機能も必要なんだろう。

だが杭が入りませんでしたなんてのは防げるのか。

それはさておき問題を二つに分けて考えねばならないだろう。
杭はきっちり入ったはずだがエビデンスがないというケースと、実際に杭が地盤に入っていないというケースがあろう。

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杭はきっちり入ったはずだがというケースでは、エビデンスがない場合に後追いで品質を確認する方法がないのかと疑問に思う。

爆薬で小さな人工地震を起こしその波で地面の内部を探査する方法がある。
堅い岩盤とやわらかい地層を区別し、杭がどこまで入っているか測定することはできないはずがないのだが。
施工時にデータを取るのと、後付でとるのとではノウハウも精度も違うだろう。
費用も違うと思う。杭打ちと同時にやれば先端からの波が取れるが、終わってからでは別の方法だ。斜めから地震波を当てるためには別の土地を借りねばならないかもしれない。

故に施工するすべての杭をこれで検査するのは引き合わない。
だが、エビデンスが取れなかったものだけに適用するのは合理的だ。
それが「何が何でも杭打ち成功、エビデンス取得成功。これしかありえない」とやってしまうからごまかしが出る。
失敗を前提にワークフローを決めるべきなのだ。

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そもそも杭が入らなかったケースはより複雑だ。
たとえば大きな石に当たって杭が進まないからといって、それが岩盤と同じく建物を支える頼りにはならない。大きな石といえど地震となればやわらかい地盤に載っている小さな足場に過ぎない。

失敗するな、が前提だからごまかしたくなるのではないか。

先に挙げた職人はいう「一本や二本入らなくても建物は歪まないように余裕をもって設計されている」。
当然全部は正常に入らないということを前提にワークフローや安全基準を決めねばなるまい。何パーセント成功すればいいのかとか、失敗した杭がどの程度集中してはいかんtのかとか決めておくのである。

そしてこれはエビデンスを取るのに失敗したときと同じだが、「失敗したらどうする」を決めておかねばなるまい。途中で大きな岩があったら1mやそこら脇にそれて打ち込んでもダメだろう。その岩を砕いてしまうことができるのか、あるいはその岩をまたぎこすように周囲に杭を打ち建物も補強するとか。

失敗しても最終的にゴールする筋道があることによってごまかそうという気持ちがなくなる。「何が何でも完璧を」と言い出すから現場を圧迫するのだ。ごまかすということはなんの基準もないことだから、どんどん甘くなっていくのだ。歯止めがない。

またも先に挙げた職人は言う。「一棟で一本二本の失敗はあったが、八本九本などありえない」
偽装という最後の手段を使うハードルがどんどん下がっていったのではなかろうか。

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失敗を前提としたルール作りをしないかぎり問題は置き続ける。
防振ゴムの偽装事件も記憶に新しい。その他、何らかの偽装事件は枚挙にいとまがない。
最近増えてきているようなイメージがある。
当然、安全や品質、あるいは情報公開だの企業コンプライアンスだのに敏感になっている、なりすぎているということもあろう。

しかし、現場がどんどん追い詰められているからだとも見える。
先に述べたとおり失敗を許さないという体質も問題だろう。
だがもっと大きな枠で考えると、責任や義務が前面に出る昨今の風潮があろうかと思う。
決していいことではないのだが、昔はその辺がもっとおおらか、悪く言えばなぁなぁだった。

大きな仕事では元請、下請、孫請、その先と連携して仕事を分担し、人を集めるのが普通のことである。元請企業が安く下請をつかっているという側面もあるのだが、元請がすべての労働者を雇ってしまえば労働力が硬直化しておかしなことになってしまう。
下請、孫請企業やその下で働く個人営業の職人は、今月はゼネコンAの仕事、来月はBの仕事と流動しているのである。元請が全部雇うとなると型枠職人が働いているときは内装の職人は仕事がないのだ。元請がいくら大企業とはいえうまく職人が遊ばないようにすることは難しい。イコールコストが上がるのである。

このように複数の企業がかかわっているのは今も昔も変わらないのだが、昔に比べると企業間で壁を作っているような気がしてならない。「会社が違っても同じ目的を追う仲間だ!」というところから「アンタの会社の責任だよ、これ」へ変質してしまっているような気がする。
「やると言ったらやるんだよね」と計画したときとは状況が変わっても押し付けてくる。当然押し付ける側もそれをやらせねば自分が責められるわけだから必死だ。
たとえば一次下請けの担当者は会社の中ではペーペーなんだが、二次下請けにとっては神様である。一次下請けは二次下請けに対しては強いが上司には弱い。だからどんなにひずんでいようが二次下請けにやらせるのが自分の使命だと思っている。
本来であれば二次下請けに任せたところが予想以上に困難なら(たとえば杭を打たせたらどうにも入らないことが多発)一緒に対策をかんがえるのが筋。ところが「何が何でもやれ」と言ってしまう。こうした体質が背景にある。

トータルで押し付け合いばかりやっていて、全体の効率を上げるとか、進捗遅れやトラブルを早期に認識して根本的な対策を施すということが大変に弱くなる。

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こういうことはなにも建設業界に限ったことではない。
複数の企業がかかわって一つの目標を達成するような分野ではどこでも起こる。

ソフトウェア業界なんてのはその最たるものである。建設業界以上に「やってみなければわからない」ということが多いからだ。「どうやればいいかわかっている」時点で仕事は加療しているような業界なのだ。極端なことを言えば、「何をやるのかこれから決める」しごとなのに「総額いくら」と見積もって契約してしまう業界。現場には予算内でやれという厳しい圧力がかかる。

外食なんてのも厳しい。
無論個々の仕事、例えば材料を仕入れて料理して出すとかそうしたことはやり方が決まっているし土の中の大きな岩があるかないかなんてコントロールしがたい問題もない。しかし、客がどう来るかというのがわからない。
外食産業はその多くの企業がコスト問題にさらされている。常に「お値段以上」を求める客に対してサービスしなければならない。客単価の高い店とてコストは大きな問題だ。
客がたくさん来ると思ってこない日は最悪だ。用意した食材、手配したアルバイト、すべて無駄になる。季節、天候、近隣のイベントなどなど様々な要素を考慮に入れて客数予測をするのだがなかなか当たらない。
客がそうは来ないと思っていたら来たというのも苦しい。少ない人員でてんてこ舞い。食材も切れてしまって売り逃す。これも大変怒られる。
さらに、キャンペーン商品が売れると見込んで発注したが定番しか売れなくてということもある。売り逃しと売れ残りが同時に発生する。
ここまでは予測技術の問題であるが、さらに越えがたい悪しき風習がある。
前年比売上げである。
毎年右肩上がりに売り上げが上がることを求めてくるのだ。そこに道理はない。
「いや去年は近所で大イベントがあったけど今年はない」とか言ってもダメ。
さらにナントカ努力して達成すれば来年さらに厳しい要求が来る。
そもそも売り上げには限界がある。座席数と回転率で客数の限外が決まる。業態が同じなら客単価がそうそう上がるものではない。さらに厨房や食材倉庫の限界もある。時間当たり作れる数は決まっているのだ。
そうした現状を無視した圧力がごまかしを生む。サービス残業だったり、食材の産地偽装だったり、賞味期限偽装だったりとさまざまだが。

およそ、現場にしわ寄せしない企業はあるまい。利益やコストを守るために現場に押し付けるのは程度の差はあれたいていの企業でやっている。レールに乗って進むがごとく決まりきった手順と負担で業務が終わるのは一部の公務員(ホワイトカラーの一部)だけである。
郵便局の配達員が「郵便物が多過ぎたから自宅においておいた」ってのも(あんまり同情できんが)同じって言えば同じなんだろう。

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こうした無理難題を現場に押し付ける体質に対して現場の労働者は弱い。
報道の表層だけで判断してはいかんが、現在日本の労働者に押し付けられている圧力を他国でやるととんだ反発を招くだろう。
毎週70時間以上働いているとか、過重な責任やら負担を押し付けられているとか、「そんなことやるわけない!」と騒動になるレベルだ。そうした軋轢が起きないように社会が設計されていると言っていい。そして多くの先進国で週40時間労働を守ったうえで70時間働く日本と同じ成果を上げている。生産性が低いのである。

このへんで社会を変革していかないと日本は疲弊して終わるような気がする。
posted by Mozzo at 16:29| Comment(0) | TrackBack(0) | まじめな正論! | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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