2015年01月26日

フランスのテロ事件 言論への制限を一切なくせ

フランスの週刊誌本社をテロリストが銃撃した事件である。
事件発生から時間がたっているがテロリストを批判する声は欧米を中心に広がっている。当然のことだと思う。「まっとうな」イスラム教の国、団体からも非難する声があり、連中が正当なイスラム教徒ではなく下劣なテロリストに過ぎないということも多くの人が理解していることだろう。

当然のことながらどんなに気に入らないことがあったとしても暴力で応ずるのは許されることではない。
究極の暴力として戦争という手段があり、戦争を仕掛けたものに対して軍事力で対抗することを否定するものではない。理想じゃないけど国がなくなったら困る。
だが、言葉や画像といった「情報」で行われたことがいかに侮辱であろうがなんであろうが暴力を使うことは許されない。それが世界の常識であり、その常識に外れる考えを持っている(それが正義だと信じている)ならばこの世界から退席してもらうほかはない。鳥も通わぬ絶海の孤島で閉鎖した国を作るのか、はたまたまさに彼らの言う「楽園」に行ってもらうかだ。楽園は4次元か5次元か全然違う世界にあるのだろうが。

さて、ここまでは多くの人が納得する論理だと思う。
だが、一部の報道やら論評を聞いているとその先が悩ましい。

一部こんな意見がある。割とメジャーだ。
暴力は当然いかんことだし、表現の自由は大事だ。しかし、表現の自由だからと言ってなんでもかんでも許されるのか。相手が誰であれまっとうな批判論評は当然許されるが揶揄侮辱は許されないのではないか。というものだ。

本質的には正しいと思う。本質的にはね。

たとえば、キリスト教においては(いろいろ宗派はあるけれど)、イエスキリストは聖母マリアの処女懐胎によって生まれたとされている。
この点について否定することはキリスト教に対する侮辱ととらえる人は少なくない。

ただイエスキリストが実在する人物であれば物理的・科学的にはそんなことがあるわけがないわけであって、いやそもそもイエスキリスト自体が実在の人物であったかどうだかも疑う説もある。だいたい、イエスキリストの誕生日が12月25日というのもだいぶ時代が下ってから「教会が決めた」ものだ。
マリアがどのような人物であったのか、なぜ処女懐胎ということにしたいのか、当然当時の考え方やら事情があったわけでそこを歴史的・科学的に研究することは現代の価値観において肯定されてしかるべしとおもう。
それでもかつて映画ダ・ヴィンチ・コードが公開されたとき物議を醸したものである。私も好きな作品であり小説や映画、派生して発表された研究本など様々みたのだが決してキリスト教を侮辱したものとは思えなかった。史実を追って様々な仮説に取り組むことと想像をはたらかせて華麗なるフィクションを構築したことにおいて真摯で優れた作品だと思ったものである。

歴史学の観点からあるいはそれをベースにしたエンターテインメントにおいて真面目に取り上げていることが自らの信じていることに反しているからと言って怒ってはいけない。科学技術の発達した現代において、地球の大きさが無意味になるほど情報通信が発達しているのだから異文化との交流もまた激しくなるのである。
唯一の共通言語である科学をもって分析されることを拒否していては現代社会は成り立たない。
科学を認めない狭量な姿勢は回りまわって大事にしている神様の評判を下げることになるのではなかろうか。科学的分析は大いにやったらよろしい、でも私たちは神話を信じていると言えば済むことだ。

その点日本は私の思う理想に近い。
日本にはいろんな宗教も入ってきていてさまざまであるのだが、国の象徴である天皇についても神話がある。神格化することを否定する人もいるし肯定する人もいる。神様とは言わずに伝統だという人もいるし神様だと思っている人もいる。
さまざまな人がいるが互いに戦争をしているわけでもない。
初代の天皇とされる神武天皇は神話上の存在とされていてそれをむきになって否定(実在したのだという)する人は少数だが、だからと言って神武天皇とかその始祖とされる天照大御神への信仰が薄らいでいるわけでもない。自然と神様としての存在と科学的な分析が同居することが平和に受け入れられていることがいいことだと思う。あとは宮内庁が全国の天皇陵とされる古墳について、もうちょっと科学的な研究を受け入れてくれたら完璧なのだが。墓所として尊重することと科学的な分析は両立すると思うのだが。

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と脱線したが、いくら宗教とはいえそこに歴史学的科学的分析を加えてはならぬというのは通用しないと思う。その点イスラム教だけではなくかたくなな人がいるのは事実だと思う。

冷静な科学的分析はよしとしても侮辱はいかんと言うのは誰しもそう思うだろう。
繰り返すが本質的には私もそう思う。

だが、技術的な問題としてどこまでが批判でどこからが侮辱なのか。主観が混じる話できっぱり決められるものではなかろう。そこが問題だ。
自身をイスラム教のまっとうな信者だと思い込んでいるテロリストがムハンマドをたたえるのであるなら、そのムハンマドを取り上げてテロリストを批判することがすべて否定されていいとも思えぬ。
だいたい、偶像崇拝が禁止だからムハンマドの絵を描いただけで侮辱だということを異教徒に強制できるものではあるまいに。そもそもムハンマドは絵を描くなと言ったのだろうかね。偶像が神格化され権威化されることを否定しただけでと思うのだがまぁそれは脱線として。

批判をするのに風刺画はいかんと考えるひともいるようだ。
批判をするなら論文など真面目な態度ですればいい。面白おかしく風刺画を描いたら侮辱ではないかというものだ。
それもどうかと思う。
まず、風刺というものは(絵に限らず)文化として言論として歴史も意義もある。表面的に「受けを狙っている」と受け取られやすいけれども決して不真面目なものではない。今回の事件の舞台となったフランスでは風刺の文化的地位は高いと聞く。歴史的背景からなにより自由を重視するという。

批判すべき対象があったとして、論文とか新聞記事とかで批判することは当然できる。ところが、相手が権威であり自分が正しいと信じ込んでいるような輩では正攻法で批判しても聞く耳持たない。民衆も真面目な議論についてくるとは限らない。
そんな時には風刺が効くのである。問題を笑いに変え届く意見にするのだ。

たとえば今問題になっているイスラム国ならば、ムハンマドが「イスラム国は弊社の製品ではありません」というシールを印刷しているなんて風刺画があっていい。まっとうなイスラム教徒を含めて怒るかもしれぬがそれこそ「届くメッセージ」なのである。

そう考えると極限まで自由であっていいと思う。
意味のない侮辱に対しては同じく暴力ではない方法で反論すればいいわけである。法律で強制することではない。これは批判か侮辱かと議論すること自体が物事を正しい方向に導くと信ずる。

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話が変わってしまうが、どんな風刺も批判もOKというならば、フランスをはじめ西欧諸国にある「ナチス礼賛は法律違反」というのも変えたほうがいいと思っている。
法律は杓子定規なものだ。
ナチスを描写してはならないとなれば、全体としてナチスを批判する文脈の作品でも表面的なことで制限される。それは意味のないことだ。
いやナチス礼賛の言論もあっていいのではないか。表に出したうえで議論すればいい。ナチスを描写しただけでゆらぐ何かがあるならそこを考えたほうがいい。
表面的に制限するからネオナチみたいな連中が陰で暗躍するのだ。ナチス礼賛でもなんでも言うのはOK。批判もOK。議論しつくすことがいいのではなかろうか。

これは日本で問題になっているヘイトスピーチにも通じる。
ヘイトスピーチだからいかんという表面を封殺する論調はいかんと思う。議論をして論破するのが正しいと思う。
posted by Mozzo at 09:38| Comment(0) | TrackBack(0) | まじめな正論! | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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