2015年04月25日

原発再稼働差し止め すれ違う議論 というか議論がない

旧聞になるが福井地裁で高浜原発第3、第4号機の運転差し止めの仮処分判決が下った。
仮処分であるためこの先上級審で覆る可能性は充分にあるのだが、判決が確定するまで効力が生じない通常の判決と異なり、仮処分は判決が覆るまで再稼働のプロセスを止める効力がある。

時間がかかるとそのまま事態が変わってしまう問題に対して仮処分というものがあるのだが、原発賛成派にとってはまさに実害と言ってよかろう。仮に上級審で覆せるとしてもそれまでの間再稼働の手続きが止まるわけだ。

この判決に原発賛成派は怒り反対派は沸き立った。だが、冷静に考えるとどちらともちょっとおかしい。もうちょっと理性的に考えてもらいたいものだ。

まず原発賛成派について。
気に食わない判決が出たから怒るのもわからんではないが、あまりに非論理的では世論が離れていくものだ。

「司法の暴走だ」と批判する。しかし、これが三権分立というもので互いに抑制しあうのは民主主義だ。その結果非効率になることもある。ズバッと決める独裁体制のほうが話が早くて結果はいいかもしれん。だが悪いこともズバッと決まるのである。これを否定してはいかん。どんなにまどろこしくても、コストがかかろうともだ。
無論、司法があまりに偏った判決を出すなら、行政からは任命権で、立法からは対抗する法律改正で抑制できる。暴走とは言いすぎだ。

「たかが地方の裁判所が国策について判断していいのか」という批判もおかしい。ルール通りだし、最終的に最高裁の判断を仰ぐこともできる。また地方が下だという感覚も前時代的でどうにも鼻につく。
無論、簡裁、地裁の存在意義が現代にあっているのかという議論はあっていい。この情報社会において、地方のことは地方にしかわからないということはない。交通も発達しており、何なら裁判所は全部東京に集めて上中下の三審制。交通費は国費でであれば問題はないし、トータルでむしろ効率的かもしれぬ。人的交流もできる(北海道の案件を裁いた人が翌日は沖縄の案件なんてことも可能だ)。もともとから地方裁判所を否定していて原発騒動と切り離して議論をしていたというならそれは一理ある。
この判決が出たから地方がどうのというのはどうにも恰好がつかないと思わないのか。
当然裁判には国対地方という図式のものもある。地方裁判所でその地方の担当者が扱ったら地方有利に傾くという邪推もできる。司法関係者がそこまで心が弱いとは思いたくないが。現にあの諫早の干拓地での開門訴訟で佐賀と長崎で「地元の要望を忖度したような」矛盾した判決が出ている。
しかし同じ理屈で中央の人に扱わせたら国が有利になるともいえよう。
国が、地方がという切り口でなく、判決に道理が通っているかどうかの切り口で語ってほしい。

では反対派が正しいのかといえばとてもとても。
この判決に先駆けて大飯原発でも差し止め判決が出ているのだが、同じ樋口英明裁判長である。日本中でこの人しか差し止め判決を出していないという。大飯原発も高浜原発も福井にあるから福井地裁でやるという理屈なんだろうが、相手は関西電力であるのだから、関西電力の所在地大阪でやるのが筋だ。
この裁判官が原発反対派であり、わざわざ狙って福井で提訴したという見方が大勢である。
あざとい訴訟戦術であると思う。
この判決に道理があってどの裁判官がやっても同じ判決が出るならまだしも、あるいは複数の裁判官が同様の判決を出しているというならまだしも、日本中で差し止め判決が出ない中、二つも出しているというのはこの裁判官が平均より偏っているとしか思えない。主張の正否は別として平均から偏っているのは確かではなかろうか。
反対派は「彼だけが正義の裁判官なのだ。ほかの裁判官が間違っている」というだろうし、推進派は「偏った裁判官で間違っている」と言うだろう。端的に間違っている、いないということを決めつける気はないがあまりに策略が前面に出すぎだ。
そのため、道理として通る議論がないがしろにされているように感じる。

反対派の論理は乱暴である。100%の安全がない。それじゃダメというものである。
100%の安全なんてことはありえないのである。
このブログで以前にも指摘したのだが上っ面の議論ばかりで哲学的な議論が足りていない。
原発や核施設(高レベル廃棄物の貯蔵所とか)の100%の安全はあり得ない。
自発的な事故、つまり原発を理想的な空間に置いたときに内部から発生する事故というのは理論的に事実上ゼロにできる。理論的に設備の故障を封じ込める仕組みを設計しそれを全品検査すればいいのである。
たとえば、ステンレスで肉厚のコップを作って水を入れて10気圧かけても水が漏れなかったものだけを選んでおけば「今日一日、このコップに入れた水は100%漏れません」と言い切っていいだろう。肉厚のステンレスが腐食する速度に充分な安全係数をかけ全品検査すれば100%といっていい(論理的には違うんだが)。
複雑度はけた違いだが原発にも同じ理屈で100%の安全を求めることができる。現実に合理的なコストでできるかどうかは別として。

だが原発には外的要因というものがある。
心配されている地震や津波もあるしテロで航空機が衝突するかもしれない。想定できない何かが起こるかもしれない。先のコップの例で言えば大地震が起きれば水はこぼれる。
想定できる何かでどう考えても人間の技術で抗しえないのは小天体の衝突だ。
以前にも紹介したが米国アリゾナ州にバリンジャー隕石孔というのがある。
たかだか直径20〜30mの隕石が衝突した跡なのだが直径1km超、深さ170mにおよぶクレーターを残した(クレーターがへこんでいるのが170mであって地下への衝撃はもっと深い)。周辺100qの生物は死滅したという。
原発や核施設が直撃を受けたらひとたまりもなく、核物質が周辺数百kmにまき散らされることは必定である。
そしてこの隕石は「割と小物」である。
確率として「小物ほど高い」のである。塵ほどの極微小天体は毎日地球に降り注いでいる。燃え尽きて地上には届かない。地上に届くレベルだと小さなニュースになることもある。十数mになり地上に被害を及ぼすと世界的なニュースになる(ロシアのニュースは記憶に新しいだろう)。
さてこのバリンジャー隕石孔は5万年前のものであるとか。海に落ちて気づかれていないものがその何倍もあるだろうし、隕石はバリンジャーだけではない。百年に一度はそんなことが起きているのだろう。ツングースカの大爆発というのもあった。冷戦中に南米沖だったか鋭い光が観測されてすわ核攻撃かと緊張が高まったが隕石だったという騒動があったと聞いたこともある(正確な資料が手元にない)。

そんなものが原発や核施設と衝突する確率はと考えれば相当低いがゼロではない。

安全性が完璧ではないからダメというのは、一見合理的な安全性という言い方を使って要するに大嫌いな原発を否定したいだけだ。屁理屈なのである。
無理難題を吹っかけておいて何となく議論したかのように見せかける欺瞞である。

気に入らないとしても国の基準をきちんと満たしている関西電力に落ち度はない。国の基準とそれを決めた各種法律を憲法の定める「人格権」に基づいて否定するなら相手は関西電力ではなく国会だ。戦術的に攻めやすい関西電力を相手に過剰な(不可能な)義務を課すことはあまりに行き過ぎているという判断に落ち着くと思う。

どうにも反対派の「小賢しさ」が鼻につく。
小賢しいということは本質を見ていないということなのだ。

100%の安全ということについて、推進派の議論も乱暴である。
自動車も飛行機も100%の安全はあり得ない。だが充分に安全だしそれなしには社会が回らない、という。そこまでは正しい。しかし、だから原発にも100%の安全を求めなくていいといきなり結論に至るのは乱暴だ。
万が一のそのまた万が一の事故が起きたとき、その結果が違うではないかということをすっ飛ばしている。

====
冷徹かつ哲学的な議論が必要である。

99.99999....と9がいくつも並ぶような確率で安全だとしても100%ではない。
だからダメだというのは乱暴だ。
原発がなくとも再生可能エネルギーで足りると反対派はいう。
だが、発電施設というのは程度の差こそあれ何らかの形で害があるのである。
有害物質を出したり自然を破壊したりする。
たとえば太陽光発電。
このブログでも以前試算したのであるが、原発に比べ大変な面積を必要とする。対面積の効率として何百倍という差があったと記憶している(調べなおせ)。
すでに開発された建物の上にこまごまと設置するならともかく、自然の土地や海に設置すればそこに降り注ぐべき太陽光を奪うことになる。大変な自然破壊だ。
さらに太陽光発電がピーク時の「足し」のような存在ならまだしも、ベース電源とするならば、発電量が上下するため大量の蓄電装置とそのロスを補う更なる太陽光発電所を必要とする。

風力発電所は壊れ倒れ鳥がぶつかり低周波で健康被害だ。
波力潮力は海流を停滞させてしまう可能性があるし、水力は大規模であれば山野を広く破壊するし小規模であれば電源として意味があるほど設置すれば水はよどみ、土砂が堆積し、その対策にエネルギーを使うことだろう。

害のない電源などないのだ。

そりゃ原発事故が起きて高レベルの放射線に焼かれるのは嫌だし、低レベルな放射線でその場は大丈夫でも将来が心配だという人は気の毒に思う(というのは、中高年以上であれば低レベルの放射線の影響が出る前に寿命が尽きたりほかの病気で死ぬからどうでもいいことなのだ)。
だが、地球温暖化で食料も水もなくみじめに死んでいくのも嫌だし、近所に風力発電所ができて低周波振動で苦しむ晩年も嫌だ。

「事故さえ起きなければ原発が一番たちがいい」という考え方だってできる。それが絶対に正しいというのではないが「とにかく原発反対」とか「何が何でも原発推進」という思い込みをいったん捨てて考え議論すべきではないのか。

====
原発事故が起こる可能性とほかの効果、例えば地球温暖化を遅らせる効果を単純に比較することはできない。
原発のコストが安いか否か、地球温暖化防止に役立つか否か。反対派も推進派も都合のいいデータと解釈で全く議論になっていない。検証できる、つまり他人が同じ論理でトレースして見て破綻がないことが必要であるのにそういう議論がなされてない。
さらに議論はそんなに単純ではないのだ。
コストで言えば1kwを生み出すのにいくら、建設費がどうの燃料代がどうの、廃炉費用は入れたのか、地元対策費は入れたのか、それだけでも複雑だがまだ単純な話だ。
経済はそんなに簡単にはいかない。

携帯電話と同じことなのである。
今や携帯電話(スマホを含め)は広く遍く普及して一大産業となっている。
だが、単純にコストを反映するビジネスモデルであればここまで普及しなかったことだろう。
シェア拡大のために販売店に販売促進費(まぁリベートだね)を払い、販売店はそれを値下げの原資にする。メーカーは原価ぎりぎりで端末を出荷し、その代り大量注文を受けたりキャリアの主力機種に選ばれたりする。キャリアも初期費用無料だの端末無料だのとやり、それは月々の料金で回収する。そうやって消費を刺激してきたのである。

そうしたコストはオーソドックスな消費者、つまり高い値段で端末を買い、端末を買い替えることも少ない。通話も通信もそれほどするわけでもないから回線にも負担をかけず、それでいて相対的に高い料金をはらう消費者も負担してきた。
一見それは不公平なのだが、この仕組みがなければ全員がもっと高い料金で、いまだに一人一台なんてことにはなっていないだろう。端末の新製品も出ない。

つまり、仮に原発のコストが本当に別の電源と比べて高かったとしても、電気料金や税金をつぎ込んで回すうちにトータルでいい経済効果を生むかもしれない。生まないかもしれない。電気使いたい放題の社会構造で生み出されるものがあるのかもしれない。
だいたい、コスト積み上げして値段が決められるなんて安直な商売がこの世にどれだけあるか。単純にコストで語るなと思う。

あまり大きく報じられないことなのだが、震災前の時点で電気料金というのは歪んでいた。大口消費者と我々一般家庭の小口消費者がいて、多くの電力を大口消費者が使うのであるが電力会社の利益は小口消費者から上げていたのである。

悪いことばかりとは言えない。つまり、広く小口消費者が大口消費者にとってそれなりに安くて安定した電源インフラを支えたことで日本に製造業が残ったということが言えるかもしれない。それは回りまわって雇用を維持することになる。

電力は安ければいいというものではない。
一部の製造業には別のことが死活問題なのである。
まずは品質。電圧も周波数もごく安定していることが求められる。需給バランスが崩れると電圧と周波数が狂う。それは工場の機械を誤動作させ安全装置を動かして工場を止めることになりかねない。

次に安定性。何日も何十日も停電せず給電されることが前提、停電するなら何週間も前に言ってくれという業種が多々ある。
大工場で製鉄所クラスになると自前の発電設備を持っているからいいのだが、中堅企業で長時間の停電に耐えられないところもある。
たとえばグラスファイバーの素材(超純粋なガラスの結晶)や半導体の結晶を作るような工場では高温かつ恒温で何日何十日もかけて結晶を育てる。あるいは電力に頼る植物工場、動物の飼育。
あの震災で停電して水族館の魚がほぼ全滅した話を忘れてはいかん。
停電したらすべてがおしゃかだ。

日本の電力は品質安定性に関して世界トップレベルという。だからこそその他の条件、土地や人件費が高いだのということにかかわらず製造業は日本に残ったのである。

そういう事情を無視して、合計で電力量が足りているだの、節電すればいいだのと反対派は言うのだが、それで経済がたがたになってもいいのかと思う。経済ががたがたになっても原発のない未来を望みますなんてきれいごとを言っているのだろうが、具体的にその状況を思い描けているのか大変に疑問だ。
貧すれば鈍す。現在日本の企業が持っている高い倫理性も失われ何が起こることやら。公害問題や労働者の権利が現行を維持できるとは思えない。

繰り返すが私は安直に原発OKとか絶対ダメだとか言いたいわけではない。
議論が足りないことを言いたい。

====
ちょっと見方を変えるというか元の話題に戻るというか。

もう一回ちょっと別の見方で100%安全の話をしたい。
100%の安全がないから原発はダメと言う論理。
それを認めるなら止まった原発は100%安全なのか。停止した原発には使用済み核燃料が脇に蓄積されており、未使用の核燃料もあろうし、使用中のものもある。
原発が臨界に達しているより達していないほうが安全というのだろうか。
止めていても外部から電力を供給し冷却しているわけで、何らかの意味で「動いている」機械だということは変わらない。

また、確率は低いとはいえ先に挙げたテロだの隕石衝突だのという危険性に対しては違いはない。動いている原発のほうがテロリストは躊躇するかもしれぬ。逃げられないからね。

だから止める止めないは安全の上では大した違いはないということが一つ。

もう一つは止めても残る高レベル核物質はどうするのかという話だ。
繰り返すが、単純においておけばいいわけじゃない。箱に入れてしまっておけばいいというものではない。小分けにして(まとめると臨界に達することも)、冷却してということせねばならない。事故が起こる。
人為的事故、機械の故障と、隕石だテロだを一緒にしてはいかんのだろうが、100%の安全を求めるなら地上においていてはいかん。
どんなに警備を厳重にしても人間が行けるところにはテロリストも行けるだろう。大きな隕石に抗しうる人口建造物はない。
小惑星ともなれば衝突の衝撃で「西太平洋に落ちれば地殻ごと日本列島がめくれ上がる」ほどであるという。まぁそれは人類絶滅なんでどうでもいいが、地下数キロメートルまでえぐり、日本の半分は破壊されるが日本すべてが破壊されるわけでもないというサイズのものもあろう。
はてさてこれに対して日本は何ができるだろう。

原発に100%の安全性を求めるならこうした核施設にも同じ態度で臨めよと思う。
究極的な対策は二つ。一つは隔絶した別の天体に運ぶこと、もう一つは(日本ならば)太平洋プレートに埋め込むことである。
別の天体に運べば何があろうと地球に害が及ぶことはそうはあり得まい。まぁ星新一的などんでん返しがあるのだろうけど。
太平洋プレートに埋めるというのは、何千万年の先にはマントルに取り込まれスラブとして外核まで落ち込んでいくのである。それが再度プルームとして地表近くまで上がってくるにしても何億年も先の話だ。そのころには核物質もすっかり変化している。

まぁここまで厳密なことはできないにしても、安直な地上施設に置くよりも堅牢な地下深い場所に「最終的に」置くことが安全であるのは論を待たない。

反原発派は原発を止めることには熱心だが、使用済み核燃料をはじめとする高レベル核廃棄物の最終処分については無視している。あたかも原発を廃止すればそれらが消えてなくなるような感じである。
そんなわけはないのだし、繰り返すが危険性については動いている原発も止まっている原発も傍らに貯蔵されている未使用・使用済み核燃料も危険性に大した違いはない。
彼らが原発を止めさえすればいいというのは手段が目的化しているというか、反原発で成果が出れば意義を問わずなんでもいいという状態に陥っているのが一つ。もう一つは使用済み核燃料の最終処分をするとなれば処分地を選定せねばならず、処分地の選定は彼らが反対するところなのである。じゃぁどうすればいいというのだろうか。
核物質は現にそこにあるのである。
矛盾しているし戦術があざといと思う。

まだ、危険性を割り切って原発を推進しようという賛成派のほうがすっきりしている。

繰り返すが私は賛成とも反対とも言い切れないし、あざとい戦術、都合のいいことしか言わない双方の態度が腹立たしいとも思う。
ことに反対派の主張が鼻につく。
理想は「原発のない社会」ではない。それは手段であって目的ではない。手段として正しいとも言わない。
幸せとはいわない、せめて苦痛がなく自然破壊も最小であることが理想だ。未来には予想しつくせない不確定要素があり、あらゆる選択は賭けであり完全な正解はない。
何にかけるべきかを選択するきちんとした議論がほしい。
posted by Mozzo at 11:04| Comment(0) | TrackBack(0) | まじめな正論! | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
コメントを書く
お名前:

メールアドレス:

ホームページアドレス:

コメント:

※ブログオーナーが承認したコメントのみ表示されます。
この記事へのトラックバックURL
http://blog.seesaa.jp/tb/417898218
※ブログオーナーが承認したトラックバックのみ表示されます。

この記事へのトラックバック
×

この広告は1年以上新しい記事の投稿がないブログに表示されております。