2013年08月18日

うまいものの話:ぬるいもの

「熱いものはより熱く、冷たいものはより冷たく、おもてなしの心」と習った。ある意味常識であろう。
その言葉を知ったの小学校にも上がらない時期であった。当時の自分には衝撃的だった。腑に落ちたとはこのこと。「ぬるいものはまずい。そういうことなんだよ!」と思った。

物心ついてからぬるいものが嫌いだった。もちろん幼児ゆえに「ぬるいからまずい。冷たくしてくれたら、熱くしてくれたらおいしいのに」と論理的に考えていたわけではない。
幼稚園でお昼に出るミルクはまずい。夕食のご飯はおいしいけど昼のご飯はまずい。などなど。
料理が冷たいとき熱いときには感じない臭いをぬるくなると感じるようだ。上等な料理なら「香りがわかる」といういい方になろうし、ダメ料理なら「生臭い」という話になる。
熱いとおいしい味噌汁も冷めたら臭くて飲めない。そういう子供だった。
冷たいなら飲める牛乳も(基本的に私は牛乳はダメだ)ぬるければ吐く。牛乳を生産している人たちには悪いが、乳糖不耐症であるから体が拒否するんだろう。冷たい牛乳は飲めてもそのあと腰の抜けるような下痢をするので意味ないのだが。

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そうしてアツアツヒヤヒヤ原理主義で生きてきた私だが例外があるのもわかってきた。

まず、ぬるくても格段まずくないものは当然ある。
たとえばあんパン。甘いものを食べないのでうまいあんパンとはなんぞやがわからないが、焼きたてアツアツはうまいのではなかろうか。だが常温でもまずいものではない。
まぁそういうものは多々ある。焼き海苔のように水分の少ないものは押しなべて温度を問わないように思う。

だが、ぬるいからこそうまい。冷やしても温めてもまずいというものはなかなかない。
唯一(と私は思っている)存在する。
寿司飯だ。
アツアツの寿司飯。これ自体はまずいとまではいわない。だが具と合わせるのが前提と考えればまずい。刺身をまずくし海苔をまずくする。
かといってヒヤヒヤの寿司飯は飯自体がごわごわと硬くなる。砂糖を多めに使うと防げるそうだが、砂糖が入った寿司飯はまずい。
ほんのり人肌くらいの温度がいいのである。

それ以外はくっきりと熱いか冷たいかにしたほうがおいしいと思っていたのだ。

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熱くても冷たくてもまずい。ぬるいからこそおいしい。
それは寿司飯だけ。そこは変わらない。
だが、熱くても冷たくてもそれなりにうまいのだが、ぬるいのがもっとおいしい。
そんなものがあるだろうか。

日本酒の一部の銘柄では熱燗でも冷でもいまひとつ。常温か人肌がいいと言われるものもある。
理屈はわかるのだが私の舌ではわからない。熱燗だときついなぁとおもうこともあるけれど、たいてい日本酒はおいしい。

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私がおすすめするのはぬるいうどんである。

ぬるいうどんなんてまずいだろうと多くの人が思うだろう。違うんである。
それは「ひやあつ」である。

讃岐うどんの名店宮武が始めた食べ方だという。

うどんはゆであがった状態が釜揚げである。そのまま食べるとアツアツな食べ物。これを冷水で締めるとうどん玉になる。
締めてそのままあるいはさらに冷やして食べるのが、ざる、ぶっかけ、冷やしである。うどんの腰、滑らかさを楽しむことができる。ヒヤヒヤな食べ物。
締めたうどんを再度温めて食べるのが、かけ(その上に各種の具でさまざまな食べ方が)、湯だめである。鍋焼きというのもある。これはアツアツな食べ物。
これまでぬるいうどんという概念はなかった。熱いものを食べられない幼児に食わせるのは「熱いうどんを冷ました」ものだ。

ひやあつとは名店宮武発祥の符丁である。つめたい麺に熱い出汁という意味である。ひやひやは冷たい麺に冷たい出汁だからぶっかけ、あつあつはかけうどんである。

冷たい麺に熱い出汁を張るからぬるくなる。これがいいのである。

冷たいうどんの場合、麺の腰やつやを楽しめる。だが、出汁の香りが楽しめない。濃いつけ汁をつかっても醤油の香りは楽しめるのだが、ふわりと立ち上るいりこの出汁が楽しめない。
熱いうどんの場合、逆で出汁の香りは楽しめるのだが、麺はすぐに緩む。表面も荒れる。
このいいとこどりがひやあつであるのだ。麺が温まらないように出汁少な目がよい。麺の腰が残り出汁の香りも楽しめる。思えば麺の小麦の香りも強く感じる。
このうまさは衝撃的であった。

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うどんに関連してぬるい天麩羅がいいのも発見した。

もちろん天麩羅は揚げたてがおいしいとされている。
だが天麩羅を載せて食べるうどんとしてはどうだろうか。

よくある讃岐うどんのセルフ店ではたいてい天麩羅はぬるい。
揚げたてにはなかなか当たらないが、ランプで温めているので冷めきっているわけではない。
この温度がうどんに合う。

一度、讃岐の名店の誉れ高い店でぶっかけ(冷たい)うどんに天麩羅を載せたものを食べた。麺の茹でおきをしない店で天麩羅も揚げたてである。だがきりっと締めた麺に揚げたての繊細な天麩羅がどうも。麺も天麩羅もおいしい。だが合わない。
ぬるくて、繊細というよりがっつりと食べ応えがある天麩羅。これをうどんい載せて出汁につけてたべるのがおいしい。
たまに揚げたてに当たるとう〜むと思うほど。

竹輪天なんてのは明らかにぬるいのがおいしい。

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なにも讃岐宮武に行かずともひやあつは気軽に食べられる。
いまや全国展開の讃岐うどん店に出向き、かけを頼み「麺を温めないでそのまま」と頼めばよい。いまやひやあつという言葉が普通に通じる店もある。
温める工程を省略してくれと言っているので店に迷惑をかけるわけでもない。店員さんになかなか通じなくて手間をかける場面もあるが、わかってもらえればあとは順調。というより讃岐の看板あげるなら、名店宮武のことくらいは知っておくべきだ。
また麺を緩めず出汁の香りがたつという意味では、会計した後最後に自分で出汁をかける店が望ましい。出汁をかけたのを受け取ってそのあと天麩羅選んでお会計はよろしくない。時間がたつとよろしくないのだ。太い麺に熱い出汁が熱を奪われないうちに香りと熱さをひとすすりできるくらいがいい。そのあと「ぬるいうどん」に化していく過程をおいしく味わうのだ。


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さて、ぬるいからこそうまいもの。他にもないか考えてみた。
考えてみると意外とある。このテーマ、滑ったか。

ビフテキ。私は徹底的に赤身の生焼けを好む。
カジュアルなステーキ屋のあのアツアツ鉄板に載っているビフテキが嫌なんである。厨房でベストにして皿に盛って欲しい。あの鉄板は最後の責任を客に押し付けてないか?

よく言われることだが、冷蔵庫に入っていた肉をさっと焼いただけでは生焼けにはならない。それでは外側に焦げ目ありの生肉である。じんわり中に熱が通っているが、肉は変性しないつまり赤いままというのが生焼けだ。まだ冷たいままでジューシーになっていないのは生肉だ。
生焼け状態で出来上がりが60度くらい。テーブルに持ってくればほの温かいくらいのぬるい食べ物。これがいい。
アツアツで火の通り切ったビフテキなんて。
冷たいのはもっとダメ。牛肉の脂は冷えると固くてざらつくのだ。


そういえば鴨南せいろ。
鴨南蛮の汁に冷たいせいろを合わせた蕎麦である。
店によって作り方が違うかもしれないが鴨肉が入った濃くてアツアツの汁に冷たい蕎麦をつけて食べる。
ゆえにぬるくなる。それがうまい。
麺が熱くても汁が冷たくても成り立たないだろう。
ぬるいがうまい。

握り飯なんてのも考えてみればぬるいのがうまい。
アツアツなんてのは作ること自体拷問だが、電子レンジで温める手もある。
だが、熱いと具の味が飛んでしまうように思う。海苔も死ぬ。茶碗に盛ればアツアツのご飯はうまいのに。
かといって冷たいご飯はごわごわしてうまくない。
人肌程度がうまいのではないか。そこに冷酒。これは冷たくしてサイコー。

同じ理屈で稲荷寿司もほんのり温かいくらいがうまい。熱くても冷たくてもダメだ。これは常温の日本酒にあわせる日本酒は常温だ。

いろいろ考えてみるとぬるいからこそうまいものあるね。
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2012年06月23日

うまいものの話:夏

前回の冷たい麺に続き夏向けに考える。

夏にうまいもの。
二面あると思う。
夏は暑いから食べると涼しいもの、涼味があるもの。
もう一つは夏が旬、夏に食べてこそ似合うというもの。涼味とは限らない。

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食べると涼しいもの。
冷たい麺は前回やったのでおいておく。

アイスクリーム・アイスキャンディーの類をあげる人は多かろう。
私は甘いものを食べないのであるが、冷たいから涼味はあるとはいえよう。
だがこれがどうか。昔は確かに夏のものだったろう。だが現代ではそれが薄れつつある。
寒い冬でも暖房の効いた部屋でという向きがあり季節感がなくなってきている。ことに、乳脂肪分が濃い高級な品などデザートだなんだと年中日常の食事や間食に取り入れられている。
そういえばクリスマスに「アイスクリームケーキ」なんてものもあった。

ビールもおなじこと。暑い時に飲むビールはもちろんうまいが、これも年中変わりなくおいしい。まぁ冬の雪降る屋外で震えながら飲むのはいまいちというところか。

麦茶もペットボトル飲料の普及で年中飲まれているし、あの香ばしい風味は冬の食べ物にも合う。コーラもソーダもおよそ氷が入って似合う飲み物はいまや年中飲まれている。

昔は冬場には氷がなかった。なぜかというと、夏に氷を売っていた氷屋は冬になると炭屋に変身するので氷を売りに来ないわけである。
電気冷蔵庫の前身である氷を入れる冷蔵庫が普及して、温暖な地域(南関東以南か)では冬にも氷の需要が徐々に高まってきた。電気冷蔵庫が普及し始めると気軽に年中氷が使えるようになったものだ。
ことに関東大震災をきっかけに、東京では堅牢かつ密閉性の高いコンクリート製の建物が普及したため建物全体が温まる。食料の保存場所や冷える場所がない。比例して年中氷を使える環境が増えたのかもしれない。明治の頃は都会でももっと季節に沿った生活だったものだが。
なんて、私もさすがにそんな年代ではない。

そうやって考えていくと、「冷たくて夏にしかあわないもの」が思い浮かばない。暖房かけたり風呂上りに食べたりすればどの季節でもおいしい。

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飲食物の温度も室温も自由自在な現代にあって、季節感を維持することは容易ではない。野菜も果物も値段を無視すれば年中入手できる。
これはシチュエーション込みで考えねばならんのである。

たとえばビール。冬に鍋を囲んでそこにビールでもいい。
だが想像して欲しい。真夏の広い公園。大きな木もある。
冗談はよせというくらいの快晴で気温はじりじり上がる。日差しも頭が焦げるほどである。
幸い湿度が低く、風もある。熱風が肌を焼いているようだ。
広い公園で人影はまばらだ。幸い東屋に人がおらずそこに腰を落ち着ける。
たいへんな思いをして担いできたのはクーラーボックス。中には氷ぎっちりにビール。握り飯にゆで卵の簡素なランチをつまみにビールを数本。枝豆があってもいい。
最後にクーラーボックスに忍ばせていた冷酒の小瓶を一本。
なお、酒ばかりだと脱水を起こすので麦茶などカフェイン抜き砂糖抜きの飲み物をもっていかないとだめ。カフェインも利尿作用があるし、砂糖はさらに喉が渇く。

ほろ酔いになってしばし東屋で昼寝。

日が傾いた頃、またクーラーボックスを担いで帰途に。

夫婦でこんな夏のデートいかがです(趣旨が変わってきているな)。


冷えた西瓜もシチュエーション次第だ。
綺麗にカットして皿に盛って食べるのもよかろう。だがベストではない。

場所は実家である。遠く若干鄙びた漁村か山村がよろしい。家は古いががっしりした日本家屋で大きな縁側の前に庭が広がる。鶏が放し飼いになっている。
「うちの実家は団地だけど」という方はまず親を強制的に山村か漁村に送り込んで三年ほど待っていただきたい。転職させてサマになっていなければならぬ。西瓜のためだ仕方あるまい。泣いてもらおう。

朝から家を出て実家に向かう。途中昼食をはさんで到着は三時ごろ。遠いのである。
まぁおやつでもと縁側に出される西瓜。大振りに切ってある。きりきりに冷えている。
そのままかぶりついたら服がべとべとになる。縁側から庭に立ち、あごを突き出すように前かがみでかぶりつく。汁が垂れる。種はその辺に吐き出す。鶏がこの種食えるのかと不審な目で見ている。
こんな調子で三切れも食べる。大ぶりだから満腹になる。アー食べたと空を仰ぐと快晴でうるさいほどのセミの声。
夕食のおかずは父親が張り切って捕まえてきた獲物。

情景を想像しただけで「うさぎお〜いしかのやま〜」と曲が流れてきそうである。
このくらいシチュエーションを作らないと西瓜の季節感は味わえんのである。極端だが。

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涼味を追求するのではなく夏に似合うものを考えるのもいい。

夏の食べ物といえば鰻を挙げる人も多かろう。
そもそも鰻の旬が夏とは言えないらしい。前にも書いたが大枠では寒い時期。晩秋、初春。獲れる場所によっては夏が一番とする場合もある微妙な食べ物ではある。そこを夏の土用の丑には鰻としたのは有名な平賀源内のコピーのためというのが定説である。もとは売れない時期だったのだ。

だが、夏にわしわしと鰻を食べる人というのは見ていて気持ちいい。その食欲、健啖振りが気持ちいいのである。
自分が食べる立場になると盛夏に鰻は重い。脂が強いのも重いし丼やお重に盛ったご飯も重い。
だが、庶民的な鰻屋を想像して欲しい。現実にそんな店はないと思うが、冷房がなく店は四方開けっ放し。店はぼろだが味は一流という評判の店。
年季もののテーブルが並んでいる。開けっ放しの店からは鰻のたれの香りが漂う。

お昼のピークが一段落で男が入ってくる。大柄できりっとした四十がらみ。日に焼けて髪を短く刈り上げている。甚平を着ている。
「おうおばちゃん久しぶり。暑いね。鰻丼上に肝吸い。あとお新香と酒」。「なに今日は休み」。「そう夏休みだよ。3日しかないんだ。せめて精でもつけなくちゃね」。「これ以上精をつけてどうするの」などと軽口の応酬。

酒とお新香が来る。冷酒なんてない。冷やといっても常温で、この季節ではぬる燗のようなものだ。
この店の鰻は時間がかかる。酒をもう一本追加してゆったり飲む。新聞に目を落としている。じわじわと額に汗が浮いている。
二本目の酒を飲み終わった頃鰻丼が来る。注文があってから裂いて焼いてで30分。この店は関西風で蒸さないきりっとした鰻だ。この時間を計算して酒を飲んでいた。
ゆったり飲んでいた男が表情を変え、丼をわしっとつかみ、鰻と飯を口に運ぶ。息継ぎに肝吸いを吸う。額には珠のような汗が浮いている。
休まずに食べ進め、ふうっと息をつく。すかさず冷えたお茶が出てくる。

これを横で見ていたい(うまいものの話ではなくなっている)。

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鰻よりはぐっとおとなし目に枝豆というのも夏の風情だと思う。

夏の週末。今日は休みだから早めに晩酌を始めようというのがいい。まだ日が翳るかどうかのタイミング。夫婦でちょっと飲むのだ。
一人が枝豆を茹でる。茹で上がりのタイミングは意外に厳しい。一人がつききりでタイミングを計るに足る重要な作業だ。
生ではいかんが柔らかくなっては意味がない。若干ごりっとした歯ごたえが残っていて欲しい。塩味も大切だ。茹でる湯に塩を入れるのもいいが、それを控えて茹で上がりに塩を振りたい。味の濃い皮と薄い中身。これがいいのだ。
塩を振ったらざるを振ってなじませる。団扇で扇いで急速に冷やす。水にさらして冷やしてはいかん。

茹でる間にもう一人は酒の準備。
枝豆だからビールか。それもいいがどうだか。私はきりりと冷やした日本酒、あるいは本格焼酎のロックをお勧めしたい。枝豆の風味に負けない、味の濃いタイプがよろしい。

枝豆と酒が卓上にある。夫婦が席に着くのであるが、ここは向かい合わずに並んで座って欲しい。
「何で隣に座るの」「たまにはいいじゃない」「暑苦しいでしょ」「文句言わないの」なんてやり取りがあってほしい。

枝豆は枝つきでありたい。ゴミが出ると不評ではあるが、枝からちぎりとるのも枝豆の味のうちなんである。手が喜んでいる。
枝豆は一つの莢に豆が一個〜三個と分かれるのが普通だ。一個だとなまじ食べやすいが三個だと「栄養充分でした。元気です」というイメージがある。
また、枝豆は莢が緩やかに湾曲している。ものによって外周が裂けたり、内周が裂けたりと食べる側の意図を裏切ることがある。それも味といえば味。

それで飲んで、少し酔っ払って他愛もない話をする。
夕食は遅くなって、冷や麦とテキトーな残り物のおかずなんてのがまた味がある。おかずはお煮しめだったら満点。いい気持ちでけだるくなっているのに夕飯を気合入れて作れるかと。それでいいのだ。平和な夏の午後。

−−−
夏と言って鰻や枝豆を思い浮かべるのは普通のことだ。もうちょっと意外ででもなるほど夏というものを取り上げたい。

それはサザエのつぼ焼きである。どうだろうか。ありきたりか?

ちゃんとした料理屋でも出されるが、海沿いの鄙びたみやげ物の店頭で食べたい。それがシチュエーションである。
だがそれがギャンブルである。安い店、悪辣な店であると、サザエの殻を再利用して、テキトーな貝を刻んだものを入れて出すことがある。私もやられた。まずくないっちゃまずくないので微妙なのである。まぁ騙されてもたいした金額じゃない。それも含めて観光。強がりだろうか。

ちゃんとした店、人気のある店だと店頭に炭火を起こしていることもある。注文すると炭火に貝をかける。生きているからむにゅっと動く。煮えてきたら醤油を差しもうしばし待つ。皿に取り上げれば悦楽タイムだ。
海沿いの観光地であるから風は心地いい。湿気と特有の磯臭さを含んでいるがそれがいい。他の観光客もまばらに散策している。

店頭の席、よく言えばオープンカフェか。カフェではないな。そこに飲み物を頼む。醤油の香りとサザエのほんのりした苦味、香り。ビールが無難だ。酒に凝っているとは思えない土産物屋でも瓶ビールならそこそこ信頼できる。多少古いかもしれないが。
日本酒は冒険だ。本来ならきりっとした辛口のお酒をこれまたきりきりと冷やしてのみたい。だが、そんなものは期待できない。日焼けしたようなカップ酒である。それもシチュエーションとして合うといえば合うのだが。

海辺の古風なオープンデッキで炭火。そこまでは文句のつけようがない。だが出てくる貝と酒の質はいかがなものかギャンブルだというのが痛い。
情報を集めて店を探すもよし、我慢するのも現実解だ。

だが、この際自前で調達するのはどうか。
海辺近くのバーベキュー公認の公園はないものだろうか。そもそも海岸で焚き火はダメでもちゃんと脚のついたコンロやグリルは使えないのだろうか。その辺を調べる。炭火焼が第一条件だ。
そしてサザエの調達。海に潜って獲りにいくのは手が後ろに回る。ちゃんと地元のお店で買わねばなるまい。もしかしたら巡回して調べている人がいるかもしれない。レシートなどをきちんと持っていなければ危険だ。
そして持ち込んだおいしい日本酒。クーラーボックスできりりと冷やして持ち込みたい。

一番大事なのは手下である。
単に海辺に出かけるだけならタクシーでもいい。だが炭火だ大荷物だとなればタクシーにことわられる。
車を出し、荷物を運び、炭火を起こし、暑い日で風がないならあおいでくれる。こうした手下を何人か用意できると完璧である。
さらにレジャー用の小さな椅子になんか座っていられない。ましてやレジャーシートなんてありえない。きちんとしたテーブルと椅子を(私は何様なんだ)。

優雅な夏の一日。
ちなみに片付けもさせて、最寄りの駅まで送らせる。こちらは電車で帰る。車ではたいてい渋滞に巻き込まれるからだ。それは手下に任せよう(人でなし)。

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夏といえばバーベキューでしょうという向きもあろう。海や川原、公営の施設もある。確かに寒風吹きすさぶ中であるもんじゃない。だが猛暑の中やるのも大変なものだ。手かけていくのたいへん、準備も大変、飲み物はすぐぬるくなるし、肉を焼けば煙がもうもう。
サザエの話のように子分が準備してくれるならいいけど(傲慢)。

どうせ焼くならこぢんまりと七輪がいい。しかも時刻は夕方。緩やかに風が吹く日がいい。
庭先に七輪と椅子を持ち出す。炭をおこす。
肉を焼くのは粋ではない。干物乾物が中心でありたい。鯵の干物にスルメ、鮭とばなんてのもいい。そこへ夏野菜と茸。油揚げも焼きたい。
大きな容器に氷を入れて日本酒の瓶を突っ込む。
あとはちびちびと。

こぢんまりした話ではあるが、七輪を持ち出して干物を焼いて近所からクレームが来ない場所は限られているだろう。広い庭も必要だ。
多少広いからって集合住宅のベランダでやってはいけない。
これは西瓜を食べた実家でやるべきであるな。夫婦と親の4人で晩酌、子供たちは花火だ。これぞ夏。

ちょっとずれるが同じことを秋刀魚の季節にやれたらいい。酒は焼酎のロックだ。それこそ秋刀魚なんて焼いたら煙がもうもう。よっぽどの郊外でないと。

火を焚いているから薮蚊は寄ってこないと思うが、薮蚊が来るならあらかじめ虫除けのスプレーで避けたい。蚊取り線香では臭いで味が台無しだ。
火の始末には充分お気をつけあれ。


今回はシチュエーションの妄想が暴走であった。
あとなんで必ず酒が登場するという点にクレームは受け付けません。

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2012年06月20日

うまいものの話:冷たい麺

これから暑い時期である。
冷たい麺の時期である。
蒸し暑い日に汗をだらだら流して鍋焼きうどんなんて狂気の沙汰だ。ご飯でも重い、かけうどん・かけ蕎麦でも重いという日もある。
やっぱり冷たい麺だ。食と健康にこだわるひとに言わせると、暑いからとつめたいものばかりたべてはいかんとか考え方はあるようだが、冷たい麺しか入らないのであるな。

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冷たい麺といえば、素麺、冷麦を挙げないわけにはいくまい。
冷たい腰のある麺に冷たくすっきりとしたつゆ。すすりこむ快感は食欲を呼び起こす食感である。
最初は一口二口でいいやと思ったものが加速がつく。気づくとあっという間に二人前くらい食べている。若い人ならもっと食べる。乾麺の一人前はたいてい100g程度といわれるから乾麺200g、ゆでてみればその倍以上か。満腹になる。
下品ながら「うー、食べたー」とひっくり返り、げっぷするのである。

しかしながら、麺とつゆだけでは大変にバランスが悪い。脂肪や蛋白質の量にも欠けるし、繊維の面でもおなかが渋滞しがちな人にはよろしくない。
ここは具や薬味に凝りたい。

外食で素麺・冷や麦など注文すると、冷水を満たしたガラス容器に缶詰のさくらんぼやら缶詰のみかんを散らしたものが出た記憶がある。薄切りのキュウリが一片。今もあるのだろうか。あんなものは麺にも合わないし、栄養面でも期待できるものではなかろう。
また、最近はごまだれと称する濃厚なでき合いのたれで食べるケースもあるようだがこれもどうだか。味の濃厚さに騙されてしまって、食事としてのバランスの欠如を忘れてしまう。しかも甘くてくどい。

お勧めするのは薬味・具を入れた小鉢をずらりと並べることである。
手間はかかる。定番の海苔や胡麻は当然のこととして、ゆでた青菜数種に鶏のささみ、錦糸玉子、梅干と鰹節を合えたもの、佃煮数種、千切りの大根や人参、たまねぎをさっといためたもの、焼いてむしった干物、おろしたとろろ芋。さらに蒸した里芋なども加えて麺などそっちのけでつゆとあわせてもいい。
これらをたっぷり用意して各自勝手につゆにつっこみ麺と食べる。

ここで素麺と冷麦を同列に扱ったがこれら二つは似て非なるものである。
JAS規格によると太さばかりに目が行っているようだが、製法が違うのである。
どちらも小麦を練って作る麺ではある。だが整形の仕方が違う。
素麺は生地をちょっとずつひき伸ばして作る。手延べの場合は厚く円形に延ばした生地を渦巻状に切り出す。すると太いひも状になる。これに油を塗って少しずつ延ばすのである。ローラーを通し、棒にかけて引っ張ると最後はごく細くなる。
また、この工程で素麺はパイプ状になるそうでこれが絶妙な食感を作るとも言う。
さらに、油を塗るので乾燥してから熟成させることで独特な風味を作り出す。

冷麦は簡単に言えば細いうどんである。
薄く延ばした生地を細く切る。そのため断面は四辺形であるし、油を使わないから素麺とは風味が違う。

製法の違いから表面の舌触り、断面の違い、風味、歯ざわり、全てが違う。細くゴリゴリした歯ざわりでつるつるの表面、独特の臭いがする素麺もいい。若干太くすこしもっちり感を伴う腰、表面もつるりでもざらりでもないつゆの絡む食感、素直な香りの冷麦、これもいい。

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冷たい麺といえばざる蕎麦、ざるうどん。せいろや盛りともいいますな。
しかし、暑いときの食べ物というイメージはない。寒いときも食べる。
やっぱり、熱い冷たいということを超えて麺のおいしさをシンプルに味わう料理という面が大きいのである。

私は初めて行く店ではざるを頼む。海苔がかかっているなら最初から断る。
海苔は好物なのであるが、純粋に麺を味わいたいのだ。それで店の実力をはかるなんて偉そうだが。
最初はつゆすら使わない。薬味だって。これがおいしい。
ことに太いうどんを出す店だと芯にほんのり感じるかどうかの塩味が残っていることがありこれがまたいい。むむっと確かめるように食べているとつゆを使わずに一枚食べ終わってしまうこともある。ああ何枚もおかわりできる胃が欲しいと嘆くのである。

冷たいうどん・蕎麦といえば、天ざるのようにざるに「おかずになる料理」をつけたものと、冷やしワカメ蕎麦みたいに具が乗っているものがある。
私は断然麺とおかずは別々にして欲しい。麺につゆをぶっ掛けてしまうのがどうにもよくない。口に入れる直前に麺とつゆを絡めたい。さらに、具がつゆに浸ってしまうのも悲しい。具がふやけたり味が染みすぎてしまう。
たとえば冷やしワカメ蕎麦といえども、つゆに浸って3分のワカメと、つゆに半分だけつけて即座に食べるワカメでは鮮烈さが違う。つゆが覆った表面と染みていない内側、つゆが浸らない部分のコントラストがいいのである。
言うことが細かいのう。。。。

===
夏の冷たい麺といえば冷やし中華であろう。冷やし中華始めました〜である。
だがこれがどうにも気に入らない。

冷やし中華は名前に中華は付くのだけれど日本で考案された料理だそうな。

冷やし中華を広く捉えて、冷やした中華麺を濃いたれで食べるというものと考えると昭和初期からその概念はあったようだ。料理本で紹介されたり飲食店で出されたりということがあったという。
現代に通じる具が乗って酸味のあるたれで食べる冷やし中華は東京神田の揚子江菜館が最初に考案したという説が有力である。

だがこれがどうも気に入らないのである。ケンカを売るわけじゃなくて好みに合わないといいたいだけなんだが。本家や豪華な店で食べれば違うかもしれないが根本的なコンセプトから私には合わない。

まず、具が要らない。麺だけでは寂しいというならおかずとして別に盛って欲しい。これはうどん蕎麦と同じくたれに浸かった具は嫌なのである。
ことにハムや鶏肉はたれに味が出てしまうし、キュウリなど野菜はぐったりしてしまう。錦糸玉子は味が染みすぎて何がなんだかわからない。紅しょうがも周りに染みてしまう。一旦麺の皿から目をはずしたときに生きるのが紅しょうがでしょうがでしょうが。
まず、最低限の「麺を味わう料理だ」ということを忘れているのではなかろうか。

また、冷やした中華麺というのもどうだか。
中華麺で熱い麺、炒めた麺はおいしいとは思う。だが冷やした麺では到底うどん蕎麦にはかなわない。
冷やすとぼそぼそして舌触りの悪いものが多い。あるいは澱粉を入れているのか妙にちゅるちゅるびよんびよんとでも描写すればいいのか、油をかけた輪ゴムを口に入れているような(入れたことない)麺もある。
なんでも中華麺の中国ではもともときりっと冷やした麺はなかったという。冷えた麺と言っても常温に冷ましたというだけのこととか。
冷たく清潔な水がふんだんには使えないとか、製氷機冷蔵庫の普及が遅れたとか背景があるのだろう。冷たくしておいしい麺という観念はなく、改良が遅れたのだと推測できる。ノウハウが少ないのだろう。

そういうわけで外食で冷やし中華を食べることはほとんどない。食べたとしてもまた残念な気持ちを新たにするだけだ。
あえて冷やし中華というなら外食で食べるより、福岡のソウルフードマルタイの棒ラーメンで作る冷やし中華の方が断然おいしい。
麺をさっとゆでてきりっと冷やす。スープは酢で溶く。メーカーのレシピでは少量の水を入れろとあるが、麺に含まれる水で薄まるので「神業逆落とし」みたいなテクニックで水が切れる人以外は水をいれずともいい。
薬味はせいぜい万能ネギ。シンプルがイイノダ。

この棒ラーメン、即席麺の範疇に入るのだが腰も舌触りも大変にいい。それ以下の中華の店がいくらでもある。この麺の質もあいまってその辺のぼそぼそした冷やし中華なんて相手にならないと思う。


===
冷やし中華とは似ずして非なるもの(それは別もんじゃ)として冷やしラーメンがある。ぱっと見た目つゆを張ったラーメンなんだが冷たい。氷が浮いている店もある。冷やすと固まる動物性油脂は使っていない。清澄なスープが基本である。
山形が発祥と聞いた。夏場が厳しい当地では、夏にわざわざ熱いラーメンを食べる人が少ない。そこでと開発したらしい。

キワモノかと思いきやこれがいい。清澄なつゆに舌触りのよい麺。やはり日本で改良されたものは冷やしておいしいかを研究しているのだな。
くっきりした味付けの具もこれがまたいいアクセント。
この味が意外にも日本酒や焼酎に合う。冷たいから熱いラーメンに比べると麺も延びるのが遅い。冷やしラーメンをつまみに軽く一杯が可能だ。

当地では町おこしも意識して冷やしラーメンを推しているらしいが、残念ながら全国展開は見えない。ずっと以前によく立ち寄る出先に店があったのだがいつの間にか撤退してしまった。この店で一杯がよかったのに。
全国展開している讃岐うどんの後塵を拝しているといわれても仕方あるまい。夏以外のメニュが弱いのか、なにかインパクトが薄いのか。

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冷やした麺といえば文字通り冷麺がある。

本来は韓国の麺である。それが岩手盛岡に伝わり独自の発展を遂げて名物になったと聞く。岩手のは食べたことがないので今回は論評しない。
どろっと溶いた澱粉の生地を穴の空いた器具に入れ、沸騰した湯の上で押し出すことにより麺になる。澱粉であるから食感はタピオカに近いように思う。
合理的な方法ではあるが、求道者的な手打ち蕎麦に比べると安直な方法であると思われるかもしれない。だが蛋白質や繊維質に欠ける澱粉では麺帯として練り上げることはできないのである。

これもどうかなとは思うのである。
まず先に挙げたのと同じ理屈で具を盛るのが嫌だ。
しかも麺自体に味や香りがない。澱粉で歯ごたえと食感を出しているが、味や香りはたれに頼っている。これがまた甘くてくどいたれだ。麺食いにはどうにも。なんでも混ぜて食べてしまう韓国の食文化との違いということであろうか。
ことに、具にキムチを使うことがどうにも。キムチの汁を入れるものもあるとか。キムチがまずいというのではないが、なんでもキムチの味になってしまう。あの味付けがいいと言う人に麺の風味と言っても理解はされまい。

もう一つ大きな欠点がある。
たいてい韓国風焼き肉屋でしか食べられない。この韓国風焼き肉屋というのも日本の在日韓国人が考案したものだそうで複雑なんであるが。
締めとして冷麺を食べるのが一般的ではある。だが、すでに満腹で麺なんて入らないし、冷たい麺なら食べてもいいかと思ってもあの具はいらない。
一番おいしく食べられない状況でしか提供されないのである。

私は韓国風焼き肉は好きではない。薄く切って濃くて甘い味付けでは肉でも油揚げでも変わらない。それならステーキを食べたい。
そこで焼き肉屋に行っていきなり冷麺を食べるのが最適解なんだが、それはなかなか躊躇することではある。注文前にコンロに点火されて、さあ注文はと問われたら、冷麺だけとは言いづらい。

まぁそこまでするなら天ざるを食べに行くしね。

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最近は冷製パスタなるものも一般化した。
かつて私はパスタは水にさらしてはならぬと読んだ記憶がある。古くからある冷たいパスタとしてマヨネーズであえたスパゲティのサラダ、マカロニのサラダなんてものがあったが、正直なところ「貧」を感じさせる料理であった。懐かしくはあるがうまいもんじゃない。

ところがパスタは冷たくなっておしゃれになって変身した。最初は驚いたが食べてみればおいしい。私にパスタは水にさらすなと説いたあの本は一体なんだったのか。

だがいくら冷たいパスタでも「ああ暑いから食べたい」という食べ物ではない。熱いパスタもある中での選択肢の一つであり、冬でも食べる。

冷たいパスタのいいところはしゃきしゃきの野菜やおいしいオリーブオイルがあうことである。この場合具は歓迎である。この辺が他の麺と姿勢が違うところである。たれのあるなしが関係するのか。
シンプルなパスタも歓迎であるが、むしろこれは熱い麺でこそ味わえる。ペペロンチーノ最高。熱いパスタにパルメザンも最高。

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また和風の麺に話を戻す。
讃岐うどんの定番で冷やしうどんというのがある。
流し素麺というものもある。
流さなくとも素麺や冷や麦は水を満たした鉢で供されることが多い。

これが納得いかんのである。

なぜ、ざるなりせいろなり、水を切る容器で供さないのかがわからない。
要するにつけ汁が薄くなるのである。
よく水を切って食べればいいのかもしれないが、そもそもそれに意味があるのか。最初から水を切るのと何の違いがあるのか。麺がぬるくなったりくっついてしまうほど放置する食べ方ではいかん。そんなにゆったり食べていれば水につけていても伸びきってしまう。

リズムよくつるつると食べていれば水がつけ汁を薄める。薄まること前提で濃いつけ汁にして毎回捨てる手もあるが余りに無駄だ。
ざるに盛る、せいぜい氷を配するくらいでいいのにと思う。

流し素麺が涼感たっぷりというのもわからんではないのだが、個人でやるならまだしも外食で意味があるのか。
安直なところでは回転式の流し素麺機なるものを使うそうな。意味がない。
もうちょっと凝ったところでは竹樋に水を流すのであるが、裏方で素麺を流す人が流れ作業というかなんと言うか風情がない。
本来であれば竹樋を借りてつれどうしで素麺をゆでて流すとか遊びがあってもいいと思うのだが。子供連れのキャンプでやってもいい。

この流し素麺あるいは水に浸かっているいる麺には終わりがみじめという問題もある。

ガラスの鉢に水をたたえて出された素麺。つゆが薄まりやすいが涼味があってよしとしよう。缶詰のみかんなどどう考えても麺にもつゆにもあわない具が切れ端のように並んでいるのも華やかだとしよう。
これを食べていく。9割がた食べ進めたところで、突如料理が生ゴミに化する瞬間がある。そこまで言ったら暴言だろうか。
麺の切れ端が数本、具がいく切れか、麺から出た澱粉で若干にごった水に浮いている。大変にがっかりした気持ちで食べ終わるのである。
水に浸かった素麺の場合、おいしいのは最初の2割だ。ざるに盛ってくれたら最後の一本を追いかけるのも楽しいのに。

流し素麺とて同じだ。
ぐるぐる回る機械の流し素麺ならぬ、卓上回転素麺は最初から惨めだ。
本当の流し素麺の場合でも、流れから掬い上げるところは涼味があっていいとしよう。だが、ここに2方式があるのだ。

せいぜい3〜4人の少人数客に一本の竹樋をあてがわれて店員が流す「店舗型(私が名づけた)」と、一本の竹樋に大人数がとりついてどんどん流す「イベント型」がある。
店舗型はまだ平和だ。たいてい麺を結んでバラケないようにして、食べ具合を見計らって流してくれる。取り損なってしまうことはない。
だが、イベント型は困る。人数は多いし、たいてい流すほうも素人だ。
ちょびちょびと少しずつ流せばいきわたらない。どばどばと大量に流せば取り残しが出る。少なくても「どうぞお先に いやいやお先に」なんて譲り合っていたら流れ去ってしまう。

流れ去った先に何があるか。たいていざるを仕込んであるのではなかろうか。食べ物を捨てるのはいけないことだ。だが、どうしても下水口という言葉が浮かんでしまう。きちんと専用のざるに盛られた素麺は料理なのだが、プラスチックかステンレスのざるに溜まった素麺は。。。。
水は池や沼に放流して、取り損ねた麺を鯉が喜んで食べるなんてのが美しいのだけど、やっぱりそれだけでも水質汚染になるのだろうな。

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だんだん「まずいものの話」になっているな。
そもそも麺とはなんぞや。もともとの中国語では日本で言う粉物くらいの広い概念と聞く。穀物の粉で作ったら麺であるだとか。

まぁそこまで広げずとも細長く無くても麺だとすると冷たくしておいしそうなものがある。
きしめん、あれは幅があるけれど麺じゃないという人はほとんどいまい。
冷やしたきしめんをざるに盛ったらそれはもう間違いない。
ところが丼に盛ってつゆをぶっ掛けてもいいのである。蕎麦やうどんよりいい。ことに細かい具、揚げ玉やワカメ、シラス干しなどを使うと絡み具合がいい。あの形状ゆえであろうか。

もっと幅が広いものがある。北関東あたりだったか記憶が定かではない。やたら幅が広い麺で、15cmくらいはあろうか。広げて箸で持ち上げようとすると先端から手許まで広げても足りない。
食べたことがないのだが、見ただけで食感が想像される。これはうまいぞと。
若干柔らかめに茹でてきりっとひやしたところを、つゆにさっとつけてほおばりたい。きっと口の内側の肉なのか麺なのかわからないくらいの食感ラビリンスになるに違いない。ああ食べたい。


逆に麺は穀物でなければいけないのか。
細くて冷たくて細長いといえば、そう糸こんにゃく。。。違う、ところてんである。
正直、ところてんはあえて食べようとは思わない程度の位置づけである。
普通に売られているのはパック詰めでほぼ無味のぷるぷるした物体である。
だが、あの雁屋哲氏によると、自ら海藻を干し(水をかけては干すを繰り返す)、煮溶かしてつくるところてんの風味は市販品とは別物という。海藻の風味たっぷり。
市販品とて原料の元をたどれば同じく海藻なのだが、工程が違うらしい。
何度も水にさらしては干すというところは同じらしい。工場で人工的に干すのと天日干しの違いはあるかもしれない。
それを煮溶かして型に流して固めるところもおなじ。
ところが市販品は一度そこで乾燥してしまう。時間をかけて凍って溶けてを繰り返して干す。するとおなじみの棒寒天が出来上がる。様々な料理や菓子でも使われる。市販品のところてんは棒寒天を使うらしいのだ。
乾燥の際に風味、ある意味雑味が消えて純粋になる分、ところてんにすると味わいに欠けるらしい。棒寒天が悪いものというのではない。その純粋さが味を邪魔しない場面もあるのだ。

さてところてんの食べ方というと二杯酢を使う地域と黒蜜を使う地域がある。二杯酢に胡麻や薬味を加えることもあるし、蜜に黄な粉を加えることもある。
私は断然二杯酢である。ところてんに黒蜜ってあんた。。。。三日履いた靴下にウスターソースをかけたくらいに意味がないと思うのだが、おいしいと思う人がいるからメジャーなんだろう。信じがたい。
ところが、二杯酢陣営がどうも黒蜜陣営ににじり寄っているような気がする。
二杯酢といえば酢と醤油。ところてんには若干酢が強めでさらっと食べたい。ところがパックについているたれの表示を見ると砂糖だのアミノ酸だのが入っている。甘味や旨味を足しているのである。海藻の風味がない上に甘くてくどいたれをつけるのか。
かといって手作りできるわけでなし。特定の海域の近くに住んでいなければ原料の入手すら困難だし、そもそもそこまでするほど好きでもない。
やっぱりそれなら天ざるを食べる。


そういえば、先ほど「糸こんにゃく。。違う」としたが、糸こんにゃくにも可能性があるのではなかろうか。
刺身コンニャクというものがある。あれと同じ理屈で麺を作ればいい。というより、そうした商品はすでにある。食べたこともある。
当然、無味であり何をつけて食べるかの勝負ではある。
インパクトをつけたいと会社の人は思うのだろうな。押しなべて甘くてくどい。
これを食べる人は清澄かつ冷涼な雰囲気を味わいたいのではなかろうか。それをつるつるの糸こんにゃくに託して。
もっときりっとした清澄な出しに薄口醤油のつゆをたっぷり。そこに吸い口として針しょうがなんて食べ方の方がおいしいと思うのだが。

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ま、冷たい麺についてだらだらと書いてみたが、この夏冷たい麺を食べて夏ばてを乗り切っていただければ。
と、考えてみると夏ばてしたらいかんと食いつつ夏太りするのが私である。暑かろうがしんどかろうが食欲は衰えない。いや幸せなことではあるがと下腹部を見下ろすのである。

posted by Mozzo at 05:45| Comment(0) | うまいものの話 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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