2015年11月29日

介護を事業として拡充すべし

誰が犯罪者なのかと考えさせられる報道。YTVから引用するが気の毒なので実名は伏せる。

====
介護苦か 利根川で心中 両親死亡、娘逮捕

埼玉県の利根川で高齢の夫婦が死亡しているのが見つかり、警察は47歳の三女を逮捕した。警察は、三女が認知症の母親の介護疲れなどから、無理心中をはかったとみて調べている。

22日、利根川でXXXさん(74)と妻のYYYさん(81)が死亡しているのが相次いで見つかった。現場の近くで、三女で無職のZZZ容疑者が見つかり、母を溺れさせ、死亡させた殺人などの疑いで逮捕された。

警察によるとZZZ容疑者は、2人と一緒に車に乗り、川に入ったものの、途中で進まなくなり、3人で歩いて川の深い部分に向かったと話しているという。YYYさんは、10年程前に認知症になり、XXXさんは最近になって体調を崩し仕事を辞め、「死にたい」と話していたという。(11/23 12:16)
====

ここまで追い込んだのは誰だと言いたい。
無職、三女、47歳、このキーワードだけで苦境が想像できる。
三女ということは上には少なくとも姉二人、兄もいたのかもしれぬ。それを一身で受け止めて来たのだろうか。無職だから介護を押し付けられてきたのか、介護を押し付けられてきたから就職できなかったのか、と想像させるものがある。
むろん、その兄姉たちのことが報じられているわけではないのだが、そう想像させるものがある。少なくとも共同して介護していたのであるなら、認知症で目が離せない親を連れて無理心中を図るようなことを見逃すはずはあるまいに。

もちろんその兄姉を単純に責めるではない。
兄姉の勤める会社で「世話ができる家族がいるんですよね、介護休暇とか認めませんね」ということもあったかもしれない。なかったかもしれない。
また公的な施設やサービスに頼ることはできなかったのか。
「世話ができる家族がいるんですよね。サービスは受けられません」ということがあったのかもしれない。

結局家族の一部は稼ぎ、一部は介護して、ぎりぎりのところだったというのが私の想像である。実際のところはわからないし、この事件の当事者を批判したいわけじゃない。日本にあるだろうそうした例をこの事件に仮託しただけである。

「介護できる家族がいれば家族が介護すべき、支援はしないもんね」という構造に間違いはないのだろうか。

家族も親族にも頼れず孤立無援の老人のほうがまだましなのかもしれない。追い詰められた子、あるいは配偶者が介護できるからと押し付けられていないか。それで両者共倒れで自死を選ぶしかない状況においつめられていないか。
この事件の場合、「いやぁ疲れちゃったんで何週間か面倒見てもらえませんかね」といえる先があればこの悲劇はなかったのかもしれない。

====
知り合いに50歳代の男性がいる。
故あって現在独身、認知症の母親の介護に追われている。
知識のある人なので、公的サービスなど利用できるものはすべて利用しているのであるが、そうしたサービスに任せきりで仕事に専念できるというような状況にはない。働けない時間帯がある。稼働時間に制限をつけざるを得ないと仕事が限られてくるのが現実だ。報酬が低く不安定な派遣の職を選ばざるを得なかったようだ。

有能な人なので正社員・フルタイムで働けば介護費用もかなり賄えようと思うのだが、公の仕組みはそれを許さないらしい。家族が介護するのが前提ということらしい。

彼は言う。介護では便の始末まで必要だ。汚いからいやだということはない。他人の物を仕事として始末するなら何とも思わない。これが母親の姿と思うとつらい。と。母親が下半身丸出しで世話されるがままというのは息子としてつらいというのはよくわかる。

もし、この男性が介護職に転身したら、現在母親を介護している分よりも多くの人の面倒を見られるだろう。そこで得た収入と公的扶助で介護ヘルパーを雇うことができれば、物理的にやっていることは結局変わらなくとも精神的にはずっと楽になることになる。
さらに、介護の技術を持った職業人が増えることになる。いくら家族を介護した経験があっても職業人でなければ介護の人材が増えたことにはならぬ。
少しだけ公がこうした流れを支援してくれたら回るのに、残念ながら介護職に専念してわが親を介護サービスにゆだねられるほどの収入は得られない。

なにか一部の人は家族が介護してこそ愛だみたいなきれいごとをいう人がいる。
介護はプロに任せる。そのプロも追い詰められて老人を虐待するような状況においてはいかん。
介護を家族の中に紛れ込ませてしまえば見た目の社会保障費も減らせると思う阿呆の役人もいるんだろう。
今やるべきは、介護を事業としてどんどん膨らませてプロを育て、家族に埋没した介護需要を費用化することだ。見た目社会保障費が膨らんだようにみえるが、それにより介護が効率化し、産業化し、介護でもそれ以外でも働ける人が増えれば何の問題もないのだ。

posted by Mozzo at 14:10| Comment(0) | TrackBack(0) | まじめな正論! | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年11月20日

インフルエンザワクチンの接種 義務化しよう

今年もインフルエンザの予防接種をした。
予防接種はしたほうがいいというのはわかっていてもなかなか動機づけできないものである。
金額的に決して安いものではない。健康保険が使えないから全額負担である。今回は何やらワクチンの需給が逼迫しているとかで、お高めということだった。
で、接種したからと言って特段元気いっぱいになるわけではない。それどころか体調によってはダメージがあることもある。外からの異物と戦う免疫を作るのだからそりゃダメージもあるだろう。
で、必ずしもインフルエンザを避けられるわけでもないらしい。ウイルスには型があり、予想を外すと完全な効果は望めないらしい。とはいえ、感染しても症状が軽くなるといわれているが、感染した自分としなかった自分を比較できるわけではない。
で、接種しないとインフルエンザに必ずかかるというものでもないのが厄介だ。
私自身は接種するようになったのはここ数年なのだが、それ以前とて毎年かかるわけじゃない。10年で1回程度か。手洗いとかうがいとか人ごみに行かないとかマスクとか、基本的なことをやっていればそうそう感染しない。

ものがものだけに効果が実感できるというのはむつかしいことだが、値段相応になにかお金をかける気になる何かがあればと思わないではない。

=====
ワクチンに効果はないとか、いやあるとか、議論はある。
そこは有識者に議論してもらうとして、公衆衛生に国民が協力するという意味では今の見識では我々は接種したほうがいいんだろう。感染する側も感染させる側も紙一重で、そこにかかわることが周囲にいる何人、何十人に迷惑をかけることになる。
何十人かが感染することに伴う経済損失は大きい。それは別としてもインフルエンザも対症療法でそこそこ死なない病気にはなったが、基本放っておけば死ぬ可能性のある病気であることは変わりない。経済損失よりも精神的圧迫のほうが大きい。

接種をしても大したマイナスはない。お金が痛いのと体調によっては若干こたえる程度である。
ゆえに健康保険は使えないが会社で補助をするという場合もある。

前述のとおりワクチンだけが対策ではないが、うつされない、うつさないことでトータルとして社会全体へ感染が蔓延することを防ぐことができるのである。
その意味で国民全員がワクチン接種を行えば流行を抑え込むこともできるだろう。
仮に感染しても適切に休養、治療を行えば死ぬ病気ではない。
だが、高齢者や持病のある人には致命的な劇症になる可能性があるし、小児の場合治療薬の投与で異常行動につながるケースもあるという。接種できる人がみんな接種すればこうしたリスクも減るだろう。

と、かようにワクチンを接種することはよいことだと思うのだが、それに逆行する動きがある。

あえて接種する動機に欠ける層があるのだ。
当然ある程度接種を奨励するような大きな会社に勤めていないと動機も薄れる。
大きな企業だと産業医がいて、事務所や工場まで出張して接種してくれる。勤務中に可能であるので手軽である。補助もある。
ところが中小企業ともなると、自分で自分の時間を使って接種せよという。病院の営業時間は勤務時間だ。補助があるならまだましだ。

これが雇用されている人ならまだしもなのである。おすすめすらしてくれなくなる。
それでも個人商店主などでは「体が資本」「代わりはいない」という意識があるからまだしもである。薄給で厳しい条件の非正規雇用となると問題だ。
まず現場に出てくることが重視されるので、有休をとって接種なんてありえない。首になる。時間が変則的で病院がやっている時には出られないこともある。もちろん収入も厳しい。
「自分はインフルエンザにはかからない」という運にかけるしかないのである。

しかも、病欠しようものなら首という現場もある。インフルエンザで高熱が出ていようが出てこいと判断する上役もいる。欠員を出すことが一大事なのだ。

当たり前の労働衛生がない職場もまだまだ現代日本にあるのである。

予防だろうが治療だろうが、病院に行ってその日の勤務に穴をあけても「あなたの能力がほしいから問題ありません」と言われるようなごく一部の労働者以外は毎日定時に出てくることが求められているわけだ。
こういう局所的な価値観で組織を動かしていると日本全体の弱点になる。

もちろん派遣業を営む人の善意とか、社会意識に期待することなんてできない。
ルールとして義務化するしかないのではなかろうか。
posted by Mozzo at 00:21| Comment(0) | TrackBack(0) | まじめな正論! | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

障碍を生み出さないことと障碍者の尊厳を守ることは別だ 議論を封殺するな

どうも感情的な圧力が本質的な議論を妨げているように見えて仕方がない。
何度も同じ話を書いているのだが。

引用ここから====
障害児の出産「茨城では減らせる方向に」 教育委員発言

茨城県の教育施策を話し合う18日の県総合教育会議の席上で、県教育委員が障害児らが通う特別支援学校を視察した経験を話すなかで、「妊娠初期にもっと(障害の有無が)わかるようにできないのか。(教職員も)すごい人数が従事しており、大変な予算だろうと思う」と発言した。

発言したのは、今年4月に教育委員に就任した東京・銀座の日動画廊副社長、長谷川智恵子氏(71)。発言を受け、橋本昌知事は会議で「医療が発達してきている。ただ、堕胎がいいかは倫理の問題」と述べた。長谷川氏は「意識改革しないと。技術で(障害の有無が)わかれば一番いい。生まれてきてからじゃ本当に大変」「茨城県では減らしていける方向になったらいい」などとした。

会議後の取材に、長谷川氏は出生前診断の是非などについて「命の大切さと社会の中のバランス。一概に言えない。世話する家族が大変なので、障害のある子どもの出産を防げるものなら防いだ方がいい」などと話した。

橋本知事は取材に「事実を知って産むかどうかを判断する機会を得られるのは悪いことではない」とし、長谷川氏の発言に「問題はない」と話した。(酒本友紀子)
引用ここまで====

障碍者の尊厳を損なうとかなんとか批判が集まり、教育委員も県知事も発言を撤回したそうだ。なにかがおかしい。批判と圧力に屈して正論を引っ込めたのであれば大いなる後退だ。

障碍者に面と向かって反論しにくい雰囲気があるように思う。当の障碍者は偏見も思い込みもなく議論OKなんだが、それを否定する目の吊り上がった人たちがいるのである。議論をさせろ。

当たり前の話だが、障碍者として生まれることと障碍者として生まれたら人として尊重され必要な支援が受けられることは次元の違う話だ。
なにも今生きている障碍者を抹殺すべきだとは言っていない。

まだ自我もはっきりしない時点での胎児を、できることなら受精卵の段階でそれを検知し、避妊なり堕胎なりという方法で選別することが一概に悪いこととは言えない。私はいいことだと思う。

命の選別は神の領域だから人間がふれていいものではないという考え方をする人がいる。別に私の考えを押し付けるわけではないがいかにも恣意的で感情的なものの考え方だと思う。少なくともそうは考えない人に押し付けないでほしい。

命を選別するということは不自然といえば不自然ではある。多くの生命は(野生生物は)自然の摂理により常に選別されてきた。その結果が進化であり、現在の豊かな生物種があふれる地球なのである。
その中で選別するのは人間だけではないか、不自然ではないかという考え方もあろう。人間が人間を選別するだけではなく、家畜や栽培植物のように生物を人間の都合の良いように選別することもしている。

家畜は選別するのに人間は選別してはいかんのか。恣意的ではないかという論理も成り立つ。どういう論理で人間だけは選別してはいかんということになるのか。
家畜や栽培植物は常に品種改良という形で選別されている。ミルクをたっぷり出す牛、毛をたっぷりはやす羊、大きな果実、柔らかく大きく実る野菜。すべて品種改良だ。
品種改良の手を止めるとあっという間に先祖返りするそうだ。
栽培種の大根が野生化した浜大根というものがある。よく見れば大根だが、葉が茂るばかりで根は細く筋張っている。肥料が足りないのもあろうが、先祖返りしたのだろう。
人間の選別を否定するなら、利用しやすく経済的な家畜や栽培植物も否定されてしかるべきではないか。穀物をはじめ収量が落ちて肥大化した人類は飢えて人がばたばた餓死していくのが正しいのではないか。気持ちいところだけ主張するのはおかしくないか。

また、遺伝的な障碍を持つ場合、多くは生まれず流産するか、生まれてもあっという間に死んでしまうのが自然だ。それが自然淘汰というもので、それによりすべての生物はエラーの起きた遺伝子を排除し、優れた遺伝子を残すことができるのである。
ところが人間は医療技術を駆使し、「自然なら死ぬ」子を生きさせる。さらに農業技術で栄養たっぷりの状態にし(飢餓寸前が自然)、流通技術で世界に広くあまねく文明的生活を広めている。
つまり、「自然なら死ぬ」命を「無理やり生かす」という選別をやっているのである。
自然をよしとするならば選択肢は二つである。
一つはすべてを自然にし、つまり医学も農業もすべてを否定し、原始時代以前に戻ることである。多く生み多く死なせる。優れた子だけが生き残る。
もう一つは人間の英知をもって自然の淘汰を再現することである。
「この命は自然であるなら淘汰されていた」と判断し、なるべく苦しみがないように淘汰する技術である。

自分が気持ちの良いことだけ押し通すのはあまりに不自然で傲慢だ。

私の考えが絶対に正しいというつもりはないが、わかりやすく感情的な批判は議論を封殺する。

安価で確実で早い検査方法を確立すること、安全な避妊や堕胎、受精卵選別技術を提供することを議論できなくなる。
その技術を待ち望んでいる人もいるのに。
ことに遺伝的リスクがあるカップルの場合、なんとかコントロールして遺伝リスクを避けることを望んで何が悪いと思う。
何も嫌がる人を受精卵選別やら出生前診断に引きずり出すとは言わない。それを望む人を邪魔しないでほしいのだ。

posted by Mozzo at 00:00| Comment(0) | TrackBack(0) | まじめな正論! | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
×

この広告は1年以上新しい記事の投稿がないブログに表示されております。